この秋に米国の高校2年になった孫娘が来年の夏に日本語の卒業研修に日本へ行くと言う。いずれは「東京オリンピックで日本語通訳のバイトをしたい」と言っていると娘が言う。 少なくともこの日までは死ねない。 あと3年楽しみだ。
ひとり、椅子に深く座り1969年の東京オリンピックを回想した。 私は当時、或る協賛企業の担当者として関りあって来た。 このことは、若かっただけに会社人生の中で懐かしい想い出の数ページになっている。
大会組織委員会事務局本部が旧赤坂離宮にあった当時の話である。 戦禍に荒れたままで、しかも天井には荘厳な絵画が・・この建物にはもう二度と入れないとは当時は知らなかった。 記憶にはあるが、更によく目に焼き付けておくのだった。 悔やまれた。良く通った。仕事は一人二役ところか数役をこなしていた。 よく体力が持ったものだと思う。
特に、いまだに脳裏に鮮明に残っている出来ことは、ギリシャから空輸されてきた聖火が日本列島を4コースに分けて皇居前広場まで聖火ランナーの手で運ばれたことだ。 その脇役である聖火輸送車を鹿児島で送りだしゴール最後のコースを自ら運転をしたことだと思う。
また、白い長いドレスに身を包んだ巫女の手で集火式が開幕の前夜に挙行された。 私はハーフカメラ(Film35mmの半分)を常に携帯をしていた。 一般人の入場が規制されていたが、私は集火式のすぐ傍らにいた。 チャンスとばかり報道カメラマンと共に駈け寄り、プログラムシャターの絞りをこれまでの経験と勘を働かせ絞りを変えてシャッターを5カット押した。 周りのプロカメラマンもフラッシュを焚きシャッターを切っていた。 報道カメラはモノクロだ。 私のはカラーだ! しかし、残念だがハーフサイズだ。 せめて35mmサイズだったら・・と或る知り合の雑誌編集者に言われた。 普通のカメラは重くて携帯できない。
私には、貴重な5カットだ。 後日、現像して確認した。 フラシュなしでバッチリだ!! 薄暮の夕闇の中に赤い炎と白いドレスが揺らぐカット!! 経験と勘に揺るぎがない。
そのフイルムが茶箱に入れて納戸の奥にある。もう53年以上も・・・奥の奥にある。いまだ引き出せない。 でも、何とか引きずり出したい。
江の島、駒沢、戸田、軽井沢などの競技場にはヘリによる聖火空輸が検討され試験飛行に社有機ヘリを提供した。20人乗りの大型ヘリには驚いた。 その時の空から見た印象はヨットハーバーのある江の島が美しいと感じた。 一方東京の空の汚さがひと際酷く感じた。 水面に黒い煤が浮いたようだった。 しかも、高度が低い・・・。町工場の多い下町の上空は尚の事・・。こうした輸送の下準備を終え大会が開幕した。
女子バレーを始め幾つかの競技を観戦した大会も無事に閉幕し、落ち着き始めた頃、組織委員会に呼び出され会社だけでなく私個人にも感謝状が頂けた。 ここに面白い欧米との仕来たりの違いを知った。 それは表彰者の名前には敬称が付くのが当然なことと理解をしていた。 しかし欧米式に習い敬称がない。 日本字の名前だけで末尾に付く様、殿の敬称が付かない。
最初見た時、呼び捨てされたようで一瞬違和感を感じたが・・時間が経つにつれて、むしろ、とても素敵だ。 私の人生で戴いたたった一枚の貴重なシャレタ感謝状となった。
孫娘は日本語を武器に母親の母国日本で2020年に開幕される東京オリンピックで日本語の通訳をしたいと言いだしたことで、もうすっかり忘れかけていた昔の懐かしい若い頃を回想し想い起こしたこの頃でした。
もしかしたら、兄の孫息子も「僕もするよ・・」と言い出して、兄妹ふたりの日本語通訳が生まれるかも知れない。
爺も忙しくなってくる。
終わり