気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

機中で飲み損ねたワイン

2015-06-27 17:20:45 | 小さな旅日記

初秋にひとりで旅にでた。 

と、言っても17年前の現役を終える直前の話である。

 永い旅でもなく、車の付いた小型スーツケースも機内持ち込みで気楽なものだった。 私は通路側の席、隣の2席にはまだ誰もきていない。 機内通路は搭乗する人込みでいつもながらの喧噪さだった。 窓からは鈍い陽ざしが申し訳けなさそうに射していた。 今朝から成田はどんよりとした鉛空で、旅行日和とは言えなかった。 天気予報だと午後から回復するとの予報でそれに期待をした。 

 私は早々とスリッパーに履き替え、先ほど空港ロビーで買い求めておいた単行本と老眼鏡を手元に備えた。 いつもの癖でひとり思考で、焦点のないうつろな眼差しをしていた時、

「すみません。そこの席ですので・・」と、言いながら無造作に背負ていたリュクサックを荷物棚入れに放り込むと、狭いシートの間に足を入れてきた。 私は無言で立ち上がり通り易くスペースを空けた。「ありがとうございます」と、言い窓際の席に座った。 差し込む鈍い光のシルエットで若い女性だと知った。 

 ひとり思考を邪魔されて老眼鏡をかけて単行本を読みだした。 騒めきの中での読書は落ち着かず、数ページで本を閉じてしまった。 窓際の彼女との間の席にはとうとう誰もこなかった。 彼女は先ほどから新聞を読んでいる。そろそろ、おしぼりと飲み物がでるが、昼間からワインと言う訳にもいかないかなと考えていた。 「飲めもしないのに格好つけて・・」との陰の声が聞こえてきた気がした。  

「新聞いかがですか。 私が買ってきたものですので、どうぞ・、・。」

と、言って窓際の彼女から新聞を差し出された。 若い彼女の顔は窓から差し込む陽ざしが強くなり先程のシルエットより陰影が際立ち素敵にみえた。 娘と同じ位の歳かな。 すると、息子の嫁には無理だな。 

「ありがとうございます」

と、言って新聞を手にした。 スポーツ紙だ。 いつもなら興味がなく読むところがないが、昨日、地元横浜のベイスターズが38年振りにリーグ優勝したので、読む記事があると思いホットした。 でないと、折角の好意に1~2分で返さななくてはならないと思った。 ゆっくり読んだつもりでも早く読み終えたようだ。 

「ありがとうございました」

と、お礼を伝え、軽く会釈をして新聞を空席になっている彼女との間の席に置いた。 

「いいえ」

と、軽く答え、先ほどの新聞を読み続けていた。 

 いつしか、機は離陸し平行飛行になりスチューワーデスが忙しく動き回り 落ち着く雰囲気でなくなった。 おしぼりが配られそして、飲み物になった。 何を飲もうかな。 ワゴンの動きが止まった。

「お飲物なにになさいますか」

と、まず彼女に声を掛け、そして私は考えが纏まらない内に声を掛けられたしまった。

「トマトジュースをください。氷を入れないで」

と、彼女は答えた。 私も 

「トマトジュース」

と、食事でもないのに、機内のいつもの癖でトマトジュースが口につい出てしまった。 私は冷たいほうが好きなので氷を入れて貰った。 どうして、彼女と同じものになってしまったのかと思った。 

 先程より騒がしくなり食事が始まるようだ。 まず、飲物になった。 トマトジュースは飲んだし、子どもじみた果実ジュースでもない。 じゃ、ワインでもするかと思った。 ワゴン車の方に顔をを向けて言おうとした時

「(ワインの)赤をください」

と、彼女の声。 何で頼むんだよと、口の中でつぶやいた。 続いて、スチュワーデスの声に・・。

「いや、結構です」

と、心にもない声を出す羽目になってしまった。 何となく、2度も彼女と同じものを頼むには抵抗があった。 「気にしや~」と陰の声が聞こえてきた。「ワインは飲んでは駄目」とまた、陰の声が・・。 この時は現役を終える直前とは言え、まだ60台半ばだ。 体力には自信があった筈だ。 

