気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

新入社員だったから許された話

2017-07-31 18:06:29 | 小さな旅日記

もう、8月ともなれば、4月入社の新入社員も5月病も乗り越え仕事にも慣れ始め面白くなってくる頃である。私が配属された部署は宣伝部であるが、当時は広報係で小さな数人の部署であった。新入りにはむしろ何でもやらねばならず、仕事を覚えるには少人数は幸運だった。

  「君も入社3か月が過ぎた、取材に静岡に出張してくれないか」

日帰りでなく、宿に泊まれるのだ。しかも、二日だ。カメラとストロボを用意した。国鉄の切符は総務で手配をした。確か、静岡まで5時間はかかった。身分がぺいぺいのぺいなので明るい昼日中の移動ははばかれた。 仕事が終える定時後だと、早すぎても、遅すぎても到着時間との調整がうまくいかない。でもいたしがたなし。ペイペイだから。 

 時間の調整をして代理店に顔をだして担当者に顧客先を案内してもらうことになった。カメラを片手にいろいろな角度の写真が撮れた。 当時のフイルムの感度はカラーでASA10しかなかった。撮れているかの確認は現像をしないとわからない。 このカメラは絞りが手動だったのが、絞りを開けたり絞ったりといちいち見ない。にわか素人のカメラマンだ。信用がない。宿に戻りフイルム1本がどうも送りができていないような感触だ。

もう一回実演して貰わなければならない。顧客である某村役場ではしぶしぶそれでも新入社員に免じてもう一度再現してくれた。実演とは消火放水だったので水源を池に求めた大変な迷惑だった。 

もし、私が二年生だったら実演の再現はしてくれなかたであろう。

採用された写真のカットはたったの数カットには驚いた。でも、いい経験と勉強になった社会人最初の宿泊出張でした。

終わり


想い出って「心の古里」なのですね。

2017-07-24 22:40:56 | エッセイ

  この暑い日照りの中、外出せず、ただひたすら部屋の整理をしていた。何か見付けては想い出に浸りながら整理するので遅々として進まない。 色紙がでてきた。 ラジオ番組の30周年記念演奏会の歌手の寄せ書きだった。40年も昔に番組制作に関わったと言うことで頂いたのを想いだした。「忘却とは忘れ去ることなり・・・」と言いながら色紙はごみのビニール袋へポイ~・・。

 だが、たまたまyou tubeから流れてきているフォークソングを聴いているうちに忘れていた、この番組の公開録音演奏会を想いだしてきた。忘れようとする一方で、皮肉なものだ。その全国ネットの番組は当時流行っていたフォークソングを公開録音していた。人気ある公録番組だった。

you tubeから流れて曲は「小さな日記」で                    「小さな日記につづられて~小さな過去のことでした」の歌詞が懐かしく或る日記を想い出し、探した。 「娘初誕生の日記」と題し克明に娘を授かった父親の一日の喜びと不安を書き記していたのを見付け読みだした。そう言えば娘と母親の生誕の病院が同じだ。同窓生だ。 

日記を読んでいる耳に「希望」が流れてきた。                「希望という名の あなたをたずねて  遠い国へと また汽車にのる       小さな旅は 終わりのない旅  希望という名のマーチがひびく」の歌詞は 夜、妻の実家からの帰り車の中で決まって3歳になった娘と唄い将来への夢を託し夢みた懐かしい響きだ。傘寿を超えた老人でも希望と言う列車にキセルを不心得にも考える。   

三番目に「バラの雲」が流れてきた。                     「僕が行きたい 君の故郷へ 想い出をだいて 逢いに往きたい海辺の町へ」を耳にすると最も楽しく輝いた宣伝部時代が蘇る。 

「小さなスナック」も流れてきた。                      「二度と笑えぬ 彼の顔 二度と聴こえぬ彼の声」飲めもしないのに雰囲気を楽しんだものだ。フォークではないが、もう亡き先輩とシャンソンを聴きに行ったのが懐かしい。 

「亜麻色の髪の乙女」などまだまだ続いた。 懐かし曲が・・・。 

あの時代の公録は楽しい仕事だった。いまでは「心を癒やす、心の想い出」になった。お陰で部屋の整理は進まずただ想い出に耽り、ひとり暫しの昼寝をした。

終わり 

   


労わる気にならなかった白内障を患う

2017-07-01 17:53:08 | エッセイ

 明日は台風3号が日本列島を縦断するニュースを報じていた。         考え方として、足元が不安定な悪い日は簡単に外出を控えると決めていたので天気情報は被害をもたさらない限り余り気にしてはいない。ところが、明日の台風の進路だけは気になった。何としても病院に行きたいのだ。何をしに無理してまで・・・?   

 ここ一年程視力に悩まされてきた。                     やっと、原因が判明し眼瞼下垂手術が初秋に決まった。まだまだと言われていた白内障も手術が必要と判明。メガネを作らせられたばかりなのに・・。4つもあるメガネはどれも拡大鏡を使っても字がかすみ、溶けたりと判読ができない。それが、このブログを200%で拡大して印字している始末である。 

 遠近が良く見えないとこんなに不自由するものかと大いに自戒している。    横道にそれるが、私にはこれっと言って自慢するものがないが、強いて言えば眼と歯ぐらいだ。傘寿を超えれば白内障は100%,歯に至っては全てが自前の歯は厳しいと言う。しかし、私は初めて白内障の手術を受け、歯に至っては、まだまだ自前100%だ。亡くなった先輩が「濡れせんべい」を口にしながら羨むやんでいたのが懐かしい。 

 白内障にまつわる門外不出だった嫌な思い出がある。私は還暦を迎える直前の歳で眼は現役並み若々しかったがために、老いてる母の眼の老化に心遣いをする心配りがなかった。老人の眼の白内障の知識がなかったのだ。当時横浜港に世界最大の客船「クインエルザベス二世号」が入港していた。船内観光、昼食会のツアーに行きたいと赴任先に電話が掛かって来たので実家に前泊して連れていった。事故は下船の時に起きた。 岸壁に立ち船体に触れようとして実態は遠く離れていて海に転落した。偶然にも、脚の悪い両親を迎えに車で傍にきて遭遇。運転していた理髪師の方が埠頭の下に吸い込まれると判断し、飛び込んでくれた。その後は船員の応援もあり助かった。その後、白内障手術ををした。

 眼瞼下垂は父が患い苦しんでいた。孫たちには片目が瞑っていたお爺ちゃんだったようでここでも理解が乏しかったと思う。 やはり、同じ歳を迎えて初めて知るのですね。

 早く眼を直してアメリカの大きな孫たちと遊んだ幼い頃の写真を観ながら楽しかった想い出を懐かしみ、穏やかな時間を過ごしたいと思う。9月入学する大学の受講が早くもロンドンであると言う。爺の手を離れてどんどん羽ばたいて行く寂しさを感じてている。 

 少し落ち着きながら、のんびりと、眼を労わりながら、ゆっくりと、当分の間は楽しみたいと思います。

台風よ! あまり荒れなくて、病院に行かせて呉れ! でないと、計画が狂う。

終わり