気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

遠い昔のケチンボ旅行の想い出

2016-02-20 23:58:33 | 小さな旅日記

昭和35年頃から独身時代が終えるまで続いたケチンボでユニークな旅の話です。

 当時、父と或る雑談をしていて学生時代の旅の話になり、寄宿舎住まいの学生は貧乏旅行を楽しんだ良い時代だったと言う。その話に触発され仲間とケチンボ旅行をしようと考えた。

 親元から出勤してる独身者はいいが、独身寮住まいの独身者は5月の連休は身の置き場のない時間の浪費に困窮していた。順番待ちでの洗濯、月一度の部屋掃除これとて時間は余る。金は飲み代で財布も空ぽ。

 入社同期の悪ガキ5人が集まった。父から聞いた貧乏旅行の話をした。時代が違うので0円とはいかない。

そこで、ルールを決めた。

1.行き先は決めない。風の吹くまま、気の向くままに・・

2.予算はひとり1000円。そ~と心配だからと隠し金の持参禁止。

3.旅の全ての決定権は一人に決めて金を預ける。

4.旅行日程は一応2泊3日とする。

5.交通手段は会社の車。顔パスで借りた。5人なので1台で乗れる。

この魅力ある面白さに逆らえず結婚式招待辞退をせざるをえないことも発生した。 では出発しよう。

 車は会社の駐車場に置いてある。必然的に集合は駐車場に決まる。そこで行き先の方角を決める。国道Root17なら・・Root4なら・・Roo2なら・・かな・・何処へ行こうか・・国道Root17で信州方面にしよう。           

 或る年の休みに入る前日に噂を耳にしたのか課長に呼ばれた。          「いつもの仲間で旅行をするそうだが、何処に行くのかね」と聞いてきた。    逆らう訳ではないが「決めてません」 驚いた顔で 「え~明日だろう。北か南かは決めてるだろう」 と、訝る声で・・ 「いえ、明日、集まってから決めます」  呆れた課長は「楽しんで来いよ。気をつけて行って来い」と笑って送り出してくれた。もう、その先輩もいない。

 今回はK君に決定権を委ね西に向いてR17号線を走るこになった。      朝早く集合したので親元組3人は朝飯抜きなので、早い昼食を期待した。                               車は休日で車も人もいないオフイス街を出発した。車中では昼飯には「らー麺」が良いとか話がでるが、一向に店の前を通っても止まれの指示がでない。

 遂に「何を食べるんだよ」と聞いた。「抜きで走る」「え~何で・・」「その分夜を・・・」と言う。ルールだから従わざるを得ない。偉いやつを選んだものだと・・・。時遅し。

 泊まる旅館は決めていないのだ。とある山の温泉地で一軒一軒廻ったが埃を被った靴をジロリと一瞥し「塞がってます」。戦術を変えて人を変え、しかも吸えない煙草を咥え声を中年風にしての交渉をしてやっと泊まれた。午後8時にやっと部屋に。夕食は無理。頭を下げてカツ丼の出前を頼む始末。

 当時はコンビニが有るわけでなし。田舎道には駄菓子屋もない。でも車中での会話を楽しんだ。旅館交渉は慣れてきた。失敗もある。厚生省の認可はあるのかと尋ね、女将に叱られたりでも、有名な温泉地の旅館に泊まれた。

 ここでK君の本領発揮となる。何と、この若造の旅行に芸者を頼んだのだ。だが、1時間だけとは恐れ入った。時間追加をしないので、行き場のない芸者は「ここに居させて呉れ」と将棋をしている傍にいて観戦するしかない。可哀想だった。

 風呂場に行けば、まだ温泉が湯船の底10cmには参った。

まだまだ、面白い体験をした。書ききれない。

 若い連中に密かに話題になり、女の子からも参加希望者がでる始末となる。   幼稚園児の保護者でないので断るのに苦労した。

 いつしか独身者5人も結婚し「けちんぼ旅行」は消滅した。           傘寿を迎えた5人で再燃は無理だな。悲しいものだ。

50年も昔の想い出話でした。

終わり


アメリカひとり旅   オーランドを訪ねて

2016-02-19 14:19:13 | 小さな旅日記

 暑い陽ざしの中、コロンバスを後にし娘とも空港ロビーで別れ、フロリダ州のオーランド空港にひとり降りたった。 

 空港は初夏とは言え、やはり広大なデズイニーランドの巨大な観光地を持つ空港だけに明るさと熱気を肌で感じさせる空港であった。 

 空港で先着した娘と合流し、辺り一面に芝生と池に囲まれたリゾート地内にあるInnに落ち着いた。辺りを見回すと広大なゴルフ場のような公園にいるようだ。ロビーは家族づれでごった返していた。

