気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

祝杯! 旅先のホテルで娘の成人式

2015-10-20 22:24:01 | 小さな旅日記

 玄関先の山藤の落ち葉を掻き集めながら、いつしか秋らしくなって来たのを肌で感じるようになってきた。 

 何故かこの頃、移り行く四季の楽しみが減った。 時計の針の刻みが早いのも気になる。 

 何時しか赴任先から戻り15年が過ぎ去ったのを悟った。早いな~。

 ドクターストップもあり、娘の処へのひとり旅は、今後できないのかと思うと一抹の寂しさは拭いきれない。 つい懐かしく古い日記帳を紐どいてみた。 

 もう、記憶の隅に追いやったいた留学中の娘の成人を祝いに、ひとりケンタキー州ルイビルに向かったことが記してあった。 読みながら再現したくなった。

 時期は1月。 冬のコートに身を包み機上の人となった。 娘とはもう2年も顔を見ていない。 国際電話での声が唯一の慰めであった。 当時の為替は$188円とドル高、しかも、公衆電話だけに交換台を経由する分、余計に高かった。 身体も余り丈夫でなく健康が心配だった。 我慢強い娘からSOS・・妻が現地へ。 そこに見舞を兼ねて、成人の祝いをしに行く口実ができた。

 ロサンゼルス国際空港に降り立った。 入国審査を受け国内線に乗り換えるロビーは長蛇の列。 国内線の出発時刻が迫り不安になり、日系人らしい女性空港係員に日本語が話せるか声を掛けた。 話せないと返事がきた。 中継しながら乗り継ぐ旅は初めてで判断に迷いながら永い列に並んだ。 麻薬犬が凄い勢いで鼻を鳴らして嗅ぎまわるのを初めてみた。 真逆かとは思うが、立止まらない様にと念じた。 

 やっと、入国ができバゲージ・クレイムからピックアップしたスーツケースを手にして立っていると、先程の女性が飛んできて、このスーツケースを、眼の前で動いているベルトコンベアーに「載せなさい」と言う。 傍には誰も係員はいない。 考える時間などない。 覚悟を決めてスーツケースをベルトに載せた。 すると、「No.35 ゲートに走りなさい」と・・彼女は気にして眼で追っていてくれた事に感謝した。 冬の重いコートを着たまま走った。 まだ52歳。 今と違い若く体力があった。

 幸いにも国内線の出発便は待っていた。 機内に入りシートに落ち着きまず、時計の針をロスの時刻に合わせた。 時差が4つもあるとは、この時は知る由もなかった。 

 数時間が過ぎ、機はミニアポリス二向かっていた。 何時しか辺りは暗くなり、機は高度を下げて来ると、眼を見張る景色が出現した。 ピーターパンの世界であった。 何処までも延々と広がる真っ白な雪原であった。 雪原を際立たせたのは地平線まで延びた黒い直線の道路であたかも抽象画を描いたようだった。

 この時の折角の雪原もカメラが壊れてしまい記録がない。 次の乗り継ぎ空港でウインドショピングをして何気なく空港の通路の丸い時計を見た。 そして腕時計を見た。違う。何で、どちらかがカメラと同じく壊れたのか・・。もう一度、空港の時計を見た。5分前だ。 通路を歩いている人は見かけない。可笑しい。慌ててゲートへ走り間に合った。 機内の通路を歩いている後ろで厚いドアが閉まる音が聴こえた。 時計は時差で違っていて当然だったのだ。 

 娘と落ち合うワシントンDC空港に着いた。 痩身の娘は肉とコーラで太ったと言い写真を送って来ていた。 見間違えたらと・・まさか~。 迎えは深夜なので宿泊ホテルのホリデイ・インのロビーにしていた。 国内線の夜行便のせいか大空港ロビーは人影も少なくひっそりとしていた。 バゲージ・クレームの前から一人去り、二人去りと到着客は各々荷物を抱え去って行った。 黒人の係員がベルトコンベアーを停めた。 まだ、私のスーツケースが出てこないのに止められたら困るのでクレームをつけた。 すると、「もう、これで終わりだ。カウンターに聞いて呉れ・・」と言う。 今にも消灯しそうな航空会社のカウンターに走った。「スーツケースがない」と言うと、「向こうの荷物管理事務所に・・」と言い指を指す。 空港ロビーには流石に到着客は一人もいない。 灯りを消されたら一大事だ。 また広いロビーを走った。 