 食事を終え、映し出されて飛行案内に眼を移した。 横文字で、後、行程時間が余り少ないのに驚いた。 そうだ、上海経由でなく、京城経由だから掛からないのだと、遅まきながら気がついた。 古い情報をインプットしたなと、少しばかり腹がたったが、自分のことだと反省をした。 

 入国審査のことで彼女と話す糸口ができた。 何と、中國が好きでひとりで気ままに旅を重ねているのには驚きと好奇な話を聞いた。 大きなリックサックを背負いバゲッジクレームにも寄らず旅慣れた足取りで入国審査の列に消えて行った。 

 こちらは、こどもの頃に過ごした地、北京への郷愁の旅であった。 そして、宿願の学校跡を執念で探しだし、自宅跡は残念にも区画整理されていたようで、その近くの胡同の匂いを嗅いだだけだ。 当時の住所は聞いても誰も知らない。 政権が交代したから致しかたがない。 

どうして、こうも気にしあなんだろう。これからは年甲斐もなく、欲しいものは素直に欲しいと上手に接したほうが疲れない。

終わり


信じたくない話

2015-06-25 00:10:09 | エッセイ

 新緑が輝いている時期、或るJR線の駅に降り立った。 

 駅前のタクシーで赴任先の会社に向かった。 これまで、本社で担当地域として市場を良く知っていたとは言え、住んで仕事をするとは大違いだ。 車窓から流れる街並みを観て感じていた。 

 引っ越し荷物がマンションに届くまでの数日間ホテル住まいになった。 駅に近いTホテルに今晩は宿泊すべく、総務で予約をしてくれていた。 

 市内で会食をすませ、深夜の11時を大きく過ぎた頃の時間にチェックインをした。 部屋の鍵を貰い一階のロビーに隣接している部屋に入り、クタクタになった身体を椅子に投げ出した。 このホテルは、この地では名のあるホテルであった。

 その時、上の階で大きなカラス窓を開閉している音がしてなかなか止まない。 部屋の窓にしては重すぎる開閉する音だ。 何処からか・・? 止まないと寝れない。部屋のドアを開けた。フロントが近いので直接に言おうと思った。丁度隣の部屋のドアも開いて浴衣姿に着替えた男性も顔を出し、私と言葉を交わし同じクレームを言っていた。 

 フロントからマスターが飛んできた。 「お部屋を、お取り替えしましょう」と事情も聴かずに2階の部屋と取り換えてくれた。 だが、その部屋は音がした1階の部屋の真上だ。 むしろ、音がする部屋に変えられた気がしたが、音もしてないので、その部屋で赴任地での最初の一夜を過ごした。 

 翌朝、朝食を食堂でしていると、マスターが寄って来て

「おはようございます。 昨晩、私があの部屋に寝てみました。 何も、音はしませんでした。ご迷惑をお掛けしました」

 数泊する予約をいれていたので説明に来られたのだと思う。 だが、何も疑わしい事がなければ、マスターが音がした部屋に泊まる必要がない。 報告もするのも変だし、不思議なホテルの対応に疑いをもった。

 その後、タクシーの運転手から、ホテルを建築中に死亡事故があったと言う話を聞いた。 数年後、社員の結婚披露宴でホテルに出向いた折り、音のしたあの私の泊まった1階の角部屋は解体されロビーの一部に拡張になっていた。 

