朝の陽射しが雨戸の格子越しに部屋に射してきた。 今日もいい天気だ。 今日はバスを乗り継いでの大学病院受診日だ。 桜通りのバス停から・・さぞ、ちゅど花吹雪に出会うかなと、期待をしながら起床した。
だが、妻のひと声で「急用で・・・送れない・・タクシーで・・」行きは大事をとりタクシーとなる。帰路は期待の花吹雪の中を歩き平和なひと時を味わえた。加齢による身体の不自由さはあるものの、家族が揃い無事にそれぞれが平和な家庭を築き戦争のない時代を享受している。この上もない平和だ!! でも、兄の死は戦争の犠牲だとも言える。
その夜たまたまTVのスィッチを入れると、NHK特集ドラマ「どこにもない国」引き揚げは実現するのか150万人祖国へ」後編が放映され途中から見入った。
本能的に反応した。それは「引き揚げ」「祖国」「仙崎港」「(引き揚げ)体験」らの文字に戦後73年を過ぎても反応する根深さに恐れさえ感じた。
私は北京からの引き揚げ者である 満州そして朝鮮からの方は北京の比ではない。 ドラマでは帰国は昭和22年1月とある。 私は最後の船とは言え昭和21年5月であった。 小雨降る中を無蓋車に石炭並みに扱われたのには変わりはないが、満州から帰国した同級生によると、比ではないそうだ。 「大地の子」になっていないかと気になった北京時代の友人の名「秋山」はいまだに忘れない。 名乗りでてやろうと思った。 祖国に帰国した港は山口県の仙崎港もこんな身体になる前に行きたかった。「自分史:歩んだ道」の中に記述した残念だが嬉しかった話は引き揚げ船中にお世話になった日本の徐隊兵の「細島道太郎」さんの名前を憶え続け現役の仕事を終えた戦後50年に電話の連絡がとれ、お礼が言えたことだ。しかし、83歳になられ記憶がないことが残念なことだった。
良いことも、悪い事も忘れなれずに脳の片隅に想い出としてこびり付いているものなのですね。 忘れたいような、忘れたくないような想い出はもう苦しだけのものです。 気ままに書き始めたので、よく手紙の末尾に昔に書いた「乱筆、乱文」にて失礼いたします。
尚、「大地の子」にならなかった秋山君。祖国への引き揚げ列車。戦禍の祖国仙崎港。など個別にブログに掲載しています。
終わり