気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

何も濡れなくともいいのに濡れた話

2016-08-30 20:27:45 | エッセイ

 台風シーズンを迎えると想いだす情けない話です。

 毎朝、妻は駅まで歩いて7~8分ほどの距離をホームまで見送ってくれていた。ドアが閉まり私が「いかにも蛙が押し潰された様な無様な格好」で出勤する姿をみていた。(乗員容積率:200%)

 この駅は、なぜか低地にあって大雨が降ると冠水するので地元では知られていた。私もニュースでは知るものの経験したことはない。 妻は全く知らない。

 朝、小降りだった雨も帰宅時刻には本降りとなり妻は私の雨傘を手に駅まで迎えにでていた。 私は状況判断をして、実家に寄り車を借り帰宅を急いだ。駅に迎えに行っていて妻は当然不在。家のスペアキーは持っていない。勿論、電話も携帯もないので連絡が取れない。車で駅の行ける所まで行ってみた。やはり、冠水で駅には近寄れない。

 一方、妻は私の雨傘を手に同じく迎え待つ地元の奥様方7~8組と一緒に改札口にいた。一人去り二人去りそして全ての奥様方は消えた。次第に足元に水かさが増し、気づくと妻一人だけが改札口の上によじ登っていた。線路は水没し、当然の如く電車は不通となる。長靴は穿いていない。膝ぐらいまでの水かさはある。水に浸からないと帰れない状況と知るが遅し。

 また、私は大声で妻を呼ぶが、遠くて声が届かない。傍まで行くには水に浸かり歩かなくてはならない。折角、車を借りたのに、ズボンの裾をめくり革靴のまま冠水に満ちた駅前広場を抜けて改札口に向かった。水かさは膝まであった。

 改札口の上で思案し躊躇している妻がいた。互いに無事を確認し濡れなくてもよかったのに、仲良く濡れて帰った人には話せない情けない話でした。

 情報収集の必要性は痛感したが、片手落ちでは意味がないことも知った若い頃のほろ苦い想い出でした。

終わり

 


夢で逢った人に、もう一度夢で逢いたい・・・

2016-08-25 11:46:44 | エッセイ

 リオからオリンピック選手団凱旋のニュースがテレビに流れていた。

 1964年開催の東京オリンピックに仕事で携わっていた頃を想い起こしながら物思いに更けていた。    

 ふと、もう何年前にになるのかな~と思考があらぬ方へ飛んでいた。      現役を去り、もちろんの事、blogも知らない。                    10数年も昔のことである。いや~もっとかな~

 それも、夢の話である。

  元来、夢は朝寝起きと共に消えて覚えていないのが夢だとよく言われていた。     それが、強烈に印象に残る夢の内容だったのか残像が、いまだに記憶に残っているから不思議だ。

妻に言わせると「夢でしか、可哀想な人・・・」と一笑にされる始末。娘に話すと「ロマンチストね~」と、これまた一笑にふされた。                 夢の内容は・・・小説風に纏めてみた。

「 夏日の強い或る日

 ひとりの青年が長野から信州の千曲川沿いを一両車両で走り野島温泉駅らしき駅で下車をした。 初めてなのか青年は人気の少ないホームで辺りをキョロヨロと見回していた。 青年は照り返しの強い日照りの中を汗を拭き拭き山間に向かって歩いた。 そして、大きな冠木門のある豪農の家の前に辿り着いた。 

 ここの家を訪ねるつもりでいたようだ。

 青年は敷居をまたぎ、敷地内を覗いた。 数人の家人が掃き寄せられた落ち葉を季節外れの焚火で燃やしながら談笑をしていた。 人の気配を感じ話声が途絶え、ひとりの若い女性が青年を凝視した。 女性の首の辺りは肉腫なのか太く腫れている姿をしていた。 女性は懐かしそうな笑みをたたえ、いまにも何かを言い掛けようとした時、青年は何か見てはならないものを視てしまったと言う顔になった。 反射的に顔を背けた。 女性の顔は悲しい寂しい顔に・・・。 

