気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

まだ続くのか・・引き揚げ記憶が・・

2018-03-31 22:30:56 | エッセイ

 朝の陽射しが雨戸の格子越しに部屋に射してきた。 今日もいい天気だ。 今日はバスを乗り継いでの大学病院受診日だ。 桜通りのバス停から・・さぞ、ちゅど花吹雪に出会うかなと、期待をしながら起床した。

 だが、妻のひと声で「急用で・・・送れない・・タクシーで・・」行きは大事をとりタクシーとなる。帰路は期待の花吹雪の中を歩き平和なひと時を味わえた。加齢による身体の不自由さはあるものの、家族が揃い無事にそれぞれが平和な家庭を築き戦争のない時代を享受している。この上もない平和だ!! でも、兄の死は戦争の犠牲だとも言える。

 その夜たまたまTVのスィッチを入れると、NHK特集ドラマ「どこにもない国」引き揚げは実現するのか150万人祖国へ」後編が放映され途中から見入った。

本能的に反応した。それは「引き揚げ」「祖国」「仙崎港」「(引き揚げ)体験」らの文字に戦後73年を過ぎても反応する根深さに恐れさえ感じた。 

 私は北京からの引き揚げ者である 満州そして朝鮮からの方は北京の比ではない。 ドラマでは帰国は昭和22年1月とある。 私は最後の船とは言え昭和21年5月であった。 小雨降る中を無蓋車に石炭並みに扱われたのには変わりはないが、満州から帰国した同級生によると、比ではないそうだ。 「大地の子」になっていないかと気になった北京時代の友人の名「秋山」はいまだに忘れない。 名乗りでてやろうと思った。 祖国に帰国した港は山口県の仙崎港もこんな身体になる前に行きたかった。「自分史:歩んだ道」の中に記述した残念だが嬉しかった話は引き揚げ船中にお世話になった日本の徐隊兵の「細島道太郎」さんの名前を憶え続け現役の仕事を終えた戦後50年に電話の連絡がとれ、お礼が言えたことだ。しかし、83歳になられ記憶がないことが残念なことだった。

 良いことも、悪い事も忘れなれずに脳の片隅に想い出としてこびり付いているものなのですね。 忘れたいような、忘れたくないような想い出はもう苦しだけのものです。 気ままに書き始めたので、よく手紙の末尾に昔に書いた「乱筆、乱文」にて失礼いたします。

尚、「大地の子」にならなかった秋山君。祖国への引き揚げ列車。戦禍の祖国仙崎港。など個別にブログに掲載しています。

終わり


散歩もスロー、ブログ投稿もスローに・・・

2018-03-26 14:14:17 | エッセイ

   今日は、朝 早くから好天気である。昨日も桜開花日和につきる陽射しがさしていた。ここのところ、ブログも休んでいる。

 このままではいかんとばかり、昨日、カメラを手にすぐ近くの桜通りに桜を観に行ってみた。もう、カメラマンが来ている。7分咲きかな。バス停にまで歩いて行くと、「善意の贈り物」の以前のプラの椅子が木製に格上げになって鎮座していた。更に歩くと元女子短大閉校の解体作業に出会う。跡地5000坪にマンションができるとか・・。そしてお犬様の用品デパートまで歩いた。これで我が家からここまで歩くこと、たったの300mとは。散歩の距離だろうか。短か過ぎる。でも、疲れて歩きがスローになってきた。妻に迎えの車のSOSでもせねばならないか、或いは眼の前にあるタリーズコヒー店に駆け込むか考えた。「散歩に来たんだぞ~。」誘惑にもめげず、コヒーを諦めて桜の並木の下を歩き我が家にやっと辿り着きブログ投稿の 準備に取り掛かった。

久し振りの操作のため投稿直前の原稿全てを誤っ消去してしまい、そして翌朝を迎えた。

不足分の散歩の追加を考えたが、疲れが残っているので翌日の今日は医者だけにした。ところが、朝日新聞に「ランドセルカバンが重い」の見出しがあった。我が家にも小学1年生の孫娘がこの4月に誕生する。小柄である。 妻と昨晩「ランドセルカバン」の重さについて討論していたばかりだった。記事によると、「サイズが大きくなった」「6年間持ち応えられる堅牢さ」が価格に反映されていると言う。 低学年生と高学年生とでは体力が大きくことなる。せめて低学年用に軽く、高学年用に現行の重さにできないものか。我が家の孫は米国にもいて比較してみると、、低学年は教科書がない。背にナップザックだけ。高学年も教科書は教室においてある。もう10年程昔の記憶ですが見習うべきですね。


