気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

通訳を目指す孫娘と・・・回想に浸る爺とふたつのオリンピック

2017-11-14 22:53:21 | エッセイ

 この秋に米国の高校2年になった孫娘が来年の夏に日本語の卒業研修に日本へ行くと言う。いずれは「東京オリンピックで日本語通訳のバイトをしたい」と言っていると娘が言う。 少なくともこの日までは死ねない。 あと3年楽しみだ。 

 ひとり、椅子に深く座り1969年の東京オリンピックを回想した。       私は当時、或る協賛企業の担当者として関りあって来た。 このことは、若かっただけに会社人生の中で懐かしい想い出の数ページになっている。 

 大会組織委員会事務局本部が旧赤坂離宮にあった当時の話である。       戦禍に荒れたままで、しかも天井には荘厳な絵画が・・この建物にはもう二度と入れないとは当時は知らなかった。 記憶にはあるが、更によく目に焼き付けておくのだった。 悔やまれた。良く通った。仕事は一人二役ところか数役をこなしていた。 よく体力が持ったものだと思う。

 特に、いまだに脳裏に鮮明に残っている出来ことは、ギリシャから空輸されてきた聖火が日本列島を4コースに分けて皇居前広場まで聖火ランナーの手で運ばれたことだ。 その脇役である聖火輸送車を鹿児島で送りだしゴール最後のコースを自ら運転をしたことだと思う。 

 また、白い長いドレスに身を包んだ巫女の手で集火式が開幕の前夜に挙行された。   私はハーフカメラ(Film35mmの半分)を常に携帯をしていた。 一般人の入場が規制されていたが、私は集火式のすぐ傍らにいた。 チャンスとばかり報道カメラマンと共に駈け寄り、プログラムシャターの絞りをこれまでの経験と勘を働かせ絞りを変えてシャッターを5カット押した。 周りのプロカメラマンもフラッシュを焚きシャッターを切っていた。 報道カメラはモノクロだ。 私のはカラーだ! しかし、残念だがハーフサイズだ。 せめて35mmサイズだったら・・と或る知り合の雑誌編集者に言われた。 普通のカメラは重くて携帯できない。 

 私には、貴重な5カットだ。 後日、現像して確認した。           フラシュなしでバッチリだ!!                        薄暮の夕闇の中に赤い炎と白いドレスが揺らぐカット!!            経験と勘に揺るぎがない。 

 そのフイルムが茶箱に入れて納戸の奥にある。もう53年以上も・・・奥の奥にある。いまだ引き出せない。 でも、何とか引きずり出したい。 

 江の島、駒沢、戸田、軽井沢などの競技場にはヘリによる聖火空輸が検討され試験飛行に社有機ヘリを提供した。20人乗りの大型ヘリには驚いた。        その時の空から見た印象はヨットハーバーのある江の島が美しいと感じた。 一方東京の空の汚さがひと際酷く感じた。 水面に黒い煤が浮いたようだった。 しかも、高度が低い・・・。町工場の多い下町の上空は尚の事・・。こうした輸送の下準備を終え大会が開幕した。 

 女子バレーを始め幾つかの競技を観戦した大会も無事に閉幕し、落ち着き始めた頃、組織委員会に呼び出され会社だけでなく私個人にも感謝状が頂けた。     ここに面白い欧米との仕来たりの違いを知った。                それは表彰者の名前には敬称が付くのが当然なことと理解をしていた。      しかし欧米式に習い敬称がない。 日本字の名前だけで末尾に付く様、殿の敬称が付かない。         

 最初見た時、呼び捨てされたようで一瞬違和感を感じたが・・時間が経つにつれて、むしろ、とても素敵だ。                         私の人生で戴いたたった一枚の貴重なシャレタ感謝状となった。

 孫娘は日本語を武器に母親の母国日本で2020年に開幕される東京オリンピックで日本語の通訳をしたいと言いだしたことで、もうすっかり忘れかけていた昔の懐かしい若い頃を回想し想い起こしたこの頃でした。