 女性は重い病を発症し養生のために退職し古里に戻ったのだ。真実を知り顔を背けるとは一瞬とは言え己を許せなかった。 青年は顔を戻した。」

ここで眼が覚めた。                              

 女性が誰なのか知らない。もしかして、東京オリンピックが開催されていた頃に近くにいた人かも知れない。

このドラマの続きを知りたく期待をして床に就くがいまだ続編にお目に掛かったことがない。 夢とは何て無責任なものなんだろう・・・。

 お昼時にふと想い起こした戯言をメモにしてみました。老人って暇なんですね。・・・の時もあるのです。この頃キーボードを打つのも苦しくなってきました。休みます。

終わり  

    


孫娘のお宮参り

2016-08-20 13:10:39 | エッセイ

 今日の空は実に綺麗な夏空だ。 昨日の正午に台風の合間を縫って幸いにも孫娘のお宮参りをすますことができた。 

 息子から先月誕生した二人目の孫娘のお宮参り話を聞かされていた。 我が家では4人の孫の内、ふたりのお宮参りに祖父母として介添えしてきたことになる。     娘の孫ふたりは米国に在住して帰国していなかった事もありしていない。 いまのところ、孫ふたりは米日の二重国籍であるので、尚の事してやりたかった。          いや~、遅まきながら、娘はもしかして孫を帰国時に目黒の玉川神社に詣でてるような気もしてきた。

 この頃、お宮参りを初詣でと間違えるなど言葉の記憶はだんだん自身がなくなってきた。

 振り返ってみると、お宮参りは、娘が生まれた時、亡き母の介添えで目黒の大鳥神社に祈願したことを想いだした。 もう、50年近くも昔になるのか・・・年月の過ぎる速さに驚く。 これで3度目になるが、厳粛な面持ちになり静かな気持ちに浸れた。

 傍らに孫娘の命名書がある。これとて忘れるところだった。 ふたり目ともなると緊張感に乏しくもなる。いや~歳ゆえかも・・・。頼まれて書くに当たり硯箱一式はある。たが、筆は何年も墨で固まったまま。 買い替えに行くにも筆1本に老人優待パスで駅まで覚悟。 腕の筋肉が衰え、墨を擦っても擦っても薄い。 では、墨汁を買うか・・?この前のは何処? 書く文字数は一文字とは・・。せめてふた文字にして欲しい。 何をするにも意のままにはいかない。

 神社は上の孫娘の時と同じく地元の神鳥前川神社に祈願をした。 すくすくと素直に育ってほしい。 平和が続く世に・・・。

終わり 


12歳の少年が体験した祖国引き揚げ(終わり)

2016-08-12 20:52:57 | エッセイ

  街灯の薄明りの中で板は光ってみえた。

 雨に濡れた地表は足元を不安定にした。 暗闇の中を透かして見ると、埠頭が見え貨物船らしき大きな船が横たわっていた。 黙々と歩き黒い船影に向かって歩いた。 無言で人影すら感じない。 岸壁に寄せる静かな波の音だけが聴こえる。     ここで初めて中國の塘沽の港と知る。 

 踏み板を渡り船の甲板に脚を踏み入れようとした時、脇に立っていた船員が思いもかけず日本語でひとり一人の肩を支えながら

   「もう、ここは日本ですよ」

と声を掛け続けていた。 船橋の拡声器からは「帰り船」(田畑義男さんが唄う:後日知る)の曲が流れていた。 踏み渡った板は地獄から天国への渡り板だったに違いない。 

 引き揚げ船は米軍の上陸揚船艇母艦LST]で船底に引かれた畳に寝起きした。    北京からの最終引き揚げ船の赤十字船のためか日本の除隊兵が一緒でほっとした感があった。

翌朝、嘘のように晴れ渡った空の下を引き揚げ船は中国大陸の港を離れ、一路、山口県仙崎港に向かった。

 やっと、落ち着きを戻した頃、無蓋貨車の遮るもののない中で、小雨に濡れたことがもとで五歳になる男の子二人が急性肺炎に罹り亡くなり、船尾から日の丸の旗に包まれ水葬がしめやかに行われた。 ここまで頑張れたのに…。 悲しい!

