気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

孫娘が迎えるSweet sixteen誕生日(改題)

2018-02-27 14:58:52 | エッセイ

 いつもの通り、軽い柔軟体操をすませ2階の自室に籠った。           おもむろにパソコンを立ち上げて今日も一日が始まった。 昨晩読みかけていた古い昔の初孫との日記を棚に戻そうとした。日記に挟んであったのか、パラ~とメモが落ちた。 

 日記の中で唯一空欄になっている箇所からである。それは今から14年前の母が亡くなった喪に服した年のページである。                    そこに当時の気持ちをこのように記していた。

  これからは

    足早に,駆け抜ける日々でなく

    陽だまりの中、ゆったりと

    時を刻む日々を重ねて

    行きたいと思う この頃です

 

        04/2/15 記す

   母が亡くなり、古希を迎える年に感じた気持ちを大事にしたい。

 

 早いものだ、いつしか、月日が流れ私も今年は年男である。 古希を迎える年に感じた気持ちを、これからも大事に、気ままに、自分の歩速で歩んで行きたいと思うこの頃です。 

 日記を見ると、喪があけた05年(平成17年)には早くも孫の誕生会に,まだ厳しい寒さが残る2月末にひとりサンフランシスコに飛んでいた。 1年前にSF空港で別れた孫息子は当時4歳児だった。私を空港に見送っての帰り道で「I miss Grandppa」と連呼していたそうだ。 その当時の3月の誕生日で孫ふたりは3歳と6歳になるが、果たして爺の顔を覚えているかが心配だった。ましてや孫娘は1歳児だったので・・。だが、心配どころか到着ロビーでは脚に飛びついてきた。 その3日後に3歳になる孫娘に聞いてみた。「もう3歳だね」と言うと「まだ2歳よ」と言われた。 誕生日の当日に聞いてみた。「そう3歳よ」と言われ、違いの分かるのには驚いた。肉食で育つ米国育ちは、やはり違うのかと思ったことを想い起こしたほどである。

 そこに、娘からメールで今年は更に特別な誕生日を迎えるのだと言う。米国では娘が16歳を迎える誕生日は「Sweet sixteen」と言い盛大に祝うのだそうだ。 社会的にも16歳で自動車運転免許取得ができる。 お祝いを弾まなくては・・・。

 段々と離れ遠のいていく孫たちのことを思いながら古い日記を読み流し、懐かしんでいると電話が鳴った。珍しく孫娘からの国際電話である。「珍しいね。どうしたの」と聞くと「今日学校で日本語の試験があった。間違ってはいないと思うが、正しいとは思えない」初めて疑問と質問を受けた。大人になったものだと嬉しくなった。子どもの成長は素晴らしいものがあるが、年老いた者の成長には限りがある。 それでよいのだと自分を慰めている。 窓越に射し込む冬の陽射しは柔らかい。

終わり


破棄した古いネガ・・貴重なフイルムかも・・

2018-02-15 17:25:31 | エッセイ

 ゴミ捨て場所から宝を探すかのように、先日、前の東京オリンピックの空撮のポジが見つかった辺りを念入りに探してみた。 

 昔懐かしい「SAKURA  MOUNT」と印刷をされた赤色と黄色の箱を見つけた。  マウントにセットしていない破棄したフイルムが茶色く色あせた紙に包まれて十数カットが出てきた。 ハーフサイズ[実測:22mm×15mm]のため容易に若い時と違い内容の確認はプリントしないと判別ができない。 どうせ一度は破棄された運命のフイルムだしと思ったがプリントをして、もしかして宝かも知れない。 近くの店でプリンにすることにした。何処かの奥にあるであろうプロジェクターがあれば容易に判明できるのに、これとて行方不明なり。

 では、プリントしに散歩がてら久し振りに身支度をして家をでた。 

   ここのところ散歩すらしないと言うかできないのである。今日は冬らしく穏やかな日差しが部屋の奥まで差し込んでいる。 歩きたい気分になったのである。 ポストのある桜並木の下を通り葉書一枚を投函しゆっくりと杖を突きつき前に進んだ。 坂道を上り始めると後ろから来た若い男女は車道に降りて歩道に戻り追い越して行くのだ。 こちとらは、悔しいが休み休みの登坂だ。 これでも今日は大変な進歩なのだと自分に言い聞かせて目的地の写真店に着いた。 

