気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

娘の声の定期便

2018-04-27 09:51:44 | エッセイ

 この頃、もう、どれ位に行っていないのかな・・・? ふと、考えた。  サンフランシスコの郊外ウオールナッツクリークに住む娘宅に初孫息子が生まれて以来、誕生祝に毎年通いつめていた。 下の孫娘もお兄ちゃんと同じ誕生月生まれであった。 纏めて一回の訪問で済ませた。 しかし、寄る波の加齢には勝てず2014年を最後にドクターストップがかかってしまった。私本人自身は至って難病と血管の病をもっているものの意気軒高である。 強硬突破をも考えたが迷惑はかけられない。 この間、孫息子は2年連続ひとり旅で来日、孫娘は車椅子持参で来日と穴をうめていた。 孫たちが思春期を迎え更に大学受験と重なり時間がなくなってきた。 

 そこで、娘は考えたのであろう。国際電話による「声の定期便」である。話す内容は何も決まってはいない。男親の父親との会話はどうしても少ない。そこに妻が加わると女故2時間から3時間の長電話になる。 大体は1時間は話をしている。そこに、孫娘が介入するとややながくなる。 週に1~2回は電話のベルがなる。 

 今日が84歳の誕生日である。 定期便は昨日あったが忘れているのに気がつけば「おめでとう」のひと声を言いたく電話があるだろう。 

 こちらが忙しい時に「0000さんからのお電話です」と言う自動メッセイジが流れ、着信音が鳴ると時折うとましく受話器を取る不心得者の親がいることに詫びをいれたい気持ちになる。

そうこうしているうちに、一時は紛失したかと思っていた録音テープが見つかった。また無くさないうちにCDに録音し直そう。

 このテープは「私が結婚した昭和41年の7月3日(日)に初訪問を受けた時の父母の声」です。 内容は親子の普通の会話だと思う。 でも、今は亡き私の父母のなまの声が残っていたとは・・・。 娘は同じことを考えているのかなと思った。 

 昼食を済ませたら、脚の調子がよければ、杖をつきつきカメラ店にいって来ましょう。誕生日だもの頑張らなくちゃ・・!!

終わり

 


僕の帽子掛けは「駱駝の縫いぐるみ」

2018-04-24 17:43:38 | エッセイ

 街中をあ歩くと、高齢者ほど帽子を被っている。そう言う私も密かに被っている。しかし、風体が悪いのか、似合わない。 私の遊び仲間の先輩に帽子好きがいた。 「いた」と言うのはもう亡くなられている。 約30個ぐらいはあり壁に帽子掛けがあった。帽子が好きで似合ったいた。

 何とか似合う帽子に巡り会わないものかと、機会があれば手にしていた。 それでも、何等か想い出を起こさせてくれた帽子は3個だけはある。 

 一つ目は娘と婿の3人でヨセミテに行った時であった。つば付きの帽子だった。どうも頭の鉢にしっくりいかなかった。   

二つ目はSFのj’crewの店で店内に入った真正面の中央にマネキンが被っていて、ひと目で気にいった。 もう10年にもなるのか、いまだに愛用している。今は亡き先輩が狙っていたことがあり、そのお陰で飲食店に忘れたのをカバーしてくれた想い出がある。 代りの帽子が中々みつからない。

3番手がこんな巡りあわせは奇跡に近い。帽子を買ったのでなく帽子付きのチケットを買ったと言ったほうが正しい。それは7年前の2011/7/4 "July4"アメリカ独立記念日にOaklandAthleticsのホームグランド「オークランド球場」でイチロー対松井の試合がありセットでチケットが売りに出された。 試合は共にヒットを放ち、試合前には独立記念セレモニーも挙行された。 その時、内野席とセットで日系人会より購入した帽子である。ツバの裏には当日の記録が記しておいた。  

 これらの帽子を自宅で架けるところがなく、羊の毛皮で作られてる「駱駝の縫いぐるみ」に重ねて帽子掛けにしている。 場所を取らずに便利だと負け惜しみを吠えている。 

 その駱駝の縫いぐるみは、仕事で立ち寄ったテヘラン国際空港で購入した羊の毛皮でできている「縫いぐるみ」である。余談だが先輩の家にもこの駱駝はいたが頭から帽子を架ける冷遇はしておらず飾り棚に厚遇し鎮座していた。買われた先でこうも扱いが違うとわ・・・。 只今、自室整理中のため、古きものが見つかり、ブログの投稿材料が出てきそうだ。期待をしたい。 (何時までかかるんだい?分からぬ)