 この種のものに信憑性を疑うのに、この音は私ひとりでなく、隣室の男性宿泊者にも聞こえ、更にホテル側の対応も含め信用せざるを得ないと思う。 

 30年程の年月が過ぎ、忘れていた或る日、その地を訪れ、たまたま乗車したタクシーの運転手さんからも、またもや噂話を聞かされた。 

信じますか、それとも信じませんか。

終わり 


いまでは懐かしい失敗談

2015-06-22 23:20:44 | エッセイ

  外は、不順な雨が降っている。 雨戸越にタイヤが水を撥ねる音が時折り通り過ぎて行く。ふと、明けはいつかなと思った。

 この頃、PCから昔の懐かしい歌を聴くことを覚え耳にイヤホーンを付けて夜更かしをするようになった。

 始まりは山の歌からであった。 歌声喫茶時代の老人は懐かしんだ。 生粋の山を登る山男でなくとも、山の高原で大きな焚火を囲みホークダンスに興じた青春があった。 仕事で担当した全国帯ラジオ番組もフォークソングが中心だった。 都市対抗試合を応援する前にも試合よりまず、歌声喫茶で合唱した。 こうして、楽しかった時代を想い越し、夜更かしをしている。

 この頃はひとりで聴くせいか、昔の想い出が去来するから不思議なものだ。こんなことがあった。

 1.発表展示会で札幌に出張した折、宿泊した旅館で暴飲暴食をした。 翌朝、胃が痛む。 暴食すると盲腸になると言う話を聞いていたので、医師を呼んで貰い「盲腸ですか。帰れますか」と、問うた。昭和35年の夏に起きた事件であった。

 千歳空港にタクシーで介添えを伴い急いだ。 だが、当時は羽田空港まで3時間のフライトだった。 しかも、搭乗許可は機長の権限だった。 真夏の空港で、搭乗許可が得られるまでクーラーもない応接室で氷で患部を冷やし続け、ひたすら待った。 

 本社と電話連絡をしながら、手術をしたか否かで大騒ぎになる。 当時の電話の繫がりは市外申込みで繋げる原始的な時代。 やっと、許可が下りた。米国人機長だった。 日本人機長は危険を避けた。 空港に夕闇が迫っていた。 ひとりスチューワデスに介護され人生初のフライトがこれでは情けない限りだ。 真っ暗になった羽田空港に無事に降り立った。 そして破れなかった盲腸に感謝した。

 それから数年後には、こんなこともあった。

 2.これも真夏の旧盆の時期に九州博多で会議を招集した。 中四国九州ブロックだ。 当時、東京から名古屋まで夜汽車で出張する時代。 帰省客で切符がない。 招集元が会議に間に合わないばかりか、行けないかも知れない事件が起きた。 

 担当の3人がともかく東京駅に顔を揃えた。 先輩の一人は手回し良く寝台列車を確保していた。 残り二人はまず、会議書類が入った荷物をそこに預け、車掌と交渉を始めたが徒労に終わった。このままだと寝台列車なので乗れない。 だが、行かない訳にはいかない。 空ベットに潜り込んだ。 列車は無事に東京駅を出発した。 ふたりして、良く考えると無賃乗車だ。 そ時は夢中だったので気が付いていない。 名古屋を過ぎた頃に車掌に見つかり、荷物を取りに先輩のベットに走った。 「知らないと言うのですよ・・」「連絡は後程にします」と叫び、ホームに降りるなり、目の前の鈍行の普通列車に飛び乗った。 満員で連結に何とか乗れた。 行く先はまだまだ遠い。 ここで幸いにも車掌が来て乗り越しの切符を切っていた。 ここで東京からの乗り越しの切符を買い求めた。 車掌は一時戸惑ったようだ。 もう、無賃乗車ではない。 ただ、各駅停車列車だから遅々と進まない。 夜が明けかかって来た。 会議開始は確か9時だったと思う。 時間がない。 ふたりして大阪駅で降り、伊丹空港から飛行機で博多へ飛ぶことに決めた。 作戦成功でキャンセル待ちが一枚でた。どちらが当たろうが、乗車順序は仕事の上から私が行く事に決めていた。 当りの名前は彼。 返事は「はい」と私が答えた。 

 その頃、本社では大騒ぎ。 課長が「こちらを間違いなく立った。 今何処にいるかも不明。 時間に着くか否かも全く不明」と、無責任とも取れる発言をした。  だが、事実はその通りだ。  