 「2時間待つてできるなら待つよ・・・」「じゃ、やりましょう・・」小さなフイルムをルーペで見ながら頼んで目の前にあるスターバックスのCaffee店に入った。 住宅地のど真ん中にあるのに何故か何時も満席に近い混雑には驚かされる。暇人かそれともサボリか・・・。カプチーノを時折口にして昼寝ときた。約束の時間が来た。

 ここ店の角の信号機は車、歩道別交差点即ちスクランブルなのだ。「へ~こんなところでも、駅前とも同じか・・」と思いながら店に入った。「何とかハーフポジから2L判まで拡大できましたよ」と言いながらプリントを見せてくらた。 

 懐かしい写真だ!ほとんど忘れかかっているもの・・・。

 これは聖火を陸路の渋滞を避けるために、空からの空輸を計画しテスト飛行を東京の東雲飛行場から出発しようとしている20人乗りヘリコプターである。 

   この場所は駒沢オリンピック公園の施設を空撮したもの。着地地点には予め係員が待機しているのを知った。因みに、この外に・・ヨットの江の島、カヌーの戸田、馬場の軽井沢が計画されていたようだった。 

 

もう壊されて目下再建中の国立競技場ですね。

   日本列島の4コースを聖火リレーされた聖火を開催前夜の皇居広場前に集めた「集火式」の模様です。 これこそ、よくぞゴミとして焼却されなくて良かったお宝の出物でした。 記憶と違い予想外の処に捨てられる一歩手前で助かりました。 

 プリントの入った袋を片手にさげて家路に・・・歩き疲れたひと時でした。  

終わり 


石川滋彦水彩画回顧展を訪れ、昔日を友と懐かしむ

2018-02-06 14:42:50 | エッセイ

 また東京に大雪が降るニュースが流れた日のこと。              4日の日曜日は避けてほしい。 学生時代に青春の懐かしい想い出にお世話になった大学の美術部の先生「石川滋彦水彩画回顧展」が表参道のギャラリーであるからである。 この機に高校大学と同期の友人にも数年振りに会える。また、当時の美術部の懐かしい友人にも会えるかも知れないと言う期待を思うと積雪は大いに迷惑である。

 

 先生との想い出は尽きない。 特に思い出深く忘れられない夏の美術部の合宿最後の夜は、山間に囲まれた広場に丸太を高く組み、大きなキャンプファイヤーを満点の星空に向けて焚き、その周囲を全部員で囲み先生の奏でるアコーデイオンに合わせてフオークダンスに興じた。 総勢70余人で唄う歌声は山々に木霊し、青春を謳歌したものでした。

 初単身赴任の地で訪れた「笠間日動美術館」では、先生の「50画家のパレット」を観に行った時のことでした。 思いもかけず油彩画F8「機関庫」の展示に遭遇し、懐かしくおはがきを差し上げたところ、大変に喜ばれ返信のおはがきを頂いたことなどが昨日の様に思い出してきて懐かしみました。

 また、合宿のことでご相談にご自宅にお訪ねしたことがあった。 初めて画家のアトリエを見聞し、傾斜した机の上に描きかけ途中の水彩画が置いてあり、何かが異なる憧れの雰囲気をもった佇まいを感じたことを覚えています。

 そして、結婚してまだ日が浅い頃、日本橋の高島屋で先生の「パリーの片隅」と題を勝手に決めたくなるような額縁に入った磁器タイルに絵を焼き付けたのを見付けて驚き、結婚記念にと買い求めた。 その後、その絵は社宅を菊名、船橋、元住吉、田奈と渡り歩き最後に、この現在地に安住した。 キャンバスの代わりに厚さ100mmの磁器タイルに焼き付けた重い一枚の絵でした。

 

