気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

幼い頃の孫とおじいちゃんとの話(2)

2015-03-30 21:51:26 | 日記

両親の緊急帰国で、ひとり爺婆の家に三か月も残った孫息子を爺と婆のふたりで連れて娘の待つサンフランシスコに向かった。

 可愛い盛りの2歳11か月の時に共に過ごせたのは遠い処に住む孫ゆえに神から与えられた恵みだと思った。

だが、爺の過失で額を強打し大きな瘤を作り、娘の緊急入院先の救急センターに搬送するなど。一時は親子が同じ病院で・・? あんなに焦せり動転したことはない。ごめん。

預かっている間中、母親が恋しい歳頃を思うと不憫で時間が許せば、木造りのジャングルジムハウスに連れて行った。 

ただ、爺との会話は日本語の一方通行だ。時折,発音の悪い英語も併用したが・・・。 日本語の理解が・・、それとも悲しみを堪えてるのか余り喋らない。 でも、笑みを湛え飛びついて来る。身体表現なのだろう。 いまは日本語も英語も言葉を脳に蓄積している時期だ。 特にいま必要なのは愛情である。 そんな時に、「あんな可愛いい子をみたことない・・。」と、雑音が聴こえて来た。 言葉を理解するのに脳はフル回転している時期に止めて欲しい。 放っておいて欲しいのだ。 爺は目下、必死なのだ!

 こんな時期に実家で新年の兄弟の集いがあった。 末の弟が大きな家犬を連れて来ていた。 孫はビックリし咄嗟に「ぼくは身体が小さいのだから噛まないで欲しいよ~」と突然に日本語が口から出た。 これには驚いた。 毎日聴いていた日英の物語CDの中に出て来るセリフだ。 娘の日頃の努力が実ったのだ。

 こうして滞在の期間を終え、3人で空港行きのバス停に向かった。 成田空港に向かうリムジンバスの2時間、サンフランシスコまでの飛行時間の9.5 時間の長時間にも拘わらず一言も騒ぎたてなかった。 婆が耳元で話す日英の物語、千代紙折りなどをしながら静かにしてたのには驚きだ。 後に、7歳頃にはHarryPotterの全集を読破するなど本屋と図書館大好き!な子。 変わった孫息子の誕生かな!? 

こんど引っ越した街、Antioch は新しい街である。

数年が過ぎ、ある朝、新興住宅地を一回りしようと誘った。「いいよ!」の声を聞きふたりで歩きだした。 途中、通学中の子供と朝の挨拶をしながら2~30分も掛けて自宅に戻った。

「おじいちゃん もう、ぼくいかないよ!」・・。と、帰るなり言われた。    まだ5歳。 娘から「ここはアメリカよ」「車族だから・・熱を出しますよ」そう言えば、乳母車は日本と違い4歳半ぐらいまで乗るには驚く。 自分の自家用車のつもりでいるのだ。 だから、歩くのが弱いのかも知れない。 1.5kmも歩いたかも。 反省!

或る日のこと、お礼を言われ「you're welcome」と返礼をした時、傍らにいた4歳児の孫息子は「おじいちゃん 英語を話せる」と感嘆な声を上げた。・・おじいちゃんも悲しいよと言い「I miss you 」と、言うとすかさず「too 」を付けると良いよときた。 「分かってるよ‼」と切り返した。 

 こうして、孫息子との会話は果てしなく日本語ペースで進んでいく。もう、少し経つと孫娘も介入してくる。 日本語担当の爺は忙しい。この頃はその日本語すら詰まることもある。

 或るサンフランシスコ国際空港での帰国の時、いつもの通りRulli Cafe でモーニングをすませ別れのハグをして手を振った。 泣きそうな顔の孫息子、帰りの車の中で「I  miss grandpa 」と連発。 どうも自分もおじいちゃんと一緒に日本へ行くのだと思っていたらっしい。 ママはどうするの・・?

