気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

あわてふためくお爺ちゃん奮闘記

2019-01-29 12:32:42 | エッセイ

 娘のサンフランシスコからの里帰りである。

 陽射しの強い真夏日の夕方だった。 ふたりを迎いに成田国際空港に張り切ってひとり空港バスで2時間もかけてでかけた。 出迎えの人込みの中で見失わないように緊張して到着ロビーのテレビ大画面と目の前の到着者の人混みの流れを見ていた。 「いた」声のない声で手を振った。 

 こうして、孫息子との日本での楽しい生活が始まる筈だった。 

 里帰りをして10日程が過ぎた頃、娘が突然緊急入院となり孫息子がひとりお爺ちゃんとお婆ちゃんの家に取り残された。 そして、入院経過をみて「退院後のケアを考えると米国への帰国が良い。」との医師の判断で急遽米国へ戻ることになった。婿を日本に呼び寄せ、早々に娘を米国に向けて立たせた。病人と一緒に連れて帰るには余りに幼な過ぎる2歳6か月の孫はお爺ちゃんとお祖母ちゃんの処に残った。日本での10日間の入院も泣きもせず、何ひとつぐずらず母親のいない生活を我慢したものだ。

 これまでの生活の言語の中心は米国に住んでいるアメリカ人だから当然ながら英語に決まっている。 日本語は母親との会話のみに限られていた。 英語の生活から全てが日本語の生活に大転換をしたのだ。お婆ちゃんはまだ英語を話すから許せるが、お爺ちゃんに至っては日本語しか話さない。(影の声:おじいちゃんは君の日本語の先生なんだよ。英語はできるんだが我慢してるんだぞ!)

 おじいちゃんは「僕を愛して呉れて、信用はできる」が日本語なので何を言っているのかが分からない。 こう言う関係のなかでのお爺ちゃんと孫息子の奇妙な生活が始まった。 信頼を失わない様にまず気をつかった。 

 だが、不幸にも、これに重なるように、また事件が起きた。

 その夜、孫の寝床を急遽作るために邪魔なものを動かしていた。その急いだ勢いで立てかけてあった和机を引っ掛け、机は傍にいた孫の額をバットで直撃したように投打し、みるみるうちに赤く肥厚、救急車より直接行った方が早いと病院の緊急外来に車で運び込んだ。CT撮影するなど大騒ぎ。この救急外来の直ぐ上の2階には前日の昼間、孫の母親の娘が緊急外来で入院している。 娘には余りにも酷な話で伝える訳にもいかず、お爺ちゃんの一存で黙りを決め込んだ。娘が動揺したら更に、二重災害になるかねないらである。 勿論、他言無用。

 慌ただしく婿を迎え、娘を緊急退院、緊急帰国と孫息子の存在を一時忘れたかのように騒然とした中で成田国際空港に前泊させ無事に自宅に戻ることができた。その3か月後に孫娘が元気な産声を上げた。

 日本で、お爺ちゃんと、3か月も、母もいないで我慢した孫息子と交流できたのは誰かが試練に選んだのかも知れない。感謝しかない。

写真は1.夜間面会時間に病室へ駆ける孫。2.母と病室で語る3.毎日お爺ちゃんと遊びにお出かけ・・・。18年も昔話になたとは・・・。

遊びは次回に・・。終わり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


突然!ひとり日本に残った2歳の孫息子

2019-01-19 16:29:04 | エッセイ

   年が明け1月初旬の頃。

 近くの書店まで服を着替えて散策がてら出掛けることにした。 杖を右手に玄関の扉を開けた。 昨日のリハビリのせいなのか、背筋が伸び歩幅も大きく背が伸びたようで、杖がむしろ邪魔のようだ。 もう30年超の古木になりかけてきた桜並木の下を通り抜けて大通りにでた。

   書店で立読みをして書店を出たのが小1時間も過ごしたのか、夕暮れが迫り、桜並木の西の向こうに夕日が茜色に染まっているのがみえた。 帰りの路すがら、孫息子から「新年の挨拶の国際電話を貰ったがリハビリに出掛けていて留守をしていた」のを思いだした。大学の寮生活だとなかなか電話はむりだ。留守居していて悪かった。もう2年は逢っていないな・・・。  

 歩きながら、或る出来事を想いだした。 我が家には米国に孫がいる。 ところが、孫は国籍が日本と米国の二重国籍である。 これから語る昔話は孫息子と爺の二人だけが味わった話である。 

 この初孫は日本で言えば14日に成人式を迎えた青年に成長していた。 いまは西海岸の大学一年生になっている。 

 話の舞台は、1999年の初秋、サンフランシスコからゴールデンゲートブリッジを渡りノバトの閑静な芝生に囲まれた住まいのあったコートから始まった。ノバトはカリフォルニアの北部に位置し、あの「ナパバレイ」までハイウエイR100で一路北上と近かった。 また、アルフレッド・ヒッチコック映画「The Birds]の撮影地と劇中レストランまでも近いロケ-ションにあった。 

   これからの主人公である孫息子との初の出会いは、初秋のサンフランシスコ国際空港が好天気に恵まれた朝でした。 当時の到着口は質素なものだった。 娘の迎えで初めて写真でない生の初孫に会えた。「火星ちゃん・・が俺の孫か・・」が第一印象である。生まれて6か月になる。 ここから他愛もない孫と爺との二人が歩いた舞台が始まったのである。

 娘が日本語学校の教務主任の仕事をしていたので、勤務時間中は市内を乳母車に載せて孫息子の火星ちゃんを坂道の多い歩道を押して歩いた。うっかり手でも離そうものなら転がる程坂道の登半がきつい地点もあったので油断はできなかった。。土曜のせいもあり母娘連れが多く「cute」と女の子などは叫んで寄って来る。 婿の弟が盛んに「Babby GAP」モデルにと叫んでいた。お爺ちゃんは腹の中で「火星ちゃんのモデルじゃいやだね」と孫息子に人には聴こえない声で声を掛けていた。子供の純真な顔は正に「cute 可愛い」のひと言に尽きる。ましてや、俺の血が流れいると思うとひとしきり愛しさが強く涌くものだ。 通り過ぎても戻ってきて肌に触れんばかりに可愛らしさを身体一杯に表現をする。一体何人に言われたかしら・・・。うれしいのを通り越して慢性化してくる。それにしても、余りにも表現力が豊かな国民だ。 こどもはみんな「cute」に決まっているのに・・・。 騒ぎ立てるのが仰々しい。 でも、何か嬉しいものだ。世の爺も同じだ。

 こうして、2年後の日本に里帰りした或る日、事件が起きた。         母国語の英語も習得中で、ましてや日本語は母の胸に抱かれている折に耳にする言語でしかなかったと推察する。

 突然、母と別れ日本に一人ぽっちに残され言葉の分からない中での爺と二人で遊んだ物語が始まる。 

続く。