気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

「人生を美しく生きていきたい!」と、言った先輩がいた

2017-05-30 11:51:18 | エッセイ

 我が家の雑然とした小さな庭先に、いつもの通り忘れずに今年も白い小さな花びらの野薔薇が10日ほど前に咲き誇っていた折のことです。 鳥が種を運んできて花が咲くようになったのはもう何年も昔のことだろうか。 記憶にないほど古い昔だ。 

 近づいてよく観ると、寂しそうな小さな花が静かに咲く姿が美しいと思ったものです。 忘れたものを再確認するがごとく、眺めていてふと、或る人を想い出した。 

 我が家の近くに幸いにも入社同期が3人も住んでいる。ひとりがすこぶる元気である。3人会と称し3か月に1回、我が家の近くの喫茶店で3時間も珈琲とケーキとアイスクリームを時差を置いて口にしながら語り会うのだ。この店は長居奨励の店である。テーブルも椅子も広々として疲れないからありがたい。現役時代の古巣の話や先輩や同僚の消息など聞きたい情報は尽きない。その情報収集はやはり元気な者が会合に出席して集めるものである。そんな時に、いつも話題になる先輩がいる。         

「人生を美しく生きていきたい」とよく言っておられた。

 ご一緒に良く集い語り、そして気ままな旅も重ねた。その旅先の潮来では”あやめ”を・・、清里では”ラベンダー”を・・・ご自宅に植えられ愛でていた。

「残された人生は多いとは言えないが少ないとも言えない。その残された人生をより美しく花を咲かせて散るまで美しく歩んで行きたい」と、思うこの頃です。

 いまだに、誰からも慕われ偲ばれる先輩が羨ましい。

終わり


Military Timeと言う言葉を初めて知った

2017-05-24 12:03:33 | エッセイ

 この春、3年振りにサンフランシスコから来日した孫娘と妻と孫のママの娘の女3人の会話から聴こえてきた疑いたくなる話です。単に女3人の話である。

 妻が背が大きく伸びた孫娘にバスケットのクラブ活動についてFacebookで知っていたものの、やはり生で聞きたいのか、いろいろと聞いていた。孫は何かiphonで仲間の写真を見せながら友人を紹介していた。「背が高いのね」と妻が、「180cm近くはあるはね」と娘が「私はスタンダードよ」と165cmの孫が背の高さの話になり・・話が弾んでいた。本当は高さの単位はcmでなくinchで孫は自分の身長以外は分かっていない筈だ。 そう思いながら、私は少し離れた椅子に座り耳だけを傾けていた。

 「練習が終わって夜遅く迎えに行くママも大変だね」「何時ごろなるの・・」と妻が問う「19時頃かな・・」と娘が答える、「遅いときは何時頃に・・20時を過ぎる時もあるの・・」と妻が振り向くように孫に直接に聞いた。何やら苦虫を噛み潰した顔をする孫娘。暫し時間を置いて「遅くとも午後8時半位までね」と返事が少し間が空いて遅れて反ってきた。

 その場の雰囲気を悟った娘が一言「・・・アメリカでは普通よ。ミリタリタイムは一般的でないの・・よ」と助け船。 「家の子たちはいいほうよ。何ってたって日本人の血が入っているもん~。 計算は早い方よ。遅くたって当たり前よ」と得意顔。妻は一時何のことか説明されるまで分からなかった程だ。 つまり、一日を24時間で表すミリタリタイムは必要性のある軍関係でしか使われていないようらしい。何で・・・? 日常は一日を午前と午後に分けて12時間で表すのが一般的なのである。聴いていて何も不思議でなく全てが日常的だと思うが・・・。 

 耳をそばたて更に聴いていると、午後の時間の表示の仕方である。 PMとか、たまには24時間制で19時と問い掛けると、頭の中で計算をするらしい・・・。  19-12=7だからPM7となる。日常使わないのだから時間がかかるのが当たり前。 耳の悪い爺の盗み聴きだから少し間違えているやも知れない。が、探せば探すほど面白い国だ。でも、AMとPMで一文字違いでもされると大変だ。更に時差が加われば心配だ。ミリタリタイムを用途に合わせ、使い分けをするほうが不安がないと思うがお国が違うと心配ごとも違う。 面白い国を通り越して不便な国だと言える。

 孫ふたりが小学生の頃、日本独自の暗算方式の九九を暗記させたことがある。孫ふたりは早速に学校で使い当時は得意になっていたそうだが、いまはどうなってしまったのか知らない。

聞いていないが、もう、忘れていることだろう・・・。惜しい。

終わり

                


お爺ちゃんがアメリカで,またまた面白見聞記 「加筆版」 

2017-05-19 23:44:03 | エッセイ

   いまでこそDr.Stopが掛かり残念ながらおとなしくしている。 が、あの頃のお爺ちゃんは孫が生まれてから、誕生日には日本から必ずお祝いに駆けつけていた。

 孫たちといつも永くステイしていたので、街の隅々まで眼が届き、いろんな事に驚かされていた。国が違い、国土の広さも違い、人種も違い、生活様式も違いなど日本とは大きく異なるから当然なことだ。孫との遊びの中で垣間見た面白い文化である。やや無責任なところが、あるやも知れぬ観たままのもの、そのものである。

米国は車社会発祥地である。 良く眼を皿にして観察すると面白いことばかりだ!