 


幼い頃の孫とおじいちゃんとの話   別称:爺孫手帳

2015-03-25 00:14:09 | エッセイ

 私こと、爺の初孫は娘の息子である。それから三年後に孫娘を授かる。幸せな爺である。

 孫息子の父親はアメリカ人であるから所謂世間で言うハーフである。孫息子は今のところ二重国籍で、いずれ何方かの国籍にしなければならない。一言で簡単に言うが本人にとっては苛酷な試練であると思う。

その孫息子との交流を想い起こしながら筆記し続けて見ることにした。

孫息子との初顔合わせは、1999/10にひとりでサンフランシスコに飛び、SF国際空港からGoldenGateBridgeを渡りRote100ハイウエイを北へ上ったNovatoの広い公園のコート中にあるメゾネットタイプの住まいであった。丁度、生後7か月になっていた孫は前歯の下二本が生え大きな声を発し家の中を所狭しと這いずっていた。

 或る日、爺の飲むコップを下方から首を上に曲げて視線を寄せて来たりと全てに関心を寄せる。 母親の乳を飲み終えてるのに・・。

 娘が仕事場である日本語学校で仕事をしている間、爺がベビーシッターをする。学校のある日本人町は、サンフランシスコの坂道にある。乳母車で散歩する処ではないとは言わぬがbetterではない。とて、選択の余地はない。 散歩をして時折り乳母車を止めて装備の確認と笑顔を見て至福を楽しんでいた。 一方、孫息子も爺が居るか居ないかの確認をするのかの如く良く振り向き顔を確認された。(間違わないでね~と、老いぼれは信用できないと言わんばかりに~。)

2000/6に赴任先のつくばから自宅に戻った機会に再びひとりで顔と声を聞きたく飛んだ。今度の処はRainbowBridgeを渡ったAntiochである。

Antioch に越した頃には、歯が8本も揃い、奇声を発しながらヨタヨタと立歩き始めていた。日没が9時と遅く、近くの公園で孫息子を抱き上げて、遠くに置き歩かせて嫌われたりもした。

 娘は仕事に行く時、面白いことに、娘自身も育った婆の教えるLabo英語劇の日英CDを車の中で常時、孫息子に聞かせていた。孫息子は不思議にも何時間でも静かに聴いてくれる魔法のCD だった。

 まだ1歳の孫息子。読んで欲しい本を手に爺の前に来て、クルリと背を回しお尻を向けて後すざりして爺の膝に座る。日本語の絵本である。爺は日本語しか読まない。(娘から爺の英語の発音を聞かせたくない。)NHK のドラマ「葵」しかも朗読の部分を何故か静かに聴き入る。 日本語の語りが好きなのか・・しかも、ここは米国でまだ1歳・・・。    そして、音楽が鳴るとどうしても腰が動きリズムをとる。二つの国の血が騒ぐのか。

それから2001/3の8か月後にまた会った。2歳を迎えていた。ヒヤリングは日本語も英語も理解しているが、話す方はまだ短い単語で表現をしている。

「No」「はい」「ほしい」怒った時に指を差して[you]など日英語が混在している。

 娘が帰省中に緊急入院。婿を呼び寄せ急遽米国へ戻った時、爺の家に2歳の孫息子がひとりで残った。3か月後、爺婆とで娘のいる所に送り届けた。悲しい思いをさせたが、日本語の発達は進んだ。だって、日本語しか話させない。英語は婆は良くても爺の発音はNoGood。そして、無事に孫娘が誕生した。      

 


牧歌的な街にThanderbirdが・・・!

2015-03-18 01:03:22 | 日記

 何時もの街でいつもの爽やかな夏を迎えていた。 ベイエリアでは、時にはF100 度を超える暑さになることもある。

 ある日、軽井沢を想い起こす山間の街で孫にC.A 1 と言わせたバーガー店に行った時のこと。もう先客で良いポジションは占められていた。何とか歩道に面した処をGet!