遺骨さえ異国に残さないのに、まだ幼いいたいけな遺体を水中に葬るとは・・・。

戦争とは戦闘員だけでなく非戦闘員にも悲惨さが及ぶことを、この時知った。

12歳と言う多感な少年時代に体感し得たのは、永遠の財産であったかも知れない。二度とまみえない時代を・・・。 

終わり 

追記:

[仙崎港に上陸後の家族7人は定住するまでの10か月の間に7回もリュックを背負い彷徨う。]

 


12歳の少年が体験した祖国引き揚げ…(続編)

2016-08-11 20:53:09 | エッセイ

 数日後の収容所の朝。                            カマボコ型の宿舎を出ると荷物検査場に向かった。    ラッパが鳴り、朝の中國旗の掲揚が始まると一斉に立止まり、敬意を表せさせられた。一年程前の北京での生活とは打って変わり、敗者の憂き目を子ども心にも感じた。 

 一度、ただで乗せてくれた人力車夫の背の高い李のおじさん。 そして、一緒に遊んだボーイの斉仙山、父を救って呉れた国府軍通訳官将校黄少佐など人の心がなせるのでなく、国家権力がなせるのだと知った。

 大きな倉庫の中に造られた荷物検査場では台の上に大きな布が広げられ、その上にリュックと鞄の中身を空けさせられた。 検査は中国警察官で武装解除した日本の除隊兵が立ち会っていた。 中国警察官は欲しい物があると恥かしくもなく抜き取り余りにも酷い時には日本の除隊兵が「わんら(おわり)」と叫び間に入ってくれた。

 この検査を終えて、身体検査に中国の女性警察官の前に立つと、大人たちの上着の胸に挿してある筆記具すら抜き取られたのにはもう、驚きすら感じなくなっていた。 当時の中國の物資不足の貧困さが、そうさせたのだと思いたい。 

 検査場をでると、夜露に濡れた布団の山が高く積まれているにをみた。     なぜ、布団なのかは計り知れぬが、ここまで来て精魂尽き果てて置いて行かざるを得なかった心情に心が悼んだ。 

 数日間過ごした引き揚げ収容所を惜しむかのように家族で振り向いた。     遠くに親子七人で寄り添って寝た宿舎が見えた。 力なく歩く列は続いている。  大人たちは両手に背に、更に首にも荷物をぶら下げ、これ以上は持てない姿をし、四~五歳の子どもにすら背に,或いは首に白い布に包まった骨壺をぶら下げ両手で抱えている姿が多く見られた。                          遺骨を異国に残す訳にはいかない事を朧げに、この時知った。 

 薄曇りの中を黒い貨物列車は延々と無蓋貨車を連ね、荒涼とした中国大陸をただひた走りに走っている。 鉄路に響く音しか聴こえず不気味なほど静かだ。 無蓋貨物列車の隅には小さく囲った便器があり、上を見上げると何の覆いもない。       石炭か貨物の輸送並みに中国からの引き揚げ者は扱われていた。 疲れ切った大人たちに混じって何かに怯えた表情をした子供たちが膝を抱えるようにして親に寄り添っている。 所狭しと詰め込まれた無蓋貨車では子供の泣き声も咳払すらなく不安を漂わせている。 

 夕暮れに近づき、冷え切っている身体に追い打ちを掛けるかのように、無情にも小雨が降り始めてきた。 雨を遮るものはなにもなく、ただ濡れるに任せるしかない。  陽も沈み真っ暗闇になり誰もが行き先は分かっているが、不安は隠せない。 どれくらい走ったのか、遠くに見え始めた街の灯りが近づいてきた。

 小雨もほとんど止んだ。 鉄路に車輪がきしむ音。 それに合わせて連結器のぶつかる音などが不気味に辺りを漂わせた。 誰もが、顔を見合わせ次の音を待った。 外から鍵を外す音がして、ゆっくりと無蓋貨車の囲が降ろされ暗闇の外が見えた。 不思議なもので雨に濡れた土の黒さが更に異様に見えた。 安堵と不安の入り混じった顔と顔が・・・。 

 厚い板が数人の男の手で下から無蓋貨物の床に立てかけられた。 誰もがもそもそと立ち上がり荷物を手にそろりそろりと板を踏みしめ黒い土の上に降りた。 

(更に、続く)

終わり