 フロリダは至るところに鰐がいると言う。水溜りの池には鰐が生息しているかも・・・ゴルフ場ではブッシュに入ったボールはOBにするとか・・要注意。   

 ここに来る途中、FreeWayで面白いものを見た。 それは電光掲示板に予約したInnの料金がでていた。価格はシーズン期ON,OFFなど変動制なのだ。確か$30~80の幅があったような気がする。実に理にかなった戦略だ。確か$40だった気がする。後ひと月も立つと$80かも知れない。 

 その夜、東京銀座にある日本料理店のオーランド店で夕食をした折、カウンターの壁に日本人の宇宙飛行士「向井千秋」さんが宇宙へ・・のポスターが貼ってあるのに気がついた。早いものでもう一週間後には宇宙に旅立つのだと知る。

 予てから機会があればと思っていたので、明日は、「Knnedy Space Center Spaceport USAに行こう」と言うことに決まった。同行者は、更にひとり加わり4人となる。

 翌朝、迎の車に乗り、宇宙センターのある大西洋海岸のメリット島へと向かった。       情報ではフロリダ州は老人の住む温暖な避暑地と聞いていた。ところが、 FreeWayを走れども前後には一台も走っている車がない。 砂漠地帯を走っているようだ。途中、料金所が一か所あっただけ。ここも雰囲気が違うがフロリダなのだと知る。国土が広い。

 Space Centerには正午過ぎに着いた。駐車場を見ると、見学者は日本のつくばにある宇宙センターと比べると、やはり見学者は多い。イメージしていたロケットの実物は予想より遥かに大きく、迫力があった。時間をかけてゆっくりと見学をした。向井千秋さんが搭乗する宇宙船を遠望しながら機会に巡り会えた幸運に感謝した。

 あの悲劇は大事故の追悼モニュメントとしてAstronauts Memorialの銘に刻まれていた。ここから宇宙に向かう筈だった搭乗者数の光を宇宙に送り、それが雲に当たり反射して地球に戻され、また宇宙に光を送る永遠の交信をすると言うものだった。  

ご冥福を祈る。

 ここ宇宙センターを後にし大西洋沿岸のココア海岸に向かった。 遥か向こうに初めて大西洋の水平線を遠望した。 印象として、太平洋とは何かが違う静寂感を感じた。 そろそろ夕刻の6時を迎えるのに陽は落ちない。海浜には人がいない。

 ココア海岸で沖に向かって延びた木の艀に素朴なレストランがあった。入り口を覗くと夕食のメニューが無造作に立てかけてあった。

   木札に「きょう釣れた魚 $14」とある。

何の魚とも書いてない。 かなりいい加減だ。 でもユニークだ!                そして、気を引いたのはアラカルトに「鰐の肉」があったからである。  

 鰐が生息するフロリダとは言え海の艀レストランで鰐肉とは・・・。面白い!  この味は忘れられない。肉味はポーク&チッキン。即ち、柔らかい。と4人共一致して決まった。外見とは大違いだと知る。

 Innに戻り、翌朝、娘の呼ぶ声で目が覚めた。                       「来て、来て 早く・・・こんなに大きい虹は初めてよ」

寝惚け眼でベランダに寝間着姿で顔をだした。確かに大きい! カメラを収めようとしたがファインダーに入らない。直ぐに2枚にして収めた。

 それから数年後の早秋の早朝に、こんどは気球の大群に遭遇した。 どれくらいの数か数えきれない。空一面に広がっている。気球から観たら大西洋も展望し素晴らしいだろうと思ったが私には無縁のところ。高度恐怖症だから・・。

 エプコットセンター、ユニバーサルスタジオなどを観た後の最後の日の夕食はテーマレストランで話題の「PlanetHollywood」に会食をした。なんと、巨大な地球儀を模したこのレストランの前には300m程の長蛇の列がならんでいたのには驚いた。その脇を通り階段を上り特別扱いをされたには些か申訳なかった。しかし、収容人数は何の600人も・・。じゃ!いいか。 ハリウッドのシュワルツネッガー、シュレベスターなどの大スターが出資してる店だからたまらない。この地で観て、ここの店で食事をして帰るのがフルコースになっているようだ。オーランドの飲食街でも傾いた建物があり観光客を勧誘をしていた。             

 

こうしてフロリダの旅を味わい、娘との10日間のひとり旅を終えた。

 

終わり

 

 

 

 


