気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

赤子は みな裸で生まれたに

2015-05-31 13:05:30 | エッセイ

明るい陽ざしが窓辺に差し込んでいる。

 いま、或ることを成し終え、次に成すことを模索している。 階段の傍らに、読み終えた古新聞があった。 見るともなしに眼に触れた記事は若い親が自分の生んだ幼い子を殺めた見出しだった。 悲しい。

 当時、まだ単身赴任ピカピカの一年生だった頃、時間つぶしが下手で会社から持ち帰った書類を読み終えるとテレビドラマを飽きもせずみていた。 上の娘は米国へ留学、息子は中学生と親離れの年頃だった。 もう、30年も昔になる。

そんな時に、ある応募作品に触れた。 何故か孫でも授かったかのように・・・。

  生まれて来る赤ちゃんへ

1.キミは憶えてるかい キミは憶えてるかい 暖かいママのお腹で フートワークをしたことを パパともお話したよね ママのお腹で

2.キミが生まれたときに キミが生まれたときに ちいちゃな可愛いお目と ママはごあいさつしたよね 頬と頬とよせ合って はじめましてと

3.キミに聞こえてるかい キミに聞こえてるかい パパがあんよはまだかと ママを困らせてるのよ ママのオッパイ沢山のんで 大きくなってね

4.キミはおやすみなさい キミはおやすみなさい ママの暖かい胸の中で 泣いた涙をふかないで そしてママと遊んだ日の 楽しい夢を

 

昔、或る大きな寺の掲示板に ひと言 確か、こう書いてありました。

     「赤子は みな裸で生まれたに」

終わり


ふっと!徒然なるままに ひとり言

2015-05-24 17:45:43 | エッセイ

きょうは、朝からひとり自室にいる。

 最後の追い込みに、或る原稿を纏めようとした。 この頃、用がない限り歩くことがない。 どうも根気がなくなった。 

 きのう、気になる整髪に数少なくなった床屋に天気もいいので、駅近くまで歩いて行くことにした。 行く途中にある公園脇の緩い坂道が歩けるか気になったが、弱い日差しの中を歩きたく妻に声を掛けて家を出た。 

 つい数週間前には街中、花盛りで車の中から眼を楽しませて呉れた。 「ちぇ・・またカメラを忘れた・・」と、今日もまた忘れた。 劇団四季の玄関脇の名も知らぬ赤い花を撮りたかった。 庭に6月になると忘れずに咲く高原の黄色い花がある。 もう、我が家に貰われてきて30年にもなる。 だが、花房がないようだ。 数年前に撮った写真はある。 終に駄目か。 「日光きすげ」である。 

 徒然なるままに、話す相手がいないと「ふっと!当時、脳裏をよぎった ひと言」が想い出すものだ。 そう言えば単身赴任とはひとり 話す相手がいないものだ。 

たった6か月後に再赴任した時の始まりの心境は・・

・「ほどく間もなく再赴任  時計の刻む  音悲し」

・「六月前のリモコンの電池  動くかなと  心弾む」(時計の)

・「慣れたつもりの包丁も  六月過ぎれば  心もとなし」

・「自分の城に  慣れるまで  あちらこちらを  動かしてみる」

こんな心境で赴任したのだ。 永い単身赴任生活の始まり。

 

そして、会社人生の終りでもある単身赴任を終えた心境は・・

・「あと少し  動いて呉れよ  洗濯機」

・「君もまた  あと少しだと  励まされ」 (洗濯機に背を叩かれた・・)

・「他人事と思いし定年  自分にも来るのかと  時折いぶかる」

と、メモが残っている。 

いづれも、俵 万智さん流に詠んだつもりだ。 

そして、こんな ひとり言が脳裏をよぎった。

   「青春の夢は果てないが  老いての夢には限りがある」

終わり

 

 


何事も急ぐなかれ!

2015-05-21 09:17:34 | エッセイ

 私が会社に入社した頃、湿式の複写機があった。

   名は一般的にはコピーと呼ばれていた。 当時は何て便利な機械だと思った。ただ、湿式のため当時の写真の印画紙と同じく乾かさなければならない。 事務室の隅に置いてあるとは言え狭く通路に大体面していた。 

 数枚ならともかく、会議資料ともなると乾きが間に合わず床に広げて乾かす始末。社員も迂回して通る始末。そして、複写をする熱源が眼に悪く、眼を悪くした女子社員がでたくらいだった。それが、何時しか乾式になり機械自体も小さくなった。 

 また、テレファックスと言う伝達する画期的なものが世にでて、その後しばらくするとファックスに革新され家庭にまで入り込み生活の一部になった。

 次に、ワープロと言うタイプライターを進化したものが生まれ、あれよあれよと叫ぶうちにパソコンのワードにエクセルにと姿を変えて生まれてきた。

 自動車も鍵は持つだけ、追突も黙って止まってくれる。バックも前進するようなものだ。そのうち、行き先を言えば連れて行って呉れるかも・・。

 身近で感じたこれらの技術革新は、私が知ってから55年もかかてきた。 

 実は、我が家の車にも人身事故は元より新車を痛めてはならないとばかり、大枚を払い車の四隅に衝突防止のセンサーを付けた。それなのに自損事故が連発。 全て、かつて無事故を誇っていた私である。

   証拠隠滅のため大枚を払い泣く泣く修理をした。なのにまた、センサーがぶつかるよ!と、警告にも拘わらず大丈夫が大丈夫でなく車庫でまたまた擦る始末。まだ、5000キロ走行で4回も。軽自動車が買えた。

