気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

大きくなった孫は・・・幼い時の想い出を残してくれた

2017-06-26 19:00:05 | エッセイ

 ひとり留守居で所在なく雑然とした自室にいた。

 壁には孫息子が8歳頃に私の顔写真を撮って、それを使ってパソンでデザインした「父の日」のHappyFather's Dayのカード(A4サイズ)が貼ってあるのに気づいた。「何で今頃きづくの・・・?」「だって、もう10年も古い頃のものだよ」と独り言。

 海の向こうの国では、小学校低学年から宿題がパソコンでの交信だから簡単なんだろうと思うが、爺レベルでは驚きだ。「そう言えばカードはお祝いのレストランで呉れたんだ・・。そうそう、あの事件を起こしかけた中華店だったな~・・」

 事件ってなんだい?

まだ、孫息子が5~6歳の頃だったと思う。有名店なので店内は混雑をしていた。娘が「お爺ちゃんトイレに付き添って・・・」と頼まれた。子供の誘拐もあるのでひとり歩きはさせない。RestRoomと書いてあるドアーを押して中に入った。 まだ背が低いので囲いのある処にはいった。「おじいちゃんはここにいるよ」と、声を掛けた。 日本と違い囲いの裾はない。したがって、使用中は2本の脚が見える。何気なく周りを見わたすと男便器がない。もしや? ここは婦人用なのか?もう、遅い。「早くして・・」と声をかけて悠然として、慌てずにドアーを押してでた。すると、店内に警報機が鳴り響き渡り奥から黒人の警備員二人が駆け込んできた。その時は既に脱出に成功していた。孫息子に言うと「おじいちゃんが間違うてるの知っていたよ」「教えろよ」娘曰く。「日本人のおじいちゃんだったので不問にしてくれたのよ。気をつけて!」失敗談が鮮明に思いだされた。

 その隣の壁には「さようなら 日本で また 会おうね!」と自筆で日本語で書いた「Good Bye !」カードがピンで留めてある。そう言えば帰国前夜に二人して「おじいちゃん 渡したいものがあります」と孫ふたりして大きな声で読み上げ最後に「楽しかったありがとう」と言うと感謝状をもらった。3週間長期滞在の遊ばせご苦労かな?  それは違う!! 爺が楽しませて貰ったのに・・・。

 その孫も、この9月には18歳の大学生と15歳の高校2年生になる。大きくなると校友関係や遊びや学校行事などと忙しくなってくる。こういった小さなことが後日思い起こし、忘れられない想い出となり心を癒してくれるから不思議だ。

小さい孫とは「父の日」に夕食会を楽しみました。この孫とも何時しか大きくなるかとうれしくもあり、寂しくもあるものですね。

「ただいま」と、妻の元気なご帰還の声が階下の玄関先から聴こえてきた。 「御帰りなさい」と返事をした。

机の上には孫の作品がまだある・・。

終わり  


記憶って忘れないものですね

2017-06-21 15:37:52 | エッセイ

 数か月になろうか、かつての同僚がやっている蕎麦屋で共に苦労した仲間の集いがあった。 いつしか亡くなられた先輩からお声がかかる齢になった。 後輩と言っても若くはなく後期高齢者に手が届く老人である。 突然その中のひとりが皆に聞いて聴いてとばかりに言った。

  「昔の話だけど、亡くなった先輩と3人でドライブした時、ず~とふたりして軍       歌を唄っていて参ったよ」

と、笑いながら懐かしそうに言った。いとも簡単に昔と言うが50年も遠い話のこと。 そんなことをした記憶にはないが、その可能性は高い。申し訳なかった。 新しい戦後の音楽に肌が合わず吸収ができなかったのだろう。要は時代に遅れていると言う事だね。

 私は戦時下と言われる昭和16年から昭和20年の足かけ6年間は国民学校今の小学校で過ごした。 軍国少年に冒されたとは思っていないが、何らかの影響はあったと思う。 私は日本統治領の中国・北京で軍国主義教育を受けた。本土の学校での軍国主義教育の差はあったように感じた。私はその時代に育ったこどもらしく軍歌は好きだ。 なにも歌詞に賛同などはしていない。 その歌の奏でる背景に或る時代を想い起こせるから好きなのである。唄は世に連れ・・の如く・・幼き頃、中国大陸の荒涼たるコウリャン畑に入ったり、路地裏で空へ打ち上げる爆竹を横に水平に打ち悪さをしたことが蘇る。郷愁を呼び覚ますスイッチかな~・・。 勿論、歌詞に魅かれて好きになるのも多かった。 