 その懐かしい想い出が多い先生の回顧展が表参道で開催すると言う。        高校大学そして美術部と共に友好を深めてきていた友人と改札口で落ち合うことにした。 前日から天候を気にし歩行の鍛錬に準備体操にも余念がなかった。 だが、なかなか事はうまくはいかない。 当日の朝、タクシーを呼ぶにも話中で中々つながらない。 お陰で電車を1本遅らせ、普通に乘る羽目になる。急がなければと、途中で急行に乘り変えて席に座れた。体調を維持するためにも良かったとその時は思った。

 車掌の車内アナウンスが何遍も行き先を言っている。違和感を感じた。「大手町」とか「大井町」とかに聴こえた。「大手町」とは珍しいな。「大井町」と一文字違いに気がつかなかった。気づいた時はすでに遅く、しかも急行とは・・・。遠回りでやっと友人の待つ改札口に辿り着いた。迷いながら、シャレタ表参道の小路を歩き会場に辿り着いた。 受付で記帳し20点ほどの水彩画をゆっくりとみた。懐かしいタッチと色彩だ。お人柄を表す穏やかな絵画だ。まだ入場は早くトップのようだ。 

 この時、友人が声を発し、紹介され驚き、懐かしい人に卒業以来と言って良いぐらいに会えた。 一年先輩である。 共に懐かしく話が弾み長居をしてしまった。 そして、別れを告げて会場を去った。 ひと言で言うが、60年振りの懐かしい顔と声なのだ。 無理して出て来て友人の介添えもあったもののよかった。天候も恵んでくれた。 嬉しいの一言である。 

「生きていてこそ人生」とはこのことでしょうか。

終わり  

   


・・ない筈の電話が鳴るミステリー

2018-02-02 15:59:25 | エッセイ

 いまも、我が家にはない筈の電話の音が鳴っている筈である。 ・・筈とは、普段は全く聴こえないので鳴っていると言う意識がないからである。

 いつの頃か忘れたが、或る晩のこと、娘の部屋から息子の部屋に何か用事でもあったのか、ノックをしようとした時、壁の向こうで電話の掛ける音がかすかに聴こえた。 しかも、古い昔のダイヤル式の指で回す音だ。誰もいない筈なのに・・・。

 当時、我が家にある電話機は留守録,Fax機能が付き子機もある。 プッシュ式でもある。機械そのものが違う。 すると、あの音は何の音だったのだろう。不思議でならなかった。

 壁向こうの部屋とは2階の和室である。だが、いつしか納戸に用途が移っていった部屋だ。 しかも、昔はこの部屋に記憶に自信はないが確か子機を取り付けた気がする。 でも、電話機はとうの昔に電話局が新旧の入れ替えの工事を済ませている。即ちもうこの部屋には電話配線がない筈。 もし、借りに旧電話機本体があっても配線撤去工事をしてる筈だから音はしないと信じていた。では、何故、鳴るのか?

 ともかく、納戸になっている和室のかつて電話機を置いてあった場所の荷物を退かして、ここが音の発生源であるかを正すことにした。

 予測通りにあっても拍子抜けになるし、無ければ無いと原因が不明で不安になるしといろいろと考えながら、そうと覗いた。

 随分長い間、見忘れた「白いダイヤル式電話機」が物の隙間に鎮座していた。    あった!あった!何か拍子が抜けたようになった。 

 この気づく瞬間まで何年間、音が鳴りつづけていたのかと思うと、この方が薄気味悪い。 

 翌日、電話局に問いただしてみた。 機能的には問題はない。 通話工事の際に単純に言えば撤去するのを忘れたのだ。 子機として機能を果たせるか実験してみたところつながった。

 今まで通り放置しておくか、それとも撤去工事をして貰うかを考えた。 

 夜半には心配をさせる電話は鳴らないから、これまでと同じく仲良くお付き合いするか・・・。それとも、薄気味悪いから撤去工事をして貰うか。

 我が家の盲腸かな?

この不思議な出来事を知っているのは、もしかして私一人のミステリーかな。

 音のリズムが2台でなく、3台で奏でているのも華やかなかな・・・と、ひとり下らん冗談を自室で瞑想しPCに向かっている。 

 終わり