 いつも、サンフランシスコ国際空港に着くと到着ロビーにあるRulliでコーヒーを飲んで娘の迎えを待っている。娘の家に往く前に市内で昼食をすませる。何時も好奇心旺盛だから金魚の糞よろしく娘に何処にでも付いていった。だから、余計なものが目についたのだ。

 アメリカで最初に遭遇したのはCoutと言う広い公園の中に点在する2棟式低層アパートのある環境だった。初孫誕生の地でもある。

・cout内の至る処に白線の歩道の手前に緩衝帯がある。              これでは速く走ろうとしても無理だね。子ども連れ家庭にとっては理想の住環境だ。専用のプールもあったのには驚いた。 外部の人がいればすぐに分かる。 治安にも安全だ。広大なcout内には赤で表示した終日駐禁が多く、しかも自宅車庫も建屋の裏手に限定さるなど美観と安全対策には感心させられた。  

 ・駐車は走行に従い頭から斜め駐車である。                                                これでは運転未熟な爺さんでも楽だよ! しかも、出る時はそのまま下がれば良い。しかも、一方通行だしスムーズだよ。斜め駐車だと便利だが土地面積として1台分が余分に必要だ。でも、日本と違い土地面積には余裕があるからできること。 

・銀行に急用時の短時間(20分)駐車スペース」がある。            現金の引き出しのドライブスルーとは別に他の要件にも対応できる体制にはありがたく思った。しかも、入口の近くにあるので助かる。

(余談だが駐車ビルの天井はギリギリまで低く造ってある。日本の方が贅沢だ。見習うべきだね。)

・店の前の駐車禁止の公道が夜間時には、何故か$7/台の店の専用駐車場になる。      娘家族で私の歓迎夕食会をすることなった。駐車が近くに取れるかが悩み。しかし、高級店だとホテルなみにベルボーイが歩道にいて店前の駐車禁止の場所が駐車場になる。公道だよ。 時間無制限で一台$7だ。仕組みはいろいろ・・。この仕組みの名前もあるが忘れた。

 ・道路名は袋小路に良く使うcoutに始まりavenue,road,line,wayなど多数ある。 ナビが完全に高度に普及されてなかった頃はこの細かい道路名の力は実に偉大であった。 私道かと思う細い路にも道路名が整備されているには驚く始末だ。孫がまだ幼い頃、日本語学校を探しに娘と地図にある道路名を頼りに私がナビをして行けたことで実証した。

 

 今、娘の住む地は昔の雰囲気が色濃く残る旧郊外にある。街の中心地までたったの2km程しかない。この間、信号機のない小さい交差点がある。交差点に進入する路は全て一時停止である。三つ角も、四つ角もしかり・・。どうするかと思うと・・・まず、        

交差点にさしかかた順番で発進するルールを守る。               これには感心した。確実に車がいなく安全でも停止しルールを守る。夜間でもしかり・・・。驚きより実に上手く出来ているルールだと感心した。ただし、どの車の後に交差点に差し掛かり停止したかの順番をを覚えて置かないと事故に繋がる。ルールの説明板はない。どうも慣習のようだ・・・。 

 

久振りにcity(サンフランシスコのこと)に往くことになった。何時もと違い今日は孫を加え三人乗り。このBayBridgeに繫がるrout80のHighway には素晴らしい面白いルールがあった。                            ・ルールは「car pool 」と言って二人乗りか三人の乗りかで待遇が大きく違う。cityへの車の流入量規制と渋滞緩和が目的なのか乗車人数で料金徴収が異なる。  しかもHighway走行も中央レーンの優先走行レーンが使えて渋滞でもスイスイと走れる。自分専用のレーンのようで正に天国と地獄との差がある。                         従って、三人目の赤ん坊が人形だったり、Highway路上にヒッチハイカーが出現したり、契約した常連だったりとメリットが大きいだけに知恵を絞っている。人形への摘発は警察も動いている。                           当然、料金徴収趣旨からしてBay Bridge の下りの料金所は上りはあるが下りはない。更に、三人乗車でcityの中心街を通らないならば料金所のない別高架道ルートで跨ぎ短縮できる。渋滞しない別ルートだ。実に無駄のない渋滞緩和にできている。この説明を中央分離帯に看板2枚に分けて表示されている。読むのが大変だ。レーンが余りにも多くて間違いそう。

 

・ここで観た消防車は赤色でないのだ。                    カリフォルニアには陽光輝く観光地がある。 サンフランシスコのBayAreaもそうだ。 ある処では黄色と白の消防車でカッコイイ。その後も黒色あり、グレーありと街並に溶け込んだ素敵な消防車だ。ビックリしたので間違いはないと思う。

テイブロンウオーターフロントで観た消防署は観光地の街並みに自然と溶け込んだ建造物になっている。                             街並を壊さないように配慮しているのだ。

