娘のサンフランシスコからの里帰りである。
陽射しの強い真夏日の夕方だった。 ふたりを迎いに成田国際空港に張り切ってひとり空港バスで2時間もかけてでかけた。 出迎えの人込みの中で見失わないように緊張して到着ロビーのテレビ大画面と目の前の到着者の人混みの流れを見ていた。 「いた」声のない声で手を振った。
こうして、孫息子との日本での楽しい生活が始まる筈だった。
里帰りをして10日程が過ぎた頃、娘が突然緊急入院となり孫息子がひとりお爺ちゃんとお婆ちゃんの家に取り残された。 そして、入院経過をみて「退院後のケアを考えると米国への帰国が良い。」との医師の判断で急遽米国へ戻ることになった。婿を日本に呼び寄せ、早々に娘を米国に向けて立たせた。病人と一緒に連れて帰るには余りに幼な過ぎる2歳6か月の孫はお爺ちゃんとお祖母ちゃんの処に残った。日本での10日間の入院も泣きもせず、何ひとつぐずらず母親のいない生活を我慢したものだ。
これまでの生活の言語の中心は米国に住んでいるアメリカ人だから当然ながら英語に決まっている。 日本語は母親との会話のみに限られていた。 英語の生活から全てが日本語の生活に大転換をしたのだ。お婆ちゃんはまだ英語を話すから許せるが、お爺ちゃんに至っては日本語しか話さない。(影の声:おじいちゃんは君の日本語の先生なんだよ。英語はできるんだが我慢してるんだぞ!)
おじいちゃんは「僕を愛して呉れて、信用はできる」が日本語なので何を言っているのかが分からない。 こう言う関係のなかでのお爺ちゃんと孫息子の奇妙な生活が始まった。 信頼を失わない様にまず気をつかった。
だが、不幸にも、これに重なるように、また事件が起きた。
その夜、孫の寝床を急遽作るために邪魔なものを動かしていた。その急いだ勢いで立てかけてあった和机を引っ掛け、机は傍にいた孫の額をバットで直撃したように投打し、みるみるうちに赤く肥厚、救急車より直接行った方が早いと病院の緊急外来に車で運び込んだ。CT撮影するなど大騒ぎ。この救急外来の直ぐ上の2階には前日の昼間、孫の母親の娘が緊急外来で入院している。 娘には余りにも酷な話で伝える訳にもいかず、お爺ちゃんの一存で黙りを決め込んだ。娘が動揺したら更に、二重災害になるかねないらである。 勿論、他言無用。
慌ただしく婿を迎え、娘を緊急退院、緊急帰国と孫息子の存在を一時忘れたかのように騒然とした中で成田国際空港に前泊させ無事に自宅に戻ることができた。その3か月後に孫娘が元気な産声を上げた。
日本で、お爺ちゃんと、3か月も、母もいないで我慢した孫息子と交流できたのは誰かが試練に選んだのかも知れない。感謝しかない。
写真は1.夜間面会時間に病室へ駆ける孫。2.母と病室で語る3.毎日お爺ちゃんと遊びにお出かけ・・・。18年も昔話になたとは・・・。
遊びは次回に・・。終わり