そろそろ中秋の終わりを告げ、狭い庭に枯れ葉が手つかずに積もっている。枯れ切って軽くなったら刈り集めるか…。ふと、その上を観れば、我が家で唯一生き残った次郎柿がいい色に熟している。これは息子の出番だ。
この柿を食味するせいか老夫婦ふたりは幸いにも風邪しらずだ。息子を呼ぶにも熟度を味見せねばと、高枝ばさみを物置からだすはいいが、いやに重く感じるようになった。落とした1個が枯れ葉の中に転がり行方不明に・・。やっと採った1個も今いち未熟だ。もう少し先に呼ぶか・・とひとり言。
blogの情報に限界がでてきた。 ふと、思った。 blog事務局から1年前のblogに・・・とメールがきていた。 もういち度、想い出を思い起こし加筆してみようと思う気になった。最初に投稿したblogは次の原稿でした。 これで174blog目である。
「都電の中で「即興詩人」に出会う」(2015/1 投稿)
初めての投稿です。
手始めに短文を投稿してみることにした。
昭和30年半ばを過ぎた頃、ある夏の季節だったと思う。
当時、何かの仕事があったのであろう珍しく会社近くの大手町から都電に乗った。
中は立っている人が多く、人いきれで蒸し暑かった。
時折、涼しい風が窓から吹き込んでくれた。
電車は皇居の堀端沿いを走り、日比谷公園にさしかかろうとした時、突然ひと込みから
朗々とした張りのある男の声が聴こえてきた。
白鳥や 悲しからずや 羽根もがれ お濠彷徨う
一瞬、張り詰めた空気が流れ息を潜めた。
そして、声を殺した低い笑が車内に木霊した。
どんな人が詠んだのかと思い眼で探した。
白いワイシャツ姿に肩から文字が書かれた「たすき」をしていた。
掘端を観ると、数羽の白鳥が見えた。
ふと、亡き父から聞いていた中学時代の友人であることが直ぐに気がついた。
そんなこともあり、親しみを覚えると共に人間のエゴにも共感した。
半世紀近くも時が過ぎ、いまだに、この即興詩文を忘れていない。
まだ、入社して数年しか経っていない頃の話です。 当時、東洋一と言われた全長200mの大手町ビルの5階にいた。地下の社員食堂で長いベルトコンベアーに載ってくる昼食をチケット2枚(60円)で食べていた。よそ見をしていると昼飯は遠くに・・・。しかも数百人もの雑踏の中で・・・。でも、土曜日は3枚(90円)に+10円と加算して社員食堂でない席に座りポークカツを食べるのが楽しみ。不足のチケット1枚は出張があると余るのだ。だから、出張バンザイ!長さ200mもある昼休みの屋上は若い男女でにぎわっていた。こんな丸の内・大手町オフイス街に「焼きいもや」が声をからしてビル街の間を売り歩いていたの覚えている。平和で長閑だった。
この時代はラーメンが30~40円そして珈琲も同じ価格。それから数年が過ぎて有名な銀座の美人喫茶店が280円(一般:150円)と高かった。サラリーマンの月給が10000円~。自家用車は課長さんにならないと夢の夢と言われていた。
東京から名古屋に出張が多かった。だが、夜行列車には参った。若造は昼間の移動は認めらない。静岡に行くのはもっと悲惨だ。今は岡山でも日帰りだ。
昭和30年代は、遠く、懐かしく、夢のような良き時代で、まだ何もかもゆっくりと動いている時に都電の中で味わった爽やかな、しかも少しばかり考えさせられた人生の一幕でした。
終わり