 私の乗った飛行機は寝台列車を抜き、私だけが9時前に会議室に着いた。 だが、誰もいない。 午後に会議は繰り下げられていた。 残りふたりも無事に着いた。 

 この時、一睡もしてなくて、顔を洗いに洗面所に行った。 当時は水不足が大きな社会問題になっていた。 張り紙にこう書いてあった。

  「断水ですから 節水に 協力してください」

と、ビル管理会社のお願いがあった。

(断水なら、節水しようがないのに・・・と、ひとり、八つ当たりをした。)  

 またもや、気を付けなければならない事が起きた。

 3.それは、青森県の朝虫温泉で帰りの寝台を手配をした時のことである。

昭和38年頃の確認を怠った失敗談の話です。でも、悪いと言う認識が何故か低い。

 青森県の弘前から海岸線を走り浅虫温泉を抜けて岩手県の盛岡まで地元の販社に送って貰いながら、自分の確認の甘さで酷い目にあった失敗談です。

 東京に帰るのに盛岡駅発が夜中になる。 予約するために、浅虫温泉駅に寄った。 

 「9月21日の23時40分発の三等寝台を一枚、上野まで・・」

と、小さな窓口に向かい駅員に声を掛けた。 暫くすると、強い訛りのある声で

   「満席です。どうしますか」 

と、問い返してきた。

  「では、次の寝台は取れますか」

と、聞いた。 取れないとは予想もしてなかったので、時間までは調べていなく、次の・・で省略をした言い方をした。 

  「これなら下段の寝台が取れます」

と、言いながら小さな切符を呉れた。 見もせずに旅行かばんに切符をしまった。 

 発行された切符は申告の9月21日の同日付で発行されたので、一日前の切符になってしまった。 0時を過ぎた時刻は翌日の22日付に変わらなければならない。

 乗車した車掌と言い争いを夜中に寝静まった車内ではできず払わされてしまった。 確か被害額は900円だった記憶がする。

 何で、こんな記憶の隅に追いやられいる筈のことが思いも掛けずに覚睡されるとは思わなかった。 でも、何が出て来るか、楽しみでもある。

 イヤーホーンを耳に・・。 何かを期待して。

終わり 

 

 


52年振りに訪れた北京 Ⅱ

2015-06-13 00:01:12 | エッセイ

 タクシーが傍にきた。 中国語読みで「三条胡同」と言って行き先を告げた。

 東単交差点を過ぎ,三条胡同の入口に差し掛かると、通行止めになって警官が交通整理をしていた。 突発の事故とのことで、私は対処に焦った。 廻り道でもロの字に走るように何とか告げた。 王府井廻りができて助かった。 52年振りの3年間通った学校だ。 執念で探しあてた。 いまは美術学校になっていた。 三条胡同寄りの元ロックフェラー病院は瑠璃瓦の荘厳なまま無事に残っており、病院になっていた。  次は自宅跡だ。 蘇州胡同と言っても運転手は知らないと言う。

 仕方なく、北京駅前広場でタクシーを降りた。 長富宮ホテルで乗ったタクシーでさえ約束と違う料金を請求された。

 頭の中にある地図と実際の地図との乖離が多きのかも知れない。 当時の子供の眼で見た広さと大人になって見た広さの違いもある。

 ここで、まず手洗いを探した。 メモ紙に「便所」と書いて通りすがりの男に聞いてみた。 直ぐに教えて呉れたが、工事中とは・・。 思案にくれたが、新築の近代オフイスビルに入り受付で聴いてみた。 成功。 しかし、小便は昔のスタイルのままには驚いた。  

 勘とこども時代の記憶を頼りに歩いての自宅跡探しだ。 特に、年老いた老人を選び、昔の胡同の名前「江察胡同」(チャンサルフートン)で聞いてみたが誰ひとりとして知らなかった。 当時の住所は「北京市内1区江察胡同28号」である。 

 いつしか歩き続けて静な佇まいのある昔の面影を残す家並みのところに来ていることに気がついた。 そして、タイムスリプした風景の中に、いつしか浸っているのには気がつかなかた。 