軍歌で好きだったのは広大な荒れ野の満州を舞台に、望郷の念を謳った「戦友」は反戦歌である。そして、退廃した世相を反映してかこんな歌の歌詞も好きだった。

「流浪の旅」の歌詞で

      昨日は東    今日は西と

      流浪の旅は   何時までつづく

      果てなき海の  沖の中なる

      島にでもよし  永住の地欲し

 自分が育った大陸だとか、ひねくれたところが・・・が好きなようだ。

終わり

眼を悪くしていて、素案が流れ失礼しました。

題を訂正し、誤解がありましたらお詫びします。

後輩は入社以来の3人組のひとりです。為念。

  

 


幼い頃、雨が降ると何故か口ずさむ童唄があった

2017-06-14 10:21:39 | エッセイ

 今日も朝から雨が降っている。 僕はいつも雨が降ると窓の格子枠から庭を眺めていた。 雨の日は悲しいぐらい静かだ。 僕の脳裏には雨音に合わせて童唄が哀調を帯びて聴こえてくる。 昭和18年頃の中国・北京での雨の日の出来事である。

 

 いまでは、雨の降る日にも想い出すことは全くなくなったと言ってよい。        70年以上も月日が流れてしまったのだから・・・。

 それが、今、梅雨の時期を迎え、母が亡くなった折に実家から寒椿の傍らに持ってきた小さな灯篭に降る雨を観ていた。 

いつもと変わらない日常の朝の風景だ。

。だが、今朝はいつもともと違う。

すらすらと、あの歌詞が口から流れでた。合っているか否かも分からないだけでなく、童唄なのかすら分からない。子ども頃と感情は今も変わらなかったが、懐かしさをもって口からこぼれでた。 

   雨がふります   雨がふる                            

   遊びにゆきたし  傘はなし

   紅緒の  木履も  緒が切れた

 何処で耳にしたのだろうか。不思議でならなかった。乳幼児の頃、母の胸に抱かれ子守唄として聴かされていたのかも知れない。母に聞いた記憶がない。 

 本当にこんな童唄があるのか・・・そして歌詞は記憶のままなのか・・。真実を知りたい。そして、調べてみた。

「あった」!!」感動した。

題名は「雨」   童謡・作詞:北原白秋とあった。 続いて2番の歌詞は 

    雨がふります   雨がふる

    いやでもお家で遊びましょう

    千代紙折りましょう   たたみましょう

この2番までを覚えていたのだ。 記憶のとおりだった。

 軍歌全盛の時代のなかで触れたこども心にも安らぎを感じさせた童唄があったのですね。 何故か悲しい調べだが何故か母の匂いを感じさせる唄でもあった。また、当時の貧しいこどもを唄った哀しい調べだったかも知れない。

しとしとと降る哀調を帯びた「雨」は心を和ませてくれて好きだった。

 その後、時折寝酒代わりに森繁久彌さんが唄う「さすらいの唄」をイヤーフォンから聴いていると、その冒頭に森繁節で北原白秋を語る詞がある。 

     悲しいけれども わしゃ男

     いやでも お酒を探しましょう

     赤いシェリーもないならば 飲んだふりして休みましょう

     みすぎ よすぎの歌唄い北原白秋

 何かが心が動かされ心を癒されます。

 こどもの頃に出会った想い出は年月と共に、いつしか消え去るものと思考していた。しかし、感情豊かに鮮明に心に残るものなのですね。 

 昨今、親が我が子を殺める記事を読み心が痛みます。労わり優しさなどに心が動かされないと言うことは心が病むでいるのでしょうか。 悲しい事です。

終わり  

 

 


10数年ぶりに、杏の木に実がなった

2017-06-12 18:20:50 | エッセイ

 梅雨宣言がされて数日が過ぎた。

 どう言う訳か我が家の庭にいまだ来ず。「チャンス到来」と妻は張り切る。「植木屋さんを入れないで好きなようにやらして・・・」と自分の仕事の合間を縫って大はりきり。こっちは応援ができない身体だ。 「自分の歳を考えなさい・・」と、言うだけの私。去年柿の木と同じく植木屋さんに剪定して貰わなかた杏の木があるのを私は知らなかった。しかも開花してるのも気ずかなった。狭い庭なのに・・。 ここ10年程前からは庭の植栽の高さは低木に伐採していて花も咲かない木であった。

