気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

45 年も昔のハワイ に針を戻す      

2015-02-27 09:11:25 | 小さな旅日記

 。昭和45年のハワイは憧れの楽園でした。今と比べれば華やかさはないが長閑で静かな佇まいの魅力ある島でした

 羽田国際空港にマイカーを乗り捨てて行けたと言う便利な頃でした。 ホノルル国際空港ではハイビスカスの花のレイで迎えられ楽園に招かれた気分になりました。 ハイウェイもなく島の佇まいを色濃く残るオハフ島でした。 「HOLIDAY ISLE HOTEL」は小さいがワイキキの浜辺に近く、街の中心にあって、とても便利でした。 朝の食事は初めて経験したビュッフェスタイルに新鮮さを感じました。

  ワイキキの浜辺は穏やかでカラカウア通りもアメリカンドリームの大型車が横行していました。

 

  花柄の籐椅子に、ゴムぞうりそしてアロハシャッツと何処までも異文化だ。 窓ガラスもなく風が吹き抜けるレストランに入るとまず、入り口で待たされ、案内されたテーブルには前の客のチップのコインが積み重ねて置いてある。 何で?と思ってると、そのチップをポッケトに入れ席を勧められた。 そして真っ先に飲み物。しかも、ジョッキの中サイズのカップに・・。大きさに圧倒された。それから注文を受けた。後年に何回か訪ねたが気づくと料理も飲み物も大人しいサイズになっていた。 当時のハワイの面白い慣習だったのか。

 日系人からは日本語が話せるとばかりに「トイレのことを厠(かわや)と呼ぶのですね」と言われ、「もう、言わないですよ」とは言えなかった。

  翌朝、HAWAIIAN AIRLINSでカウアイ島に飛ぶ。「しだの洞窟」に向かう川で大きな虹を見て感激。ワイルア川の遊覧船では楽団がハワイアン音楽を奏でていた。

 

ハワイ島にも飛ぶ。キラウエア火山で活火山を見た。

 

 オハフ島に戻る。

 翌日、日本車のレンタカーを借り、生涯初の国際運転免許で別荘地を覗いた。 右折がレーンを間違えそうだった。 夢のような住宅街で絵になるカットを一枚撮った。 26年後に歩いてこの場所を再び訪れた。このままに変わっていなかった。 傍らで終日芝刈りをしてる日系人に出会う。会社人生の終いの生き方を考えさせられた。                                

ふたりして、アロハシャッツを着て休暇を楽しんだ。

45年も昔の島だった頃の話です。

終わり

 

 


早朝の来訪者ーー 鹿の夫婦、ワイルドターキーの親子連れ

2015-02-24 11:37:05 | エッセイ

今朝は時差による眠気も収まり眼が自然と早く覚めた。誰も起きてこない。休みなのだ。いつもの通り前庭に面した木のブラインドをそうと開けて外を覗いた。隣の大きな木の梢越に朝日が飛び込んできた。朝食の常連の訪問者は既に来ていた。夫婦鹿だ。躊躇したが寝間着を着たままカメラを手に近づいた。植込みの新芽を食いに来てるのだ。人に慣れてるとは言え難しい。後で娘の呼ぶ声が聴こえ戻った。

孫たちも起きて来て朝の来訪者の話をしても、「そう・・」と相手にされない始末。日常の風景なのだ。

     「この頃、リス来ないね」

と、孫娘に問うた。

     「この頃、休日が多いようよ」

と、笑みを湛え一蹴された。このごろ生意気になってきた。少しばかり大人になった孫との会話だ。すると、孫娘が・・

     「おじいちゃん ワイルドターキーも来ているよ 早くカメラ・・」

子連れの一家だ。意外と近づいても逃げ足は遅い。子連れだもの・・。でも、望遠を使ってやっ

 

と撮れた。               

彼らが生息する裏山に親子連れのハイカーの縦走する姿がが見えた。

 