 ほとんどお世話にならなかったJAF40年のカードが泣くよ。

 昨晩も、証拠隠滅が終えた車が届けられた。話に夢中になり、帰った後に車を車庫に信用にならない私でなく妻が入れた。旨くなったものだ。私にはもう自信がなくなってきた。

   この時、車の鍵を使わずに車庫入れた事に気付いた。 

 「鍵は・・。」「何処に」「ドアが閉まらない・・。」ふたりして、車内を探すが辺りが暗くなり、しかも車内は黒基調で益々行方不明。探すこと20分は過ぎた・・。遅まきながら、懐中電燈で再度念入りに、鍵は中央の処に鎮座していた。 車が昔のように鍵を刺さなければ動かなければ直ぐに気づいたのに・・。

 この頃の進歩は余りにも早い。 年寄りの過ごす日常生活時間も何やらバージョンアップしたのか、若い現役時代と比べて早く冥土へ向かっているような気がする。

死んで花見が咲くならば冥土の道は花盛り 急ぐなかれ!

終わり

 

 


July 4thに松井×ichiro

2015-05-19 21:53:17 | エッセイ

 食堂に朝の弱い日差しが木のブラインドを通して差し込んで来ていた。この話は4年前の7月4日のことです。

 孫たちは娘の方針で自分たちの朝食を作っていた。 カウンターの傍らにコーヒーメーカーが静かな音を立てていた。

 私は「おはよう!Good Morning!」と孫達に声を掛けた。

 すると、孫娘が「おはよう! おじいちゃん 鹿が来てるよ」と、教えて呉れた。

 ブラインド越に覗くと、いつもの夫婦の鹿だ。植込みの新芽を啄んでいくのだ。昨日は久しぶりに子連れでワイルドターキーの訪問も受けた。 千客万来だ。

 「お父さま 昨日お話をした通りOaklandに行きますから用意してください」と娘から言われた。

 昨晩、「安くチケットが買えますので観に行きますか」「松井とichiroの試合が松井のホームグランドであるの。 日系新聞社の枠で・・」少し興味を惹いた。「観に行こう・・」「July4thのお祝いも・・」そうか、重なっているとは珍しいチャンスだと思った。 July4thとは米国独立記念日で、あちこちで祝賀の花火が揚がる。

 夕食は「おじいちゃんがご馳走するよ!紅花に予約しよう。」孫たちはやったとばかり喜んだ。紅花は日本人の経営するステーキハウスで現地では大人気の店だ。売りはパフホーマンスにある。

 婿の運転でハイウエイを走りOaklandに向かった。5車線はある。山間を抜けて道は延々と続いている。 街と街を結ぶ動脈は全てハイウエイで結ばれている。

 今日の応援チケットは指定の内野席と陽ざし帽、昼食の飲料とサンドイッチで$30だそうだ。松井選手が所属するOakland Athleticsのホームグランドでichiroとの対戦試合が米国の独立記念日の7月4日にあるとは出来過ぎている。

 共にヒットを放ち好試合になった。記念日のお蔭でセレモニーもあり初めての大リーグ戦を堪能した。

帰路、花火の打ち上げを追い掛け、陽が落ちたハイウエイを走り紅花へと向かった。

オークランド球場は松井選手が所属するOaklandAthleticsのホームグランド。

球場には緑基調のアイリシュ・パブもある。

スタジアムで観る野球試合は何と65年振り。 

しかも、大リーグで・・。

終わり 


子供の言葉には珠玉の輝きがある!

2015-05-19 12:13:36 | エッセイ

 幼い子供の口から出る言葉は珠玉の輝きをもつものが多い。しかし、書き止めておくことがなく忘れ去られてしまうものである。短命と言うしかない。

幸いにして憶えているのがあった。

1.2歳になったばかりの男の子である。昼間、父に連れられドライブに出掛けた。昔の運転席で分かれていない長椅子のような平らな大きな車の助手席に寝かされていた。 恐らく見えるのはフロントガラス越しに青い澄み切った空だった思う。 

眼をしばたたせ、何やら懸命に眼を開き瞬きもこらえてる様子をしていた。

「Tちゃん どうしたの?」

未だ、言葉が良く通じ合うのには不安があった。でも、何んでも分かっているようだ。

突然、口からでた言葉は

    「お目めを瞑ると、夜がくる」

しきりに眼を瞑らない懸命な努力をしていた。

2.男の子は三年生になり、何事も拘束されるのは苦手のような子だった。本が好きで何時しかその世界に入り込み、そうなるともう何を言っても聞こえない。

 一年生の或る教室掃除の時、読書に夢中になり邪魔で掃除ができないので、先生に座っまま椅子ごと運ばれたことがある。 学校図書館の本は全て読破すると言うほどだった。

 窮屈な授業から脱出したかったのだろう国語の時間に作詞し、大学を卒業したばかりの若い女の先生を感激させた。

  窓ガラス  光のトンネル  だけど通れない

よっぽど窮屈な教室から抜け出したかったのだろう。

(その後、六年の年に母校の校歌を作詞。作曲は故団 伊玖磨先生)

3.言葉ではないが、幼児でなくては発想が思いつかないことがある。

祖母が心臓が悪く、電池の埋め込みの手術をした。大人たちの話を聞いていたのだろう当時、幼児だった男の子は

   「おばあちゃんは良いな~。もう、死なないのだから」

死と言う言葉をどこまで理解してたかは分からない。

 

この男の子の話を聞いて、大人も純粋な子供の心に戻れればと思うこの頃です。

終わり