気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

いっ時でいいから若い体力が欲しい!

2016-07-29 12:14:38 | エッセイ

  ひとり自室で疲れを癒し、暫し椅子にもたれ、うたた寝をしていた。        孫息子を見送りに妻と息子の三人で成田国際空港行きバス停に行ってきた。 今日は、来日した頃のうす曇りの天候に比べまさに真夏日である。

 階下では妻が宅配で先送る合宿の荷造りをしている。 夏が来ると子どもたちと信州の黒姫高原で三泊四日の国際交流の合宿が始まる。 もう43年も続いている。 荷造りする騒がしさは聞きなれた我が家の年中行事である。           よく続いているとひとり言・・。

蝉の鳴き声が聴こえてきた気がする。 こんな時期に・・・疲れから来た耳鳴りかな・・・。 

 孫息子の17歳の冒険旅行の始まりが中旬の15日である。まだ、不順な天候が続いていた。 

 まず、天候の合間を抜って戦国の古城、黒城と言われる「松本城」見学に日帰りで長津田で乗り換え、そして八王子でも乗り換えて信州の松本に特急あさま号でひとり向かった。 行く先の全体図を掴み現在地は何処にいるかを知ること。分からなければ人に訪ねること。 真夏日なので、水と食の補充に気をつけて冒険の旅が始まった。 

 何て! 便利な時代になったのだろう! 驚く以外何物でもない! 観光案内はPCで検索。 アクセスなどの行動指示もメッセイジでコントロールができる。  爺とでなく母親の住む米国からである。 映像も使うこともできるとか・・。 中間報告が孫からでなく、母親の娘からである。 爺の存在感がない? 傍で妻が何やらやっている・・。 娘と同じことを・・。 時代に遅れてるのは爺の俺だけかだ。 

 夕方遅くに孫は撮った勲章「黒城の松本城」を手に凱旋してきた。 

 なかなか話さなかったが、一日に口にした食べ物は、飲食店には何となく入りづらく、店頭で売っていた饅頭だけで、夕食の「鳥そぼろ駅弁当」も期待した味でなく食べられず小さな饅頭一個だけだった。更に一時間に一本の観光バスに乗り遅れ、じ~と待つ身に・・。冒険の第一章がこの始末。 良い勉強になったと思う。 第二弾の鎌倉円覚寺での「座禅」「写経」は体調を崩し残念。

主となる本番は「ご来光 富士登山」である。 ここでも、大きなへまをするが目標は見事達成す。

 バス出発の集合時間に少し遅れたことを気にし、ガイドに「ストック」を借りる人と言われ、自分一人のためにバスを止めてはと・・借りずに山を登る羽目になった。 だが、下山にはストックがなくては重力が脚に大きく掛かり、危険と感じ、金剛杖を買い無事に下山できたと言う。 よくよく聞きただすと、若さ故、健脚で30分もひとり先に着いてしまい、後ろを見て誰もいないのには驚いたという。 言葉の理解不足で山小屋を通過をしてしまう問題はあったものの、いままでと違い、声を張り上げて元気に玄関のドアを開けて帰宅をした。 どうにか日本語の判断力ができるようになったようだ。

 最後の冒険は世界最大の東京交通網を潜り歌舞伎座を訪ね、あの長いセリフと舞を3時間30分も我慢ができるかであった。交通アクセスは都の中心は地震に備え、避けてJRで山手線と京浜東北線の利用を覚えさせた。 だが、帰路に一部地下鉄線を使ったところ、やはり遠方まで運ばれてしまった。 修正し、新橋から大井町そして溝口と乗り換えを繰り返し辿り着いた。 誘導が、初めて妻のiPhoneを使い熟せたできたのには驚くとともに、早速手に入れたくなった。 熱覚めぬ間に・・・と言う妻が傍らにいた。一方では、「まだ、呆け始めたこの頭脳では時期尚早な気がする。」(影の声:その通り!)