心の片隅に残る「遺言日記」を書きたい

2018-03-08 08:46:07 | エッセイ

 数か月前の或る日、友人との間で「遺言」の話になった。二文字から受ける堅苦しさと、いまだ取り組みがたい雰囲気とは違うものを感じた。 

 遺言には自分の人生の総括をかしこまらずに日記風に書き留めておこうと思っている。 「始りもなければ、終わりのない日記」風にである。                   何故日記風にしたいかは、これまで自分の歩み過ぎた人生は全て日記風に纏めてきた所以でもある。 

 

 それは年賀状にも春夏秋冬の四季に亘る生活を日記風に23年間も続けて、戌年の平成30年で終えた年賀は「1年日記」であった。 

 また、単身赴任中のひとり身の時に、ふと、訪れた見知らぬ地での想い出を書き留めておきたく郵貯通帳の幅15cm程の狭い空白に、新たな想い出を記め、そこに日付と郵局印を押印して貰う「1行日記」を平成4年10月に始まり平成19年5月までの15年間も追い求め続けた。

そこには亡き母も元気な姿で登場。       

 娘はアメリカの大学に留学し、そこで結婚し孫ふたりが誕生し、幼き孫との余生を楽しんだ「海外旅日記」を「爺との想い出」として書き残せた。 

 これら日記も加齢には逆らえず数年前に自ら日記の幕を閉じた。        我が家の家族は妻と娘と息子そして4人の孫の7人もいる。全ての日記が未完である。 

 まだ考える時間がある。感謝と希望と、そして忘れ得ぬ想い出も込めた「遺言」とはどう言う形で愛する家族に伝えるかを考えたい。 心の片隅に消えぬ想い出を残すのも遺言ならば、もう幾頁は書き始めていたのかも知れない。「遺言」とは決まった形はないと思う。自分好みで良いのではないかと思う。何かをひとりしみじみと考えさせられた昔の友の集まりに会う前日の夜でした。

 雨音は聴こえる。 外は雨、 外気温が冷えてきたようだ。雨よ止んで呉れ・・!杖と雨傘で手が一杯、階段の手すりは・・。戯言を・・。  終わり


to go って、何だろう? 東郷かな?

2018-03-01 17:35:56 | エッセイ

 サンフランシスコの郊外で娘家族と少しばかり永くステイをしていて知った20年も昔の話です。

 仕事も閑職だし、そんな時に、娘から生まれたばかりの初孫息子の写真を送ってきた。 「誰似なのだろう?」何処かで見た顔・・・「火星ちゃん?」に似ているかな~と、失礼な想像もしていた。仕事も自由が利くし。チャンスだぞ!!

そう、考えると、矢もたまらない・・・。ひとりで娘の住むサンフランシスコに孫に会いに行くことにした。生後6ケ月にもなったし・・・。爺の顔も覚えるだろうし・・。

 秋が深まりかかった頃、ひとり心を躍らせ向かった。 SF国際空港ロビーには孫を抱いた娘が迎えに来てくれていた。 R100を北上しノバトに着いた。公園の中に建っ連棟式アパートだった。辺り一面に芝生が敷きしめられ、百日紅の花が咲き誇り、遠くにプールで水浴びする子供の声が聴こえ中秋だと言うのに不思議な違和感を味わった。 孫息子との楽しみはいろいろなところで発揮した。坂道の多い市内での散歩。油断したら大事故だ・・・。観光と違い、生活感のあるなかで知る経験は楽しいものだ。

 ここは地理的にカリフォルニアワインカントリーで知られるザ・ナパ・バレー、ソノマ・バレーに近く足をのばしたものだ。 ヒッチコックの映画「The Bird」の撮影地も太平洋沿いに残っていた。

 街中で食事をするうちに時折、あちこちで見かける看板があった。

その看板にはこう書いてあった。  「to go」

見かけると、反射的に頭の中で「tougou」と呼んでしまうようだ。

何処に起因してるか考えてみた。 

子供の頃、この言葉に結び付くのは日露戦争の海軍軍人東郷平八郎海軍元帥しかいない。戦後50年も過ぎ関連性があろう筈がない。娘に聞いてみた。「take out」のことよと当たり前の如くに言い返された。 昔は「doggy bag」とも言ったあれかと問いただしたほどだった。

 因みに、余談だが、高級衣装店の喫茶ルームでの「to go」の袋は名前入りの包装で、時折、ファッションショーを見せている。若い女の子はその袋がステータスで欲しがっているほどだ。 

 それから20年も過ぎた。 いろんな異文化を知った。 その地に足を下ろして知るのであって観光では絶対に知りうることは絶対にありえない。いまではドクターストップもあり、もう二度と生活感のある経験はできない。

孫息子も今じゃ大学生だ。まだ。爺を相手にしてくれるかね。             爺を「to go」して呉れよ!

終わり