 ふと、眼を移すとここにも昔からの共同便所があった。 好奇心に促され用を足しに中に入ると、偶然にも大便をしている男性と目が合い反射的に会釈をしてしまった。 52年前と全く変わっていない。 何か懐かしい物にでも出会った感じを味わった。 

 帰国する時間が迫り、昔のままの胡同を後にして離れた。 途中、懐かしい一輪車で「天津甘栗」を売っているのに出会い、買い求め頬張りながら長富宮ホテルまで歩いて戻った。 

 今の中國は知らない。 17年前の中國には、まだ52年前の素朴な中國が残っていた。 (胡弓を弾く、麻雀、天秤を担ぐクーニャン、路上自転車修理屋)

 52年前には夕餉が迫ると、各家々から放される鳩の群れが、茜色に染まる西の空に黒い影を残し鳩笛を響かせていた。                      あの悠久の風景に巡り会えなかたのが、心残りであった。

52年前のこの話が終えて、いまでは69年前の昔話の中に納まりました。  

 終わり 


52年振りに訪れた北京 Ⅰ

2015-06-11 21:04:34 | エッセイ

この頃、新聞紙面に「自分史」と言う3文字が静なブームになっている。 確か、20年程前には戦時体験が話題になり原稿用紙で200枚程を書き上げたことがある。 その後、後編を書くにあたり、本編をA5版サイズで100ページに再編集した。 そんなことがあり、現役時代を終える頃には「幼い日を過ごした北京」を訪ねてみようと心に決めていた。 

今から17年前の秋、現役時代が終える2年前の64歳の頃に訪ねた話です。

「北京」のツアーにひとり参加をしたが、何故か、私だけひとり別シートでフライトすることになった。 したがって、人数も、顔ぶれも分からない。北京空港での合流で初めて知る。 

 単身赴任先のつくばからの交通渋滞を懸念しホテル日航成田に前泊をした。 チェックインがホテルのロビーで済ませ・・手ぶらになり実に楽だ。 

 早めにゲート前の席に腰を掛けた。 回りを見渡すと、中国人を除いて中高年層が多くいるような気がした。 若い人が来たかと思うと添乗員で中國は若い人には魅力がないのかと思った。

 老母と息子、家族3人そして私の6人の少グループだった。 

 ツアーには有名な名所旧跡更に万里の長城が組まれていた。

 その行程の間を縫って、いかにして、子供の時代に過ごした懐かしい地に戻り、訪ねられるかが大きな目標だった。 戻るにしては余りにも年月が過ぎていた。 訪ねて見たい最優先は5年半在籍した学校と自宅だ。更に、城壁、景山(紫禁城から景山を望む)、紫禁城、九龍壁、萬壽山(現:頤和園)、元ロックフェラー病院、東単、天壇、北海と限りがない。 最後に、昔と同じ街角と胡同の匂いを嗅ぎたい。

 どうしても時間が取れず、とうとう帰国の日になってしまった。 学校と自宅付近はどうしても見ておきたい。

 ホテルに客待ちタクシーが数台いた。 流しは料金がないようなものだとの説明を受けた。 時間がない。 自分の記憶でしか行動ができない。 

 まず、北京日本東城第一国民学校の跡地に行こう。 三条胡同に行けば道は分かる。 ベルボーイにタクシーを呼んで貰った。 

 ここのホテルの位置は城門のあった城外のコーリャン畑に建っている。 当時の城外には高橋製氷工場があり、遠方にはマラソンの目標にした煉瓦工場があった。

 当時の風景が時間の経過と共に覚睡していくのが分かる。 

 城内には4年生から終戦までいた北京日本東城第二国民学校と北京神社があった。 T字型の東単交差点は四つ角の交差点に大きく変わっていた。 北京駅が昔の場所でなく移動していた。 だとすれば、自宅付近は区画整理されて、昔の面影はないことになる。その近くの胡同で同じ匂いを嗅ぎ、息遣いを感じればいい。(景山前で売っていた竹串に刺した果実飴)