 それより驚いたのは、歌舞伎が面白かったと言われた時には耳を疑った。でも、それには納得する出来事を想いだした。 もっと幼かった2歳~3歳の頃、NHK放送の大河ドラマ徳川家康の番組口上を語る無味乾燥な場面になると私の膝にお尻から後すざりをして私の膝に腰掛け聴き入ってる姿に驚いたことを想いだした。 どこで波長が合ってるのだろうか。 根が一本の気がする。 

 こうして、いくつかの冒険に挑戦して、何を感じ、何を知ったことだろう。幸いながら日本語の会話はできる。 読み書きも小6まではひとなみに教育をマスターしたものの、生活が伴っていない。 言葉の裏の意味、習慣は時間とともに身につくものである。 交通網ひとつとっても、利用やマナーなど日本独自のものである。よく判断し曲がりなりにも、目的を果たし達成できたことを褒めてやりたい。 

 帰国前日、秋葉原で好きなものを買い、好きなマンガ本を買ってきていた。 日本語の修得の原点はこのマンガ本であると思う。

「また、いらしゃい。今度は列車の旅だね。」笑って頷いた。そして、「お世話になりました」と大人の使う言葉で別れを言うとリムジンバスに乗った。

「孫は居てよし、帰ってよし」のセリフが掠めた。

         翌朝のこと・・・・・・・。

 妻も黒姫高原へ・・・いない。  静かな単身赴任の再来だ。         何をしようか。    時間はたっぷりあるぞ・・・。と、喜んだものの・・・。 何かが欠けている。 孫がいない。 空虚感って嫌なものだ。 でも、まだ疲れは引かない。  孫と共に行ける若い体力が欲しい。 また、椅子でうたた寝を始めた。

終わり

  


懐かしい想い出の池なのに・・・

2016-07-16 16:55:53 | エッセイ

 数日がたったが、懐かしい地が忌まわしい事件に巻き込まれている記事があった。  碑文谷公園の弁天池での刑事事件である。 この公園は住宅地にあり,第一師範駅(現在の学芸大駅)の近くにあった。 池に名前があったとは知らなかった。管理人がいて管理しているのは知っていた。隣駅に住む悪童たちの遊ぶテリトリーでは遠い方だったかも知れない。 戦後の遊びどころのない頃には格好の場所だった。 池は小さな曲円を描いた形をしており、対岸からでも投石でもすれば届く程の距離に感じた。 

 いつも数人の大人が魚竿を静かに垂らして何かを釣っていた。 釣った魚を見ると鮒が釣れるようだった。

 或る時、不思議と言うか赤い金魚が釣れたのを見て驚いた記憶がある。いつ行っても見ているだけの観客では詰まらないので、自分で釣り竿を作ってみることにした。 一本の長さ2m程の竹に10数センチの間隔に釣り紐を通す金具を糸で巻き、更にその上から膠で固定した粗末な物だった。 当時、駒沢通りの祐天寺近くにあった小さな釣具店に行って部品を揃えた記憶がある。 金具に釣り糸を通す釣り竿を誰から教わったのだろうか自分の発案なのか記憶がない。 

 或る日、数人の仲間と釣り糸を池にたらして浮きをじーと見つめていると、誰ともなく声が遠くから聞こえてきた。

 「管理人が来たぞ~」声のする方を見ると後ろに数人の野次馬の子どもたちを従え悠然と歩いてくるのが見えた。 管理人のおじさんの足の速さに合わせるかのように釣り人は少しずづ池端を動いて、いずれは釣り竿をたたみ退散していった。

 数日後、後ろに管理人のおじさんが野次馬を従え仁王立ちしているのに気づかず

「やったぞ~、やった~」

と、釣り竿を高かく釣り上げた。糸の先には鮒がかかっていた。

「何がやっただ。ここで魚釣りは許されているか・・・」

と叱責の大声が飛んできた。折角作った釣り竿で初めての味わった釣りの成果の収穫は池に戻され無残だった。 

 ふと、思い出した、そう言えば、鮒釣りは子ども時代に中国の北京に住んでいた頃、萬壽山(現:頤和園)の人工湖で釣った記憶はないが釣りに行った記憶はある。

 そこで鮒釣りをあきらめ、父に幼い頃に遊んだと言う「四つで網」を教わった。   古材の竹を使い布は母に頼み60cm四方の投網ができた。早速、今までのような竹竿一本と違い大げさな出で立ちでの出かけた。

「どこへ行くんだ」

と訝る友人の声を耳に半分は不安な気持ちで公園に向かった。          道は油面から一本道で途中、材木屋の所をクランクに曲がり抜けて駅裏の商店から線路を渡った。緊張が抜けなかった。 公園に着くと、大きく息を吸い友人と池に投げた。網の白い布はみるみる泥に染まり沈んでいった。麻ひもで網がっているので心配はない。10分ほどの時間を待って二人して引き揚げた。

 池の底の小石に交じり小さなエビが数匹も跳ねていた。 「え~、エビがいるの~・・」驚きの声をあげてしまった。 鮒より簡単にエビが取れるのお騒ぎだった。

 不思議にも、この時は管理人のおじさんには見つからず戦利品のエビは後生大事に家に持ち帰り得意げに親に話したことと思う。エビは茹でると見慣れた綺麗な赤色のエビになり夕食の食卓を飾った。 数匹の戦利品が・・・。

 ご冥福を祈ると共に昭和23年頃の少年時代の想い出を大切に記憶の隅に袋とじに仕舞たいものです。

終わり


或る朝の幻想か・・孫が来る・・大変だ!