ジャケットを着用した中年の男女4人のグループが楽しそうに懇談をしていた。 どうも、アメリカンドリーム時代に謳歌したオールドカー「Thanderbird 」のオープンカーで乗り付けたグループのようだ。 この牧歌的な町の街の佇まいに溶け込んでいた。

 

孫お推めのバーガーがやっときた。 頼んでから来るまでの時間が掛かるので有名とか・・。それだけのことは、あった。旨い!!

 (娘)

語り食べ終えた中年の男女は立ち上がり、爽やかな雰囲気を漂わせ颯爽と、あの懐かしいエンジン音を響かせ走り去った。

この時、映画「風と共に去りぬ」のクラークゲーブルの愛車が「The Auto Museum 」に展示してあるのを何故か想い出した。

初夏の或る山間の昼時のひとときでした。

終わり

 


竹馬で表現する鳥の舞踏に感嘆! サンデイエゴ動物園

2015-03-16 07:25:24 | 小さな旅日記

 サフランシスコ近郊 のオークランド空港でセキュリテイが厳しく出発が5時間も遅れた。

 ここサンデイエゴは軍港でもあり、豪華客船が入港してきていた。スペイン時代の建造物が凄い。橋を渡ったノースアイランドの街並みはメキシコの香りがして何時までも歩きたくなる程。南C.Aなのに、夕刻は冷え込み長袖のT シャッツを買う始末。

サンデイエゴ動物園は世界最大級の広々とした自然な環境で約800種類、動物が約4000頭も飼育されている。

鳥が舞うスペイン風の舞踏を竹馬に乗り、いかにも飛んでいるかのよな大きな鳥の姿に感嘆。何か由緒ある地場の踊りか?

(動物園入口前広場)

南カリフォルニアの水平線に沈む夕陽が綺麗だった。

終わり

 


引き潮で船が遠くへ     セブ島で本当にあった話

2015-03-14 00:09:34 | 小さな旅日記

 早春の南の島、ホテルに迎えに来たバスの中で日本人のガイドが、面白可笑しく観光の楽しいムードを盛り上げていた。

     「ここで火事になったら、まずお金がなかったら全焼ですね」

と、言いだすと、乗り合わせた者は怪訝そうな表情をした。

電話口で・・・

     「いくら払う?」

払わないと、消防車の駆けつける時間が遅くなると言う話。冗談話にせよ大同小異違わないだろうと思った。

 今日は旅の目玉の「離れ小島での海鮮バーベキュー」だ。浅瀬に船の船首を突っ込み、器材を持ち込んだ。見渡すと島は小さな小屋を島の中心に、そして椰子の木が数本あるしか何もない無人島である。見渡せるだけか? 何もなく、することも何もない無人島。ただ食べるのみ。焦げ付く様に暑い陽ざしを遮るものもなく、人間もバーベキューだ。

気がつくと、引き潮で島を囲む砂地が遠浅に広がり、船は座礁を避けるのか、商売上手なのか遠くに島から遠ざかって停泊していた。現地のガイドが

     「船に乗ってください~」

どう見ても泳がないと足が届かなさそうだ。私は泳ぎは得意ではない。気が付くと傍に男が立っていた。

     「Piso150 、カヌーであそこまで運ぶよ~」

たどたどしい日本語で寄って来た。カヌまでも離れている。そこまでは背負っていくとのこと。

     「Piso100 だ!」「分かった。良いよ」

カヌーに乗ると「Piso150だよ」と言いだした。競りの戦いだ。

「No! Piso100 」、「OK 」やっと、無事に船に戻れた。

 遠ざかる小島を見ながら、一昨夕の入国審査場を思い起こした。床に木箱が置かれ天井に裸電球が一灯点り、周りには金網が張り巡らされている。薄暗い中で眼だけがひかり、金網に黒い指が覗いている。異様な雰囲気を感じた。そして、消防車の話が少しばかり信じられる気がした。いまでは近代的なリゾート空港になっているとのこと。(ペナン)

南の島では空は何処までも澄み渡り、素朴で明るい人柄、そして全てを忘れさせて呉れる何かがある。そこが好きだ。よく行ったな~。

終わり