 もしかしたら、兄の孫息子も「僕もするよ・・」と言い出して、兄妹ふたりの日本語通訳が生まれるかも知れない。                                  

 爺も忙しくなってくる。

終わり


無謀な外国ひとり旅・・冷汗が懐かしい・・

2017-11-09 17:30:25 | エッセイ

 私にとって、見知らぬ地へのひとり旅とはツアー旅行でない相談できる相手のいない旅だと決めている。 

   不便であり、不安でもあるが、一方、時間も行き先もチョット休みたい時も自由だ。しかし、ひとは、会話が無理とくれば人はそれを「無謀」と言う。だが、その国の生の姿を観ることができるから無謀をあえてやるのが好きだ。 

冷や汗をかいた懐かしい旅を想い出のままに楽しんで観ようと思う。

第一話.初めての米国本土の横断旅行の時のこと。 ロスアンゼルス国際空港で乗り換え国内線シンシナテイ空港でワシントンDCの空港に往く時に驚かされた出来事でした。 

 乗り継ぎに時間が掛かり、出発ゲートに走らせられやっと辿り着いた。 通路に、もとよりゲートにも誰もいない。 この旅は初ひとり旅である。 したがい、疑いの勘がまだ機能不全である。 売店を覗いたが、本能的にゲートから離れない。 通路の時計に気づき不信に思い、腕時計と照らし合わせをした。 違う。 可笑しい。時差かも知れない。 何と、時刻表の1分前である。 原因はやはり時差。 機内を座席に向かい歩いていると後方で厚いドアーが閉まる音と機体が動く響きを身体で感じた。 腕の時計の長針はまだ2時間も余裕があるのにと思った。 くわばら!くわばら!

第二話.ワシントンDC国際空港のバゲジクレイムでベルトコンベヤーから最後の一つがピックアップされ消灯になった。私のスーツケースが出てこない話です。

 広いロビーも最終便だったので消灯され暗くなってきた。旅行客は私ひとり残された。誰も気にしない。係員の黒人数人が話をしている。文句を言うと・・。指を差して「航空会社カウンターに行け」と言う・・。乗ってきた航空会社社のカウンターだけが点灯している。 走って行った。 ひとつ、ふたつとダウンライトが消えていく・・。カウンターでは更に「バゲージ事務所に行け」と言う。 また走った。文句を言うと何と乗り継ぐ時間を聴かれた。関係ないのに何故聞くのかと・・問いに答えると無言で洗面道具を差し出し「明日ホテルに届ける」と言う。これに時間を取られタクシーが見当たらない。やっと、見つかりホットした。 もう少しで空港に閉じ込められ、一晩広いロビーのソファーで夜を明かす羽目になったかも知れないと思うとぞ~とした。

第三話。スイスでは、旅行のスーツケースをチッキで送れると聞き、手ぶらの列車の旅ができると、早速、山のホテルの駅でチュウリヒ駅に送った時の話です。

 つまずきはチケット購入から始まっていた。 「チュウリヒ」が通じないのだ。「Z」から始まる発音が原因だ。 何とか始発駅から山を降り始めた。 手ぶらの旅は真に穏やかだ。 預けた手荷物は直ぐに手元に受け取れホテルへ行けると思っていた。 だが、荷物の存在以前に手荷物事務所がみつからない。 誰に聞いても英語が通じないこともあり探すこと1時間も・・・。空港内の内側に窓口がなく外側にある。 いくら空港内を探しても壁しか気づかず、だんだんと夜が更け聞く人も歩いてはいなくなってきたのには参った。 窓口は内側向きか外側向きか教えて欲しい。  

第四話。ハワイの空港で娘家族と落ち合った時の緊張した話です。

 私は羽田国際空港から国際線で、娘たちはサンフランシスコから国内線でハワイに向かった。 先に到着するので国内線到着口で待ち合わせにした。島の空港なので国内線でもあり誰ひとりいない。 待つこと2時間。 この時、大柄な黒人ふたりが喋りながら私の座っているところにやってきた。 ふたりはひとりづつに別れ、私を挟むように座り私の頭越しに喋り続けていた。 会話を楽しむなら隣り合わせに座るものではないかと思った。 数百メートル四方に人はいない。 昼間だが襲われるかも知れない。黒人との距離は3mぐらいかな・・・。やっと、眼の前のガラスのドアが開き本土からの旅行客の一団がなだれ・・・。娘と孫ふたりの顔を見て緊張感は忘れ高の様に解けた。 若し、襲われたらどうしよう。人がいるところまでは200mはある。 騒音のある飛行場で、建物の遮蔽壁があり、ひとは概ねそこの中にいる。大声を出しても聴こえはしない。 