2016-07-15 12:07:47 | 日記

 この頃は、不良爺で夜更かしをしている。

・・なのに、どうしてか数日前、5時に眼が覚めてしまった。 午後でなく午前の5時である。 難しいことはさておき、起きることにして玄関先の郵便ポストに新聞を取りに降りていった。 

 この時、観たこともない初めての光景に出会った。               それは数百メートル先は朝もやに隠れていた。 陽が昇る東の方に眼を転じると朝つゆの滴に陽が反射するのか幻想的であった。 一瞬、夢の中の話かと思った。     幻視かと一瞬じぶんを疑ったほどだ。  現実だ。      

 このような自然の営みの朝もやはかつて、墓参に故母と訪れた盛岡でのホテルの窓から遠い山裾に観た雲海、仕事で寄った筑波山の中腹でも山裾に観た雲海そして学生時代に部活で思い出深い青春を謳歌した志賀高原丸池での忘れられない朝の自然の訪れである朝靄しか記憶がない。 いずれも自然豊かな地で接した自然の摂理であった。 

 新聞を手に二階に駆けあがった。 雨戸を開けて遠望した。 夢ではやはりなかった。 ここの地に越してきて40年近くになる。 街中の並木に家々の植栽が豊かになり、自然から与えられたご褒美なのかも知れない。

 こらから数か月が過ぎ、秋を迎えれば、日を追うごとに自然の彩りの美しさを見せてくれる。 振り返り指折り月日をかぞえると、単身赴任でつくばに15年そしてここの地に戻って16年、折り返し点にいつしかなっているのに気づかなかった。 

 数年前に近くの公園で晩秋の落葉の美しさをフレームに収めていた。自然の美しさに勝るものはない。 ひとり旅で歩きをしたいと思うが夢の中でしかもう味わえなくなった。 今夕遅く、孫息子が来日する。 小さな孫娘の誕生に続いての今夏の朗報である。 婆さんに言われ孫の部屋を掃除にとりかかった。

 外は雨が今日も降っている。 ご来光を見に行く孫の富士登山の天候が気になりだした。

何も気にしなかった日々が気にすることができた。 大変だ~。

終わり    


「希望」と言う汽車にキセルをしたい・・・

2016-07-13 11:34:03 | エッセイ

 大きくなった娘の孫息子が昨夏に続きひとりで来日する。            

 今夏は目標を掲げ、あくまでひとりで挑戦すると言う。              これからの、まだ見知らぬ未来に向けて歩き始めた孫おれば、一方では新しい命を授かった息子の孫娘が誕生をした。 私にとって4人目の小さな小さな孫である。 

 息子の迎える車で会いにいった。 

 産衣に包まって静かに寝入る孫に声にならない声で「こんにちわ。じじですよ~・・」と語り掛けながら産衣越に恐る恐る手足に触れた。 暖かい。 嫁の声に励まされ~ふと、最後になると思い胸に抱いてみた。 まだ焦点の会わない瞳で何かを言っている仕草を手足の動きで表現しているようだった。 手足の肌に触れるとピョコンと産衣の中に隠れ、また触れると出て来る。時には体中を赤くしたり白くしたりと暫し爺と遊んだ。「人に優しい人になって欲しい・・・」念じ嫁に感謝し渡した。

まだ「名無しの権兵衛」。 この孫のためにも自分のためにも元気でいたい。 

 ふと、遠い昔を想い出した。

 この15日に来日する孫息子の母は私の父にとっては待ちに待った初孫だった。 それは本来なら7歳も年上の故兄がいたので・・。 敗戦による中国大陸からの引き揚げがなければ、病弱な兄は亡くさずにすんだからと・・・。           娘の名前を父に名付けてもらった。 私からは「父から娘へ」と題し、この世に生を受けた時代背景、娘の育った我が家などを記録風に書き残した。 拾い読みをしてみた。 