終わり


ジョン万次郎の足跡を訪ねる旅・・・・・TheOldStoneSchoolで学ぶ編

2018-04-21 00:14:42 | エッセイ

 万次郎が米国本土に連れていかれたのは西海岸ではなく、東海岸沿いの小さ漁港でした。フェアヘブン市内に残された万次郎観光施設は30分ほどで回れる周遊観光バスが休日の土日に運行されておりました。なかでも、万次郎を人として大きく育ててくれた学校の教育施設は往時を再現しておりました。  

 早速バスに乗り訪ねました。 少し早過ぎたのか誰もいない。 再現されたのは学校の教室の外装と内装でした。 教壇が教師と机の中心にあり、黒板が幅いっぱいにあった。 教師の机の上にはランプ、ペンなどが置いてあった。 傍には国旗の星条旗も眼についた。 教師の服装は茶系統の三つ揃いのスーツに身を固めていた。 教師は立派な白い顎鬚姿のお爺ちゃん・・・。仕事に邪魔にならないように可愛い女の子がひとり・・・お孫さんかな・・・。 いました。 ほかには誰もいない。

 お互いに軽く朝の挨拶をかわした。 1の質問に5の丁寧な回答が返ってきた。

 昨日のホイットフイルド船長の家の設備の説明と同じだ。 たまたま、歓迎食事会の時にとなりに座った方が、翌日、しかも説明員としてお会いできたことが幸運を呼んだ。 往時のベッドのスプリングは紐で作られた質素なものだったとか、マットを裏返ししなければ口頭では理解が出来ず、現実味がなく、見せられてこそ理解ができて強く記憶に残った。 今日も幸運に巡り会えたのだ。  

 こんな機会を逃す訳がない。手にはカメラとムービーがある。 質問者は一人しかいない。しかも、熱心な質問をしたがっている。 説明員にとっても説明冥利に尽きる。 克明に往時を偲び、演技をしながら説明をしてくれた。 

 万次郎が米国でThree Rsを学んだTheOldStoneSchool での往時を再現して呉れた。教室は万次郎が教育を受けた往時を再現されていた。教師も服装も時代考証されていた。生徒役もいる。当時の子どもたちに学ぶ環境に教師が気を使ったのはやはり、書くものと遊び(運動)だったようだ。

「教師は」:授業中、子供たちの机に埋め込んであるインク瓶の補充に気をつけていた。 特に、冬の寒い時期には鯨の油でインクが凍らない様に更に留意していた。                   また、常にナイフを持参していて、生徒の子どもたちが使っている羽ペン先が太くなれば、削るのために常にナイフは携行しているのです。そう言って仕草で演技をしてくれた。 

「生徒がよく遊んだ遊びは」:

 #「ビー玉遊び」をしてくれました。                       遊び方は生徒役を相手に昭和を想い起こすような遊びで実演してくれて実に良く分かった。      

 #「木輪に棒をあてる」と転がして遊ぶ。                  遊び方は直径100cmぐらいのフラフープのような木輪を70cm程の棒を手にすると外にでるように言われた。 転がしてグランドを往復して見せて呉れた。(日本でも昔の自転車の輪っパでこんな遊びがあった)             

 いずれの遊びも、たまたま観客が誰もいなく克明に再現して呉れました。(動画あり,だが行方不明中) 余談になりますが、これらは全て日本でも同じ遊びがあった。不思議ですね。子供の世界ってどこも同じ…?

この他:ネクタイとサスペンダーを日本に紹介したのも万次郎とのようです。     

 市内に「捕鯨博物館」があり、因みに、館長夫人は日本人でした。鯨の歯で作る装飾品は貴重品だそうです。

 知らないことを知る旅になりました。万次郎は思いもかけぬ海上遭難事故を踏み台として自分の人生を切り開いた男であった。中浜家は教育者の道を歩み、医師の道に辿りついたことを知った。    

終わり


ジョン万次郎の足跡を訪ねる旅・・・・・ 「アメリカ・ジョン万祭り」の編

2018-04-15 23:29:42 | エッセイ

 ロンドンからのUA804便が1時間遅れで成田国際空港に到着とのこと。     ロビーお茶券を貰い妻とふたりしてお茶をして出発時間待ちをしたのを憶えてる。     こうして、2011年の9月26日にワシントンDCに入った。              この地は、留学中だった娘の成人の祝いに駆け付け宿泊ホテルの一室で寂しいが父娘ふたりだけの心温まる暖かい祝杯をしたのを憶えている。

 そのこんどの旅は家族旅行でもなければ、観光旅行でもない。 日本と米国で隔年に開く「ジョン万次郎友好協会」の米国で開催される「ジョン 万祭り」に参加する旅である。「ホイットフイールド船長の家」の保存にご尽力された故日野原重明先生の100歳の誕生祝賀晩餐会も組み込まれた旅てもあった。  