 もう若くはない。力も走りのスピードも劣る年になっている。 緊急避難をせねばならない緊張感は避けたいと思う齢になったことを悟りました。 何につけても、「若い」と言うことは素晴らしい事なのですね。

 でも、「若さ」は捨ててはいないぞ~と・・・ひとり言。

終わり 


「鐘の鳴る丘」の唄が・・・悲しく聞こえる

2017-11-03 21:16:43 | エッセイ

  10月29日付の朝日新聞の朝刊1面トップに「日本に こだわらない 米の大学に進学・・・」と大きく見出しが掲載されていた。また、テレビ番組の中で「越後角兵衛獅子発祥の地」の悲しくも貧しい食い扶持減らしの子捨ての歴史話を知り時代が大きく変わったことを知った。

 終戦からもう既に72年、東京オリンピックから53年、そして再び迎える東京オリンピックまで後3年の間に戦争はなさそうだ。 

そんな事を考えながら終戦直後の東京の姿を想い起こしていた。 朝食をすませ自室へ戻った。 

 昭和22年当時は東京・目黒に親子7人家族で住んでいた。当時の唯一の娯楽はラジオ番組であった。我が家にも幅30cmほどの草色をした真空管4個のパナソニック製品があった。 小さな拡声器からは「鐘の鳴る丘」が明るいリズムで・・流れてきていた。 戦争による空爆で親を亡くした戦災孤児が共同生活をしている施設の話であった。

 思春期の年頃とは言え、幼い一面も残っていて父子の暖かみを確かめ会うかのように寒い冬の時期は父のコートのポケットに手を差しこみ、銀座の歩道を歩いていたものだ。 この習慣は北京で「北京飯店」前の広い歩道を「歩け 歩け 歩け 歩け 道なき道も 歩け 歩け ♫・・・」と唄いながら歩いていたのを重ね合わせて想い浮かべていたのだと思う。  

 戦時下の外地ではあったが、親子7人が誰ひとり欠けることなく、一つ屋根の下に住め穏やかな平和な生活を送っていた。 その延長で何の抵抗もなく銀座の広い歩道を歩いていたと思う。 

 だが、街の隅々で戦禍の遺産とも言うべきものを眼にし、気づくようになってきた。違う。 銀座の街角で眼にしたのは乞食と白い傷病兵士そして私と同じ年頃の靴磨き少年の姿だった。

 銀座4丁目交差点に犬を連れた乞食がいた。記憶が曖昧だがお恵みの小金受け皿の脇にでもあったのか、或いは巷の風評か「右や左の旦那様 馬が西向や 尾が東」と、この世間を風刺した文節が忘れられない。 

 また、白い衣服をまといアコーデオンで軍歌を奏でる姿が世間の眼が厳しくなり街角から山手線の車内にまで移動し出没するに至り世間に「もう 戦後ではない。終わった」と厳しい批判が飛んだ。 だが、現実の姿を見れば松葉杖、盲目、片腕がないなどの身体障害を帯、何も好き好んで負うたのではない。戦争が為せたことなのだと正義感に燃えていた。 中学生では街中で接触する機会は少ない。 会う機会はほとんどなかった。 

 特に、多感な同じ年頃の少年の靴磨きは直視ができなかった。寒い日など父親の肌のぬくもりを感じ何か不公平さを子供ながら感じていた。靴を磨くのは大人だけ。 見かけた場所は上野駅の地下道、新橋駅、銀座辺りでよく見かけた記憶がある。 値段も知らないが、この1点だけが何故か記憶に残っている。 それは最後の仕上げに左手を水で濡らし、磨きあげた靴の上に手を振り水滴を振りかける魔法の仕草である。そして乾いた布で拭きあげて終わり。後年、革靴をはくようになって早速やってみた。しかし、光沢がでた認識はない。あれは儀式だったのかも知れないと思った。 

 当時、明るい調べにのって我が家の居間にあった小さなラジオを通して流れてきていたものだ。 だが、想い起こしたこの唄は悲し気な唄になってしまたようだ。  時には振り返り平和ボケにならない様にしたいものですね。

この唄をyoutubeで聴くにはどうすればよいのか、探してみようと思う。

終わり