気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

東京銀座の横丁の昼飯処を探訪・・・

2015-08-30 12:37:00 | エッセイ

 東海道新幹線に始まり首都高速、東名高速に湧いた東京オリンピックの高揚が収まり始めた昭和40年、銀座8丁目の隣合わせと言うか、新橋1丁目で銀座の隣り合わせと言うか銀座通りの直ぐ傍に勤務先の本社があった頃の話です。        それは、新本社が竣工するまでの限られた短い期間でした。

 丸の内界隈の大手町から銀座界隈で仕事ができるチャンスはまたとない。

 ふと、いつもの好奇心の虫が蠢いた。

 遠い昔の何かに触れれるかも知れない期待感。幸いにも社員食堂が一時的になくなった。 昼飯処を探して見ようと昼休みをターゲットに絞った。

 銀座の表通りでなく、細い横丁に入り小さな粋な食事処を探し食味して歩くところに魅力がある。まず、8丁目から4丁目までの横丁を一本残らず、ビルとビルとの境が、すれ違いも肩身を避ける程の巾2メートルにも満ない程の細い路地にも足を入れ、暖簾を見つけては引き戸を開けた。二度とは行かない。

 夜になるとバーになるカウンターしかない寂しい店もあれば、若造の身分では夜には入れない高級小料理店の昼定食。ひらめの煮つけ、七輪での焼き魚定食など美味しい味を求めて4丁目の交差点まで歩いた。1年程の月日を掛けたが数が多く歩けなかった。

 この面白い噂を聞きつけた仲間も加わり雨の日も歩いた。 宣伝部には面白い発想をする変わり者がいるのかも知れない。 とは言うが、こんな事を考える首謀者は私と亡くなった盟友先輩しかいない。

 鯵の焼き魚、とろろ、卵、海苔、お新香、みそ汁ご飯で130円。銀座でも世間並みの価格だった。 高級小料理店では流石に180円と高かった。       ラーメンが50円の時代。

 飯処の余禄に、銀座の知られざる発掘もあった。 明治の香りを残す赤煉瓦道、和光の裏に有名なドイツ菓子店の発祥地が・・・。 銀座に新橋芸妓が通てた銭湯の「金春湯」があるのを知る人は少ない。まだ、あるのか・・。

 その後、これが切っ掛けでターゲットを広げ神出鬼没に六本木、芝、赤坂などにも出没。 ギターラ、ボルガ、洋酒一族などを開拓。 昔が懐かしい。

 我が家で独り昼食を食味しながら、ふと~、想い起こした昔の昼飯の記憶でした。   もう一度、横丁を覗いて見たいが無理と思うこの頃です。

幾らかな~。 1000円かな・・。

終わり

 


まだ、書棚に忘れかけた本がある。

2015-08-27 20:11:14 | エッセイ

 今朝は涼しく、手洗いに何回も起こされたせいか5時40分に眼が覚めた。 朝寝坊のにとっては早すぎる。 中途半端なので・・起きよう~。

 いつもの自分の椅子に座り何気なく書棚を見た。 もう、数年前から地震による倒壊の不安と身辺整理もあり本と言う本はない。でも、生き残った本が3冊もあった。

 1.平野威馬雄著「銀座の詩情」1966年発刊とある。そう言えば本社建設のため銀座に1年間の仮住まいをした折、良い機会でもあり銀座の歴史を知りたく買った本だ。記憶に留まっているのは鹿鳴館時代の銀座の古い赤煉瓦が残る処は当時、テアトル東京前だけとか、赤煉瓦としては英国大使館前と三菱の集落郡だと記載されていた。また横丁や銀座地蔵の縁日そして地名の由来なども詩人としての眼を通しての感覚での紹介が面白かったのを憶えている。ページを捲ると紅葉の葉が1枚押し葉になっていた。永い。

 2.花登 筐著 テレビドラマ「道頓堀」昭和44年発刊とある。何故あるのか訝った。著者のサインと番組出演者と一緒に撮っている写真とサインが挟まれていた。宣伝部の電波担当の当時だ。懐かしい。若い顔をしている。45年も昔だ・・。

 3.小泉信三著「海軍主計大尉小泉信吉」は昭和41年発刊とあった。本文の68頁9行目に好きな言葉があり、結婚披露宴での主賓挨拶に良く引用させて貰った。 もう、20組以上にもなるかな・・・。

「君の出征に臨んで言って置く。   

  吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとして いる。僕が若し生まれ替わって妻を択べといわれたら、幾度でも君のお母様を択ぶ。同様に、若しもわが子を択ぶということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない。」

 時代が大きく変わろうとて、人を慈しむ心は変わらない。 

 懐かしく過ぎし日々を振り返った早朝の出来事でした。眼の前の時計を見た。   まだ、6時半にもなっていない。

 手すりに掴まり、ゆっくりと新聞を取りに階下に降りた。 足の運び具合は良いようだ。 ありがたい。 今秋は人と会う会合が多い。

終わり


自分史であって自分史でない「歩んだ道」を本にした。

2015-08-21 17:12:47 | エッセイ

  昨年の早秋を迎えた頃、突然に中学の「卒業六十五年 最後の同期会」の案内を頂き頑張って会場を訪れた。 懐かしい声に接し、眠っていた懐かしい想い出が覚睡した。

 これが導火線になり、かねてから構想のあった自分流の自分史を本に纏めあげようと意を決した。 完成時期を終戦七十年を迎える平成27年8月15日にした。

こうして、老いて弱くなった頭脳を労わりながらの取り組みが始まった。

 「鳩笛」と題して北京での少年時代の自分史を、今から二十年程前の平成七年から十一年にかけて原稿用紙で概ね二百枚を書き上げていた。            そして、十五年の時が流れ平成二十六年に私自身も傘寿の歳を迎え、まだ何とか元気なうちに再び続きを記述し、更に近々のことまでも書き加えた。