 妻の声に呼ばれて行ってみると、低木になった杏の枝に熟した実がなっていた。全盛期の頃は200~300個位は実った。友人に分けて果実酒やジャムを作ったものだ。

 低木にしたとは言え一階の屋根近くには枝が伸びている。 収獲するのに脚立を物置にかけ傾斜した物置の屋根にのらざるをえなく、後期高齢者を過ぎている妻に「止めろ」と言わず「気をつけろ」と言い、熟した実を下で受け取るだけの身勝手な私だ。 久し振りの収獲に感激し重量を計ってみると何と3.3kgもあった。 ほとんどが直径が4.5cmもあったのには驚いた。 

 着替えてふたりして、砂糖の代わりにはちみつを買いにスーパーに出掛けた。戻り、早速ニジャム作りに励みました。

 庭木の剪定も妻が、杏の実の収獲も妻が、容器と蜂蜜を買いに妻が、運転も妻が。荷物持ちも妻が。天候にも助けられ、梅雨が来る直前の収獲でした。妻曰く「次からは、やはり植木屋さんに頼みましょう。伐採具も車に積んで捨てなくてすむから・・・」と余程疲れて懲りたようだ。歳には勝てぬ!

終わり  


密室で消えたアルバムの犯人を追え!

2017-06-08 00:17:25 | エッセイ

 現役の頃の我が家には子供部屋があったものの、父親の私には部屋がなかった。と、厳密に言えば嘘になる。 何故なら、単身赴任中だったので赴任先の部屋は全室私の書斎部屋になっていたからである。 どれ位の広さ? 78平米はあったかも知れない。単身用ってないから贅沢だ。 

当然のことながら、退職し自宅に戻る時、この部屋に納まっていた余計な物も持ち帰って来たのである。 幸いにも、娘の部屋が早くからアメリカに留学し、そして結婚し空き部屋となっていた。その部屋が私の書斎部屋となった。 

 これを機会に身辺整理を始めた。 着る事のなくなった背広とコートの大部分、蔵書類、写真アルバム、メモ書き資料、記念に収集した品などである。本も全集ものもBookOffに電話で処分できるとは便利になっていた。ただ、文学全集72巻がいくら古いとは言え800円の安さには驚いた。海軍予備士官やD51機関車、月面探査などの記録写真集なども早々と処分をした。惜しかった。少し早まったかな。 

 狭い部屋が身辺整理で空間に広がりを見せた。 息子が残した書棚付き勉強机そして娘が残した木製の勉強机2台をL字型に組み45度に椅子を回転させるだけでPCと筆記ができるコーナーを作った。早速にもワープロに始まりFacebookそしてblogにまでに至った。 ブームに乗り自分史に取り組み、家系図の制作、亡くなった両親の写真集の制作などに取り組み子供に孫に残すことができた。 

 所詮、量が多いと捨てられる運命にある写真をアルバムから厳選し更に個人別写真集を最後の制作課題とした。 

 だが、そのもとになるものがないのだ。特に、亡き両親の生前、そして家族の小さい頃の写真がアルバムごと、この部屋から消えてしまった。PCに保存したり、見やすくテーマ別に分類したりと、いじくりまわしてしまった気配がある。足が生えて自分で脱出する訳はない。残るは部屋の住人の呆け即ち痴呆によるものかと自分を疑う始末。

 アメリカに住む娘は自分の幼い頃の写真を探して欲しいと言う。高校を卒業して、その1週間後に渡米したので18歳以降の家族写真がないに等しい。探してやりたい。

 大事にしていたアルバムが突然と消えた。しかも、すべて貴重な古いものばかりだ。この狭い蜜室の何処かに隠れているのか、もう既に持ち出されているのか、今だ不明だ。 犯人は私以外には考えられない。 白状したくとも、記憶に覚えがなければどうしようもない。 

 やはり、とうとう始まったかなと、己を卑下する始末。「いやになるな~」そんなことを言っている場合ではない。探すのだ。 この狭い部屋の何処かに意地悪に息を潜めてほくそ笑んでいることだろう。天眼鏡を片手にもう何回目になるか・・・探すか~・・・。  

こんなことでしか、時間が過ごせなくなったこの頃です。

終わり