アメリカひとり旅    コロンバス探訪

2016-02-14 08:44:38 | 小さな旅日記

「オハイオ州立大卒業式の編」の続き・・ 

卒業証書を手にした娘と別れて、ひとり大学の辺りをレンタカーで走った。 車は道幅が広いので中型車を借りた。 我が家でもデボネアを愛用していたので、むしろ大きい程運転に慣れていた。 見知らぬ地での歩きも走りも基本はロの字に動線を守っていた。   何故なら、戻れなくなると危険だからと固く己を規制していた。一本横道に入った処に、その街の隠れた何かに遭遇するからである。 

 そして遭遇した。                             それは1813年建造の An Early America 時代の The Worginton Inn を偶然に走っていて見つけた。木造の2階立てのプチホテルだ。昨晩泊まったBuckeye Innとは格が大きく違う。

 早速、ここに宿泊することにした。                                                         余談だが因みに、宿泊代は$110と高い。だが、ルームチャージだから娘と二人で一人当たりにすると$55になり安いことになる。                                              部屋は満足いくクラッシックな造りだが、かなり古い調度品だ。当然である。  ベッドの脇を歩くと床が沈む。だから魅力を感じる。                                        そして、このベッドに横になり米国開拓時代の夢をまどろむのだ。

 昼食を簡単にすませ、娘の運転で入植時代のコロンバスの帆船を観に出かけた。そして帰りに街の中心にあるモールに寄り小さなブランド品を初めて欲しいと言われた。ふたりで卒業記念に娘にポシェット、私に明るいグリーンの半そでを買った。

その夜、車がなくて行けなかったと言うドイツ歌声レストランでふたりだけの細やかなお祝いだが温かい夕食となった。最高の笑顔の乾杯だ!            

 アコーデイオンを奏でるビール太りのおじさんに学生時代の歌声喫茶を想い起こした。  昔の青春真っ盛りに味わった雰囲気を娘と異国の地で再現し満喫するとは想いもしなかった。

 翌朝、ここのInnのクラッシックな調度品に囲まれた食堂でモーニングを娘と共にした。指折り数えた。 4年ぶりかな~・・。

 オハイオ州コロンバス空港からふたりは別々にフロリダ州のオーランド空港に向かった。

 もう、この地に訪れることはないだろと思ったことを明瞭に覚えている。

終わり 

 


アメリカひとり旅   オハイオ州立大卒業式の編  後編

2016-02-12 00:55:06 | 小さな旅日記

後編の始まり

その小冊子は卒業名簿と参列配置図だった。ありがたい!

 しかし、学部は?・・。College of Educationで隅から隅まで名前を探すことにした。幸い数分で出身地までがでている娘の名前を見つけた。 やった~。 父親の執念は恐ろしいと思った。 家族席は学生席の後部に位置して最上階だ。キョロキョロしてるとエレベーターが目にはいった。 しめたと走り寄ろう足を踏み出したところ・・。突然、昇降の操作をしている係員のおじさんの怒声が飛んできた。

   「Handicap・・」

一瞬、足を止めて考えた。そうか、国情の慣習でここまで徹底とは知らなかった。    身体障碍者専用なのだ。   

 人混みに押され、やっと階段を探しだし上った。指定されたコーナーに撮影ポイントを考えて座った。 最上階の席から見下ろすとグランドの中程にテントが張られ卒業証書は流れ作業で授与されるように思えた。 来賓席の椅子が見え、来賓が座り始めていた。

 娘が座る席の直ぐ近くに私が陣取ったので驚くだろうな~と、ひとりほくそ笑んでいた。上ってきた学生たちが列を組み順番に席を埋め尽くし始めた。

8mmは既にONにしてある。 人混みの中で列を組み10m先に娘が歩いてこちらに来る姿が確認できた。 もちろん、8mmは回している。 傍に行って驚かしてみよう・・・。席に着いた学生らは興奮してるのか全員が立っている。前にでて驚く娘を撮った。

 「どうして、わかったの~・・」と嬉しそうに訝かった声をだした。            誇らし気に「父親の執念だよ~」と答えた。

 アメリカ中部のオハイオ州コロンバスは気温が高くグングンと上がった。       彼女らを見ると屋根のない直射日光の陽ざしは強く、堪らずガウンの裾を開けて風を入れている。黒いガウンの下にはショートパンツあり、ジーパンありと、いかにも現代子だ。  黒いガウン姿が誇らし気に見えた。彼女らは大学を巣立っと語学教師を目指す卵である。