 写真も加え、書き残す子どもや孫たちに爺を忘れない様に「本自体」を「爺自身」になる様に努めた。 どうも、自分史であって自分史でなくなってきた。

 ここのブログにも「無蓋車に載せられての悲惨な引き揚げ体験」「戦禍に見舞われた祖国の地での放浪」「一年間も学校に行けなかった異常さ」「戦争が生んだ戦災孤児」などは、当時の子供の眼を通して冷やかに記憶を想い起こしたままに60頁相当分を既に投稿している。          

この本は約220頁ものである。 実質、160頁の残りの本と言うことになる。

 「自分史」とは、あくまで個人的な歴史の歩みである。

自分の歩んだ道程を記憶のままに呼び覚まし辿り、そして懐かしみ文章に整理し確認したものに過ぎない。

 他人は自分以外の人の人生には興味がないのが一般的であると思う。

一方、残り少ないとは言わぬが多いとも言えない残された人生の岐路に立ち、これまで歩んできた人生を振り返り、人生の総括をしておきたい感情はある。

 この自分史は当時の事実を背景に好む好まないに拘わらず起きた事実の上を歩いた自分の道程である。自分史であって自分史でない、この事実を語り、残したい。

終わり

 

 


70年前の8月15日は何処にいたのだろう。

2015-08-16 23:42:53 | エッセイ

中國、北京の自宅に。 

朝から、風邪を引いたのか、学校を休んで家にいた。

応接室の電蓄の前に母と・・・。

電波の状況が悪いのか、とぎれとぎれに玉音放送が重く静かに流れていた。

「さ~、美味しいものを・・・」と、母の声・・・。

7月下旬、盛岡の菩提寺に引き揚げで亡くなった、ここに眠る故兄を訪ねた。

この寺の庭先に「小さな童の石像」を見た。  母に見せたかった。

終わり


ビング・クロスビー ピアノ&バーで往年の映画を懐かしむ

2015-08-09 00:32:09 | エッセイ

 師走になると子供達と共に迎えるクリスマス・パーテイーがある。

  大きな袋を抱え舞台から降りて来る白髭を生やしたサンタさん。                子どもたちの歓声で登場する。 

  ハイライトは暗くなった会場に灯されたローソクを手に「ホワイト・クリスマス」「サイレント・ナイト」などをビング・クロスビーが歌うCDをバックに合奏して年の瀬を迎えていた。

  今夜、子供たちが寝静まったら婿に留守居を任せて、ここの街にしかない、「懐かしいピアノ&バー」に連れていってあげると娘に含みのある言い方をされて、いい歳をして楽しみに陽が沈むのを待った。

 ここ住んでいる街の名称 Walnut Creek の謂れの通り街の中心から少し離れたところに水の流れる音が聞こえるクリークの傍らに白い建物がひっそりと佇んでいた。 その白い建物はライトアップによって暗闇の中に静かに浮かびあがっていた。 

 車を路端に駐車すると歩き始めた。 娘は体質遺伝で酒は嗜むこともできない筈なのにと・・・。 黙ってついて行った。 

 素朴な木製の扉を押して中に入った。 中は暗くライトの光が交差し、男性は黒いスーツに身を包み、女性も清楚な身だしなみで手にグラスを持ち小さな背の高い丸いテーブルを囲み立って三々五々に会話を楽しんでいた。 バンドの演奏が終え、歓談の時間帯のようだ。

 「もう、分ったでしょう」と娘が・・

 「うん、気が付いたよ。BingCrosby's Piano & Bar と入口に書いてあったよ」と回りを見回しながら答えた。

 人混みの脇をトレイを持ったボーイが通りかかった。

 「お父さま 何を飲みます~」う~ん、「折角だから、カクテルがいいな~」         娘は何やらボーイに言った。

 カクテルを手にグラスを傾けながら、音楽の話や映画の話をして雰囲気を楽しんだ。 回りを見渡すと壁面には所狭しと映画ポスターが貼ってあり、往年の大スター一色の雰囲気が漂っていた。 だが、頭の中はクリスマスソングしかない。           

 反転、場内がドラムの音に併せて暗くなった。 バンド演奏の始まりだった。  演奏のリズムに合わせてハミングする者、軽くダンスをする者などで場内は熱気で溢れてきた。

 今夜の季節は孫の誕生月の3月である。 もう、早春だ。 だが、頭の中は12月のクリスマスソングしかない。 演奏を期待したが、やはり無理。

 静かに演奏が始まった。 往時のアメリカの良き時代を彷彿させる何かを肌で感じた。 捜索を思いつき、グラスを片手に人混みを分けて奥に入った。 更に多くの映画ポスターが天井まで貼られており、懐かしい往時のモノクロ写真もあった。

 古きアメリカの文化に触れて店を去った。

 ふと、数年前に婿に連れていって貰った「The Auto Museum 」にオールドカーとして展示されている映画「風と共に去りぬ」に出演したクラークケーブルのオープンカーでもタイムスリップして店先に駐車してでもあれば文句なし。

と、ひとり満足をしてオープンカーでなく、ワンボクスカーで家路に着いた。

終わり