孫がまだ幼い頃 そう言えば街端れの丘を歩いたことを想い出した。歩いておいてよかったと思える歳になった。ここは湿度がほとんどなく、いつものことだが腰の痺れが不思議と直る。「こっちに越して来たら」と娘の声が・・。そう言われてもな~と独り言。

終わり


戦禍の祖国 (1)     「祖国への引き揚げ列車」(1/16 付 投稿)の後編

2015-02-22 00:04:10 | 日記

  [後編]  は中国大陸から日本本土に帰国して、戦禍に見舞われた祖国の地で家族七人が生きてきた証を、子供の眼を通して冷やかに当時の生活を思いつくままに記述したものである。

 戦火を免れた最初の叔母の家に始まり、もう一人の叔母の家、そして母の実家へ、更に祖父の危篤と・・転々と住まいを変え、そして、学校も当然ながら変わった。平塚、品川、仙台、山形東根、板橋そして東京の目黒に落ち着いたのが昭和二十二年の新制中学入学の春だった。

 

            戦禍の祖国

昭和二十一年五月 本土帰国

 引き揚げ船は米軍の上陸揚船艇母艦「LST 」である。

 船の上を流れる雲は、ついさっきまでのことまでが嘘のように紺碧の五月晴れの空に広がり、何か小さな胸にも何か分からないが穏やかな平和のようなものが流れるのを感じていた。でも、この時はまだ平和の持つ意味が分かっていた訳ではない。

 家族七人は上陸揚船艇母艦の船底一面に引かれた畳に、背負っていたリュックサックを下ろし隣との仕切りに囲み、僅かに空いた三畳ほどの狭い広さに疲れた身体を横にした。周りを見回すと、横になる者、座ったままの者、仮眠をとるなど、各自銘々に疲れを癒していた。幼い子供はいち様に安心を求めるのか、母親の胸の中に顔を埋めて軽い寝息を立てている。船内は薄暗く鉄でできた箱そのもので、音と言えば擦れ合うような人の動き、押し殺したような会話、まだ、緊張が取れないのか異様な雰囲気を醸し出していた。

所在無げに甲板にいると

     「君 何年生だ」

突然、兵隊さんに声を掛けられた。背が高く優しそうな兵隊さんに見えた。

     「六年生です」

と、一瞬、何年生かと考えたが無意識に口からでた。答えながら襟章を見ると、もう階級章は付いていなかった。

     「帰る先は何処なの」

また聞いてきた。

     「知りません」

それから弟も寄って来て色々な話をしてくれた。

     「どうだ、兵隊さんたちの寝台が空いているから、そこに寝に来ないか」

弟と二人して狭い船底は嫌いだし、面白そうだったので喜んで行くことにした。 寝台は船底の外れの方にあり、狭い通路を挟んで三段になっていた。行ってみると、そこには沢山の兵隊たちがいて喜んで迎えてくれた。学校での話とか、家族の話とかで時間が過ぎていった。

表に出さないのか、それとも祖国への帰国の喜びなのか敗戦の暗さは感じなかった。子供と違い大人は感じ方が違うのかも知れない。

 今夜は波が高いことで有名な玄界灘を過ぎるので気をつけるように言われた。夕闇が迫り船は大きく揺れた。

(つづき、次の日曜日)

 

 


おじいちゃんのアメリカ面白見聞記    OSU 卒業式後のよもやま話

2015-02-21 00:01:17 | 日記

つくばの街路樹が新緑に萌える頃、娘が卒業するThe Ohio State University のあるコロンバスに向かった。そして、こんなことを味わった。

健常者は歩け!米国の卒業の時期は初夏の6月。全米一のキャンバスを誇る大学のスタジアムで20000人の卒業式である。4階だ。目の前にエレベータが。乗ろうとして叱られた「Hand cap ・・」一瞬?・・。そして階段を上った。