 卒業証書授与の時間がきて呼び出しが掛かり、学生らは列を組み再びグランドに降りて行った。目を片時も娘から離さず8mmで姿を追った。 距離にして300mもある遠いところにいる。いや、もっとあるかな。学生らはグランドに降りると名簿順に一列に並びテントの中央で証書を手渡され、そこを通り抜けてスタジアムの外にでるようだ。

 陸海空軍士官の軍服に身を固めた凛々しい姿も遠望できた。   何だろうかと思った。軍から選抜され派遣されたエリート士官学生にも学士授与があるようだ。        学部区分は四角い帽子に吊り下がってるリボンの色で識別されるのを知る。 

 その時、折角会えた娘とまた、はぐれる心配がでてきたことを知り慌てて階下に降りた。先に降りた娘はスタジアムの出口で待っていた。 

 嬉しそうな満面に笑みを称えた顔の娘に「おめでとう」「よく頑張ったね!」「ひとり寂しさをよく永い間挫けずに耐えたね」誇りに思うよと祝いとねぎらいの言葉をかけた。 

 アメリカらしい明るい卒業式に参列して、米国の自由な風土に憧れ、挑戦した娘の根性に頭が下がる思いがした。

 つい先日の出来事のように思えたが、娘も17歳と14歳の子を持つ母親になっていた。私が歳をとるわけだと述懐して、当時を思い起こしながら筆をとりました。

終わり


アメリカひとり旅・・・オハイオ州立大卒業式の編  前編

2016-02-11 15:22:58 | 小さな旅日記

  やっと、PCが直り戻ってきたもの初期化され苦難の始まり。一方、目の使い過ぎで、これまた医者通い。これからは、ゆっくりと、目を労りながら・・。    いまでは、外出ができなくなり、もっぱら昔の思い出の箱の中をかき回しながら楽しもうと思っています。   これは今から22年(1994年)も昔、私が還暦を迎えた頃に米国に行った時の話です。

 

   早春、米国に留学中の娘から単身赴任先に封書が届いた。                                      いつもの筑波大図書館で調べものの頼みだと思った。手を洗い、部屋着に着替え夕食の準備をせずにソファーに腰をかけて開封した。 自分でも、頬が緩むのが分かる程、嬉しくて読み返しをした。

 この6月に卒業が決まったことを連絡してきた。式には自分ひとりで・・・との遠慮した内容だった。早速、妻に電話で仕事を調整して私ひとりが参列することにした。 

 米国の大学の卒業は科目履修の関係で年に数回あるとのこと。              本来の正規は6月で、したがって宿泊するホテルの空室は極めて厳しく、やっと予約ができたほどだ。2ベッド一泊$28とは安いのに驚いた。

 式場は校内にある広大な観覧席のあるスタジアムだ。OSUのキャンパスが全米一の規模を誇るだけのことはある。 学生数も50000人超、卒業生も15000人超と日本とは比較にならないと言う。        

 校内移動は自家用車かバスか自転車である。特に、図書館は24時間開いているので夜中まで勉強する留学生には便利だ。しかし、そこにに行くには歩くしかなく冬季時期は大変だったと言う。実際に歩いて見た。6月の時期で15分もかかった。真っ暗な校内を横切って通ったのかと思うとぞ~とした。街中と大学の境には塀がなく、治安が不安だったと言う。住まいは学生寮でなくUniversityVillageと言う学内のアパートにひとりで住めたのは良いが部屋が半地下で明かり窓は上に小さいのがあるだけ。余談だが、米国では20歳にならないと、アパートも酒を出すバーにも入れない。保護者がいれば別と言う厳しさである。

 式当日の朝、近くのカフェに行くと参列する家族で超満員。娘の助けがないと朝食すらできなかった。前日に借りたクライスラーの中型車で向かった。

 初めて参列する式の規模に圧倒された。                        学生と家族だけでも30000人はいる筈。 はぐれた場合を想定し、この車のところで落合うことにした。身体を360度回して辺りを確認した。そして娘を式場に送りだした。 肩から下げているショルダーバックには8mmVHS機とカメラが入っている。しかし、被写体が何処にいるのか分からなければ撮影もできない。      英語で何と言う学部を卒業すのかを聞き忘れてしまった。傍にはもう娘はいない。

 一時はどうなるものかと思った。そんなことを真剣に考えながら歩いているとスタジアムの入り口に、しかも通路の真ん中に無造作にダンボール箱ひと箱が開けたまま床に置いてあるのが目に入り不思議に思った。こうなると、どんな些細なものでも情報を集めるしかない。 中を覗くと30ページ程のA4版サイズの小冊子だった。でも、誰も持っていかない。置き忘れの私物だと窃盗だし・・と迷った。そんな余裕はない。一冊抜き取った。

前編の終わり