 「国内線に乗り継くのに、何分かっかったか」呑気な質問を受けた。 「20分位かな」と答えると、黙って洗面道具を呉れて更に「何処のホテルに宿泊するのか」と聞いて来た。 「明日、ホテルに届ける」と言われホットした。 初めて積み残しになったかどうかを確認するために、時間を聞かれたのだと知った。 

 かなりの時間を空港で浪費したのでホテルのシャトルバスは無理だ。 タクシーしかない。 乗り場は何処だ。 深夜のため辺りは暗くひと苦労してやっと見つけた。タクシーの黒人の運転手は指揮者の小沢征爾が好きで喋りまくっていた。 でも、何を喋っているのか分からなかった。 お蔭でチップが高くなった。 

 タクシーはホテルに無事に着いた。 ホテルでチェックインの手続きをしながら受付嬢に聞いた。「娘は到着していますか・・」と聞くと素敵な笑みを浮かべて手を差しだし・・・。 振り向くと後ろに、そう~と元気な笑顔をした娘が立っていた。

 部屋に入りビールを用意した。

   「20歳の成人、おめでとう!!」ワシントンDC...

寂しいが、暖かい成人式になった。

 片親だけのひとり参加の寂しい成人の祝いだが、両親の愛は充分に受け取って貰えたと信じている。 

 カメラは壊れるし、空港は走ってばかり、スーツケースは積み残しと米国本土への初渡航は苦難の連続でした。

  父と娘とのふたり旅は最初で最後の想い出の旅となった。

と、日記に記述してあった。 

終わり    


無残なり!油断大敵。

2015-10-18 00:31:37 | 日記

 昔、共に仕事をした仲間のひとりが定年を迎える。 第二の人生もこれまでの経験を活かして働ける職場である。 祝福をしたく、二人して細やかな祝杯を傾けた。 

 齢の差は傘壽を迎えて一年が過ぎた老人と還暦を迎えた新老人である。 老人には変わらない。 老人の会への歓迎会でもあったのだ。 ふたりして遅い昼食をしたのは若者の街、自由が丘駅前の二階で炉端焼きを食味し、往時を語りあった。

 戦後、シュークリームで名を馳せていた懐かしい喫茶ルームでみやげのケーキを買い求め、さらに、食いじ汚く店内でもケーキセットを珈琲で食味した。

 帰り際に「階段に足元を気をつけるように・・」と労わりの言葉を後ろに駅構内の階段を上り、そして下り右手に紙袋を、左手は手すりを握りホームにあと一歩と近づいた。

 つ~と靴底が擦れ引っかかる感触を感じた。 その瞬間、前に倒れた。 幸いにもあと一段と手すりを掴んでいたので大事にいたらなかった。 階段の壁に囲まれてたので還暦の老人には情けない姿は見つからなかった。よかった~。

 テレビ番組「不思議発見」を観ながら夜食にと持ち帰ったケーキの箱を開けた。 

 無残にも形をなさないケーキになってしまっていた。

「何を買ってきたのですか」と素朴な質問をされた。 「え~と、何だけ~かな~・・」 無残にも、見る限りでは名前は出てこない。

終わり

 


心が和む! 将校さんは自転車でお帰り・・・

2015-10-04 01:15:39 | エッセイ

 昭和18年頃ではないかと思う。 第二次世界大戦が真っ盛りの時期だった頃に心を和ませて呉れたひとこまでした。

 或る晩、無線隊の将校が、お付きの下士官を伴い訪ねて来られた。 奥の客間で父と3人で時折笑声をたてながら、楽し気な夕餉をしていた。 

 母の話だと、将校の方が大学時代の学友で奇遇にもお会いし、旧交を温めることになったようだ。 どれ位の時間が過ぎたのか、父の声で帰られるのだと知り、見送りに一緒に門の外まで出て行った。