 ・・海の香りがしていた。 当時、社宅には電話がなく用事があると街路にある電話ボックスに駆けて行った。 人家のほとんどない所だけに、寒い風の吹く夜などは辛い。・・・会社までは満員電車で寿司ずめになって一時間半も掛けて通った。・・・誕生の第一声は会社で仕事中に同僚から電話連絡があった旨教えられ祝福を受けた。 ・・仕事が忙しく、頬もこけ疲労困憊していた。 ・・病院に着くと、まずガラス越しに初対面をした。泣く子もいれば、静かに目を瞑っている子もいる。・・・小さな足の裏に名前が書かれていた。生まれたばかりの特有の赤い顔をして静かに目を瞑っていた。 時折、手足を大きく動かしていた。 近くに連れて来られた時、ギュット握っている手の指の本数を触れながら、そうと数えた。5本ある。 あたり前だと自分に言い聞かせた。 と同時に五体満足に元気に生まれてくれて親としての責任が果たせ今までの不安が嘘のように消え・・・初めて嬉しさがこみ上げてきた。 ・・・夏の厚い日射しの中、東京の中央区役所に出生届けをだした。…病気ひとつせずに元気に育ち三月の初節句を両家の母に来ていただき祝った。この頃になるとぷっくりとした小さな手の平に人差し指を入れると赤ん坊とは思えない程の力で握り返してきた。「こんにちは わたしよ 。パパね。」と愛情表現をしているかの様に思えた。 娘とのふれあいを指を通して味わった。 短いここでの生活から横浜の社宅に移ることになった。・・・。  まだまだ・・・。

 この世に生を授かった孫娘を抱きながらいろいろと想いに馳せた、ほんのひと時でした。  「ぼくは幸せだな~」

終わり  


心の支えになった…忘れ得ぬ人

2016-07-10 00:10:38 | エッセイ

 きょうも雨が降った。

時折、昔を想起させるきっかけが、呼びもしない雨だ。 

現役を離れて16年にもなる。 現役時代には何かとしがらみに縛られ悩み苦しんだものだ。 そんな時に、心の支えになってくれた人がいたからこそ耐えられたのだ。 現役を去り、「現役」と言う鎧を脱いだ付き合いが,氷河の氷が解けるように心が和むものだ。 

「心の支えになってくれた人…忘れ得ぬ人」

この人たちはもういない。 「苦い想い出」は「耐え忍び成し遂げた想い出」に穏やかな境地に消し飛んだ。

 大先輩を中心に古き仲間との気兼ねいらない会を作った。 土浦の旧海軍航空隊の料亭「霞月桜」でたちあげた。 

 或る小さなホテルのロビーの片隅にオルガンがひっそりとあった。 「弾いてもいいだろうな~」と大先輩は言いながら鍵盤に指をおいた。 「弾けるんですか」訝る私。 「海軍主計学校出身者は、これ位は弾けるよ~」には驚いた。野口雨情作詞「船頭小唄」を弾きだした。♫「おれは河原の枯れすすき ~」が流れた。トツトツと鍵盤の音を響かせながら束縛されない自由な時間を享受した。

 遠慮がちで、よく後輩に「ありがとう」を言っていた。 「路を間違え、路地裏で旨い店に出会うドライブをしようよ~」と一度の出会いが余程嬉しかったのか、口にして誘いのドライブを待っていた。 女優の香川京子さんのフアンだった。 仙人の持つ長い杖をもち落合場所に歩いて・・。 この姿はもう見られない。 温かみと優しさを併せ持った、そこにいるだけで和む雰囲気・・大先輩だった。       もう、いない。 寂しい。

 もうひとりの先輩は朋友と言ってもよい程、兄弟喧嘩相手の兄貴分であった。  不思議でならないのは互いに職場が変わっても何時しか近くに寄り合うのだ。 公私共に離れられない悪友であった。 亡くなる10日前にも電話があった。 頼まれごとだったが断った。 何でも言い合えた先輩だった。 昭和30年代の終わり頃、業界紙記者を宿泊宴会に招待した折のこと、「何か歌を一曲・・・」と声がかかり、この場の雰囲気を壊さないために余り歌を知らない私は止む無く軍歌の「徐州」を唄って場を繕った。 やはり、幼きころの中国大陸と重なるものが・・。    それ以来、先輩の頭の中にインプットされてしまった。 どう言う訳か趣味趣向が同じだ。 でも、OldCarは飾って鑑賞するものと言う。 一方私は走らせてこそ車と言う。 もういない。 まだ、若い、喧嘩相手が欲しい。

ふたりの先輩は会社の上司でもある職場関係だった。

 こうして、静かに机の前に座り、過ぎし日を想い起こすと心が和む。        まだ筆を進めたいが眼のまえの時計の針が0時を回ったので筆をおく。      お休みなさい。

終わり