 好奇心は益々膨らんでくる。これからもと面白い話でも・・。と、思ったが、もう時は遅し、これは孫が小さい頃の話です。今は人の話に耳を傾ける大人しい好好爺になりました。

 探せばきっと面白い文化の違いを垣間見れることだと思うと旅ができないのが残念です。齢には停年がない筈なのに体力には停年があるようですね。 

終わり

 

 

 


”母の日”に母のモーニングを作る子供ら

2017-05-17 16:29:44 | エッセイ

 サンフランシスコの郊外に娘家族が住んでいる。                この家族の母の日の出来事を忘れていた。                    

 今年も例年に習い、孫の兄妹は母の日の当日の朝、ふたりして母である娘を朝寝坊をさせて、母にモーニングをダデイ監督の基に早起きしてモーニング・プレゼントする習わしになっている。今年も孫たちは娘を喜ばせていたようだ。 


5月になると墨色の夢を見る

2017-05-13 00:01:09 | エッセイ

 5月に入り雷雨があったものの夏日を思わせる日照りが続く日が続いた。     

  連休の合間に脚の鍛錬にと、いつもの調剤薬局に薬を取りに行った。元来、歩くのが好きだったのでひとりで頼らずに歩き始めた。 新緑の彩の美しさに平和をしみじみと感じた。遅速だが一歩一歩と歩いた。 「ただいま」と玄関の扉を開けた。 妻が「お電話よ。久しぶりだからSkypsにしたら・・・」孫息子からの電話である。 余りの久し振りにSkypsの操作が分からず、おお慌てと言う不様さ・・。「駄目だ。ところで、用事ってなんなの・・」すると、18歳になったばかりの孫息子は「お爺ちゃん お誕生日おめでとう。それから、大学の入学祝いもありがとう」嬉しいひと言だった。そうか、9月から大学生なのだ。早いな~。平和って良いなとしみじみと身に染みた。 

 この頃、あることを思い起こすことが多くなった。 齢のせいか・・・。その時期は5月である。いまから71年前の当月である。 日にちまでは忘却した。だが、情景は鮮明に焼き付いている。中国大陸からの引き揚げ記憶である。

 荒涼たる中国大陸を貨物列車は無蓋車を連ね黒煙を吐きながら進んでいる。鉄路に響く音しか聴こえず不気味な程静かだ。 夕暮れに近づき冷え切った身体に追い打ちをかけるかのように、無情にも小雨が降り始めてきた。 雨を遮るものは何もなくただ濡れるに任せるしかない。 陽も沈み真っ暗闇になり誰もが行き先は分かってはいるが不安は隠せない。小雨もほとんど止んだ。 鉄路に車輪がきしむ音、それに合わせて連結器のぶつかる音などが不気味に辺りを漂わせた。 数人の男の手で無蓋車の床に厚いい板がかけられた。 誰もがもそもそと立ち上がり背負ってきた荷物を手にそろりそろりと厚い板を踏みしめ黒い土の上に降りた。辺りの灯りは傾きかけた電柱に点る裸電球だけが・・・。先方に霞の中に黒い船体が見えた。 一列に動く無言の列が続いた。 子供の声すらも、咳払いも聴こえない不気味な静寂があった。まだ誰も信じてはいない。

 船体に繋がる艀を渡ろうとした時、船員姿の男が背に重いリュックを背負った疲れ切った引き揚げ者のひとりひとりの肩に手をさしのべ「ご苦労様でした。もう、ここは日本ですよ」と声を掛け続けていた。信じられなかったことが、この一言で信じられた。「帰れたんだ・・ほんとうに・・信じていいのだ・・」と誰しもが思ったに違いない。 歌が船橋から聴こえていた。 後に知った畑やんこと田畑義男さんの「帰り船」の歌でした。

 翌朝、嘘のように晴れ渡った 空の下を引き揚げ船は(写真はイメージ)[米軍の上陸用舟艇母艦LST  子どもの眼で見た記憶はもっと大きい船でした]

中国大陸の港を離れ、一路、山口県仙崎港に向かった。

やっと、落ち着きを戻したころ、無蓋車の中で小雨に濡れたことがもとで5歳になる男の子二人が急性肺炎に罹り亡くなり、船尾から日の丸の旗に包まれ水葬ががしめやかにおこなわれた。私は船尾から身を乗り出して見ようとしたが大人たちの背に阻まれ見る事は叶わなかった。私にも6歳になったばかりの妹と3歳の弟がいた。よく耐えたものだ。

遺骨さえ異国に残さないのに、まだ幼いいたいけな遺体を水中に葬るとは・・。戦争とは戦闘員だけでなく非戦闘員にも悲惨さが及ぶことを、この時知った。

我が家も、この5年後、これがもとで病弱な兄は学校にも行けず25歳の若さで結核療養所で亡くなりました。私は兄との連絡に自宅との間を通いつめたものでした。   いまだに時折想い起こす忘れられない追憶です。墨色の夢は見なくなるまで忘れてはならない。

終わり