 「ジョン万祭り」の式典はフエアヘーブン市の市民会館で開催され、「友好協会」の故日野原重明先生を始め総領事の挨拶、そして、中浜家の故4代目夫人からは流暢な英語でのご挨拶。 会場内には、いろいろな催事が並び、英語教育ラボのコーナーで「折り紙指導」のボランテイア、更に、友好協会の地区代表の医師二人の協力を得て来場者の英語の名前の音読みを漢字に置き換え、それを毛筆で和紙に墨書きに書き換えていた。何時しか漢字の持つ意味を問われ、何時しかそれに答えているうちに、その言葉の意味を翻訳し本人に説明し手渡をしていた。地元の若い女性らに漢字の持つ魅力と墨の持つ魅力に興味を持ち列を作るほど盛況だった。        

 屋外の舞台では友好会ノメンバーによる和太鼓や空手などに加え、高知市の土佐清水から来米した日本人職員8人も加わり日本の祭りの音頭が流れ、ハッピ姿の数十人が市内を練り歩きジョン万祭りに華やかな彩りを添えていた。また、室内の舞台でも大和太鼓をハッピで身を包み連打している姿があった。 眼を瞑って耳を澄ますと、ここは高知市とまごうばかり。 路上には日本と同じ夏祭りの屋台が出店して賑わっていた。 

 フエアヘーブンの街は万次郎がいた当時、300隻の捕鯨船が出入りし全盛期であった。 修復保存され資料館となったホイットフイールド船長の家の窓からは100年以上も住み続けている古い家並みが見え、どんなにか、9000キロ彼方の日本への望郷の念を思い計ったことか。 どんな境遇にもめげず明るく精一杯努力し、運命を味方にしていった万次郎。 彼を受け入れ隣人愛を教えたホイットフイールド船長。 ふたりの気高い精神は今もなお、万次郎を敬愛するフエアヘーブンの人たち中に生き続け、人種や国境を超えた友愛の絆も、日米両家の子孫の方々が引き継がれることでしょう。 

 最後に、故日野原重明先生は100歳の誕生日晩餐会を歴代の米国大統領が会食するホワイトハウス近くの食事処で行われた。 帰国が真近な頃、お元気な、お姿で指揮棒を手に同席者全員で日本の懐かしい歌を合唱した。   

終わり 

 

  

 


「からくり箱」を開けた今日の散歩でした。

2018-04-11 17:06:57 | エッセイ

 いよいよひと月もすると、この街も花一面に覆われる街並みになる。全て、借景である。でも、街中の路を歩かなければ享受できない。 日頃の脚の鍛錬の賜物が利いてくる。 早朝から陽射しはさしているが、春風が強い。散歩をかねて医者に行くこにした。 アップダウンのある坂道を700m程の距離だ。花盛りはまだ早いが陽射しを浴びて歩きたい。 往復は無理だ。妻の声が「タクシーを呼びますか」そして、往きは車で帰りに歩くことにした。

 診察を終え、薬を調剤薬局で貰い、杖を突きつき慶應義塾の小学校のグランド脇の坂道をゆっくりと上った。 学童がいない広々としたグランドを眺めた。 ゴルフ場を思わせる芝生が一面に引き詰められていた。ここにも太陽の陽射しが・・・。40分もかかったが爽やかな清々しい気分になれた。

 昼食後、食後の疲れがくる。 「休んでくる・・」ひと言言うと床にはいった。 1時間程して目が覚めた。 「頑張って、引き続き整理するか・・」そして本棚の前に立った。 

 一向に進まない自室の整理をしていて昔から捨てきれずにある「からくり箱」がある。箱根の寄木細工で様々な種類の木を組み合わせ、木の温もりを感じさせるモザイク模様の伝統民芸品である。

 だが、何でここに昔からあるのかな? 記憶が間違っていなければ、中学の卒業旅行の記念に買ったものだ。 箱根には当時もう行けたんだ。 芦ノ湖での写真もある。箱のルーツが判明。 そう言えば子供の頃から大事な小さなものはこのからくり箱に仕舞っていた。 中身はもう、出してしまった筈だ。 でも、箱を振ると何か音がする。 小判でも入っているような気分で開けてみたくなった。だがそう簡単には開かない。 69年もたった年数の代物だ。 手順数は4回である。 記憶には自信がある。 堅くて15分も挑戦した。「開いた。空だ」何も入ってはいなかった。 しかし、よくよく考えると、中学時代の想い出は詰っていた。 だから、「自分史」を記述することができたのだ。 そのように思いたい。 

 これまで一度も気にしたことがなかったことが今度は気になった。       このからくり箱を買った時期は昭和24年の春。終戦後とは言え・・。「箱根」の文字がローマ字の「HAKONE」が気になった。箱根は戦前から国際的だったのなら戦時中は・・・と独り言をつぶやいた。

 こうして、今日一日はこれと言ったこともなく終わった。 

終わり