悲劇のモニュメント永遠に交信!ふたりしてFlorida のオークランドに飛んだ。向井千春宇宙飛行士の搭乗一週間前で、あの悲劇「空中爆発事故」を忘れかけた頃「ケネデイ宇宙開発センター」に向かった。悲劇の宇宙飛行士のモニュメントがあった。それは、この悲劇のこの地と宇宙(雲)との間で交わす交信(反射)が永遠に続くとの事。

水平線に夕陽は沈む!夕方の6時でも明るい。水平線を太平洋では日本に向かって遠望し、大西洋ではヨーロッパに向かって遠望した。地理的には私は背中合わせで地球の球になっていたのに、何故か夕陽は水平線に沈んでいった。そんな子供じみた、たわいのないことで4人の会話が弾み楽しんだ。

鰐の食感はPorck & Chicken!海岸の艀にある素朴な「今朝釣れた魚の店」で何故か海に生息してない鰐の肉を怪訝な気持ちで食味した。フロリダだから鰐の食感を味わうのだ。外見からくるイメージは堅そうな肉質に思えたが、4人の共通のイメージはソフトな肉質だ。結論は「ポーク・アンド・チッキン」に決まった。。

ひとりで旅に行くと、思わぬ感動を貰ったり、教えられたりと好奇心を満たしてくれるものだ。今度もOSU卒業式の帰路に訪ねた地で味わった「ひとり味」でした。

終わり

 

 


おじいちゃん 秘伝の「じゃじゃ麺」 米国へ渡る

2015-02-20 10:04:41 | エッセイ

初夏、元気な内にと孫のいるWalnutCreekに飛んだ。美しい街並の樹木は陽に映え一段と輝いていた。スーツケースを開けながら、

     「じゃじゃ麺の うどん持って来たよ~」と大きな声で叫んだ。

     「わ~、何時するの・・」と孫娘は叫んで飛んできた。

早速に、野菜類を買い求めキッチンカウンターに置いた。もう、おじいちゃんはお手伝い役で孫ふたりが主役だ。4人総がかりでの準備だ。指示はおじいちゃんが・・・。だって、おじいちゃん秘伝の「じゃじゃ麺」だから・・。これは私の母の代からアメリカにいる曾孫にまで伝承された我が家の味の話です。

まず、野菜のミジン切りから始まった。野菜は玉ねぎを3個、ピーマンを8個、生しいたけ10個、人参4本と皮むきから始まった。甘口が良ければ玉ねぎか人参を増やせば良い。ひき肉は50g/人の合挽を使った。それぞれ少し多めのオリーブ油で良く炒める。味噌は塩分の少な目の品100gを選び、水で撹拌して弛め、出来上がった野菜と炒める。味噌が多いと辛く、少ないと甘く調節は自由に。胡瓜は油分切りのために7~8cmの長さに細切りにしておく。出来上がったら器に盛る。

麺は中華麺でなく腰の硬い讃岐うどんの乾麺を用意した。100g/人~。少し硬めにする。塩分或はぬめりを除きたければ湯洗しても良い。この時は婿を入れて5人で700g でした。

出来上がりは皿にうどんを盛りつけ、トッピングに味噌肉の具を載せる。そして、その上に細切りの胡瓜を載せて出来上がり。食べ方は自由に混ぜて箸で食味する。

しょうゆう、塩、胡椒などの調味料は一切使わず、具のバランスで味が決まる。

原点を辿ると、70年程も昔の戦時中に中國北京で我が家にいた中年のアマ(女中のこと)が料理好きで、いろいろな水餃子、ぺろたん、ろ~びん、そして特に「じゃじゃ麺」が私たち子供には人気でした。茹でた麺に味噌の具を載せ、その上に胡瓜を載せた麺で至って素朴なもので今日まで食味を続けてきた。残った味噌肉の具は炊き立ての米飯に載せて食味すると、これまた珍味なり。

 盛り付けは、初めて13歳の孫娘がしました。やはり、フォークだ!

 

 

終わり