昨晩もイヤーフォンで古い昔の歌を聴いていた。
「穂高よさらば」「船頭小唄」「あざみの歌」「ハワイの夜」「月の砂漠」「雪山に消えた奴」「希望」など、この夜は兄の好きだった戦時下の歌「暁に祈る」を偶然に見つけ聴いた。この時、中国大陸から引き揚げてきて25歳の若さで亡くなった兄の日記を想いだし本棚を探した。
病弱な兄は旧制中学の時に肋膜炎で一年休学をした。その身体で長兄として幼い二人の弟妹の面倒をみ、しかも小雨降る中を無蓋車に揺られ帰国を果たした。 それが身体を弱め腸閉塞、粟粒結核そして脳膜炎と病魔と戦い入退院の繰り返しの連続であった。そして、保土ヶ谷の結核療養所で人生の幕を下ろした。
物理学者になるのが夢だった兄は大学に受験すらできず悔しかったと思う。 入院中のため大検資格すらなく、代わりに或る旧制の専門学校に入学をした。 卒業試験は校則で8割しか認めない追試験を退院後に臨むしかなかった。
同校が新制大学に学制変更になり学校に残って欲しいと言われたが兄は断り自宅療養で病状の回復を待った。病状は回復せず結核療養所で亡くなった時ベッドの枕元に好きな物理学の本数冊があり兄の無念さが伝わった。
兄らしい几帳面な楷書体で書かれた旺文社「自由日記」を解体する実家の地袋で見つけ仕舞っておいた。茶袋に随筆の処だけ破って入れてたので繋がりが不明だが・・。
こう書いてあった。(抜粋の一部)
心の成長の記録
私は後二年経っても大学に入ることは出来ないであろう。しかし、私にとっては此の事は少しも悲しい事ではない。 いやそれどころかむしろ有難いとさえ思っている。こう言うとまことに怪しく聞こえる。
私は中学時代をだらだらとトコロテン式に押しだされて来たに過ぎなかった。何ら思考することなく、時流の波に流されて月日を送ってきた。
しかし今の私は凡ゆることに悩んでいる。子供の教育(児童心理学)将来の事、修養等多々ある。具体的に言えば、如何にしたら自分の考えていることを、あるがままに表現し得るだろうかと、如何にしたら数学・物理・科学史・世界史の確実なる基礎を養い得るかと。
此の様な悩みを幾分なりとも解決させるには、今が絶好の機会だと思う。大学に入ってしまえば専門科目の修得に忙しくて到底ゆっくりと基礎をこしらえることはできない。こう考えればさっき言った事は決して怪しく聞こえないであろう。
元気な時は勉強が出来なくて随分苦しんだ。その為に「生きゆく道」を読んでも身につまされることを多く感じまことに修養するのに良い時機だと喜んだものだった。毎日の日記もその様な事で埋められていた。
それが床に長く寝るようになってから、そうゆう悩みがなくなったため少しも考えるという事がないのに我ながら悲しかった。 しかし此のごろ、もし現在丈夫だったら多いに悩んだであろうが、それを解決することは難しかったろう。 病気した為にそれを解決する機会が与えられたと思うと私はなんてまあ恵まれた人間だと思わざるを得ない。
今の私はストップしているのではない。 過去の空白を埋め、明日への鋭気を養っているのだ。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/1a/69ea3d4ba39d3baef09b143b2b777e4c.jpg)
(51・1・16「昭和26年」記)
兄は僅かだがこの他にも、いくつかの文を書き残していた。この随筆は最初の頃のだと思う。そして、この文の9か月後に亡くなった。これを読むと無念でなく、前向きに生きようとした姿が読みとれた。この文を読むまで弟として、どんなに無念であったろうと思っていた。
ひとつの歌から兄を思いだし、心の中も知った。供養にもなった。
終わり