 酒に酔った声で子供の私に声を掛けられたことを憶えている。 

 当時の北京は中国の首都とは言え、市内の交通の移動手段は主に人力車しかない。 とは言え、「ご馳走になった。 失礼する・・・」と将校が声を張り上げ、自転車の後部荷物台に座った。 日本の情報将校の上官の乗り物が車でなく自転車には心底驚いた。 そして、下士官の運転する酔っぱらいの自転車は二人乗りで蛇行運転をしながら暗闇に消えて行った。 

 この時の光景は軍律厳しい軍隊の上官と下士官の姿でなく、仲のいい上司と部下の酔っぱらいにしか見えなかった。 

 恐らく、夕餉の席では酒の飲めない父も懐かしい学生時代に立ち戻り、少しは酒を嗜み語りあったことだと思う。 心は戦争のない時代に戻っていたのだろう。

 あの戦時下の時代に、ほのぼのと暖かい人との触れあいを垣間見たひと駒でした。

終わり


懐かしい想い出の扉は開いたまま・・

2015-10-01 12:40:50 | エッセイ

 会社人生最後の職場で、かつて共に仕事をしたN君が定年を迎えるのを思いだし、勤務先の職場に電話を掛けた。 彼は目黒の「学芸大学前」の職場で最後の勤務を迎えている。 懐かしい話でもしながら、これまでの労苦に言葉のひとつでも掛けて上げたかった。 

 ふと、思った。 ブログにも投稿した「戦禍に育まれた中学時代」の舞台になった処は隣の駅「祐天寺」だ。 昨年の10月に「65年振りの最後の同期会」の案内を受け、懐かしさが募り、いっ気に中学時代を記述し投稿したのた。

 そんなこともあり、まだ想い出の扉は開いたままで想い出は尽きない。

 これを本に纏めた自分史を読んだ友より「こんな名前の映画館もあった・・・」と指摘も受け身体の調子が許せば、彼に会う前にひと駅乗り越して歩いてみたいと思った。 

 駅を降りたら表通りでなく、祐天寺の旧参道から歩いてみようかな~。 心配なのは歩けるかだ。 そう言えば、この駅も当時は踏切があった。 ロータリは昔の儘だ。 旧参道に入ると米店と氷店があった。 米店はチケットでの配給制度だったな~。 氷店は冷蔵庫用に配達して貰った。 

 映画館と言えば、中目黒の「名画座」に授業として鳥の生態を描いた科学映画を観に行ったことがあった。「・・欲張りの、欲張りの 千鳥さん そんなに卵を どうするの ホ ホ ホ・・・」とBGMが流れていたのを憶えている。 「祐天寺駅」裏にも「第一師範駅」にも、「自由が丘駅」には邦画の「南風映画座」もあり、安い映画館が娯楽の中心で各駅にはあった。 だが名前は忘れた。

 いつもは、悪童たちと隣駅の碑文谷公園にある池に自作の釣り竿で鮒を釣っていた。 なかなか釣り竿では釣れない。 やっと、慣れてきて「やった~・・」と釣れた勝ちどきの声を上げた時、「何がやった~だ。釣ったのは池に戻せ」と管理人のおじさんの叱責の声が後ろから聞こえてきた。姿を見つけては移動しながら釣っていたものだ。

 或る時、父に教わり竹と網で「四つ手」を作り、魚の一網打尽を考えた。 「四つ手」を静かに池に沈めて数十分過ぎた頃合いを定め引き揚げた。 何と鮒でなく小エビが20匹ほどが捕れたには驚いた。 なんで池に小エビがいるの・・。65年も過ぎた昨今では、想像もしない子どもたちがいたのだ。 実に楽しかった想い出だ。

 旧参道を抜けて祐天寺の境内に入り、後年、F10号油彩画に残した本殿の構図をカメラに収めて来ようかと思う。 

 しかし、我が家ももうない。 友人の家もない。 商店も変わった。 公団住宅も油面公園に変わった。 変わらないのは昔からの祐天寺のみだ。

 ないないづくしの地を歩いても仕方がない。 想い出のポケットの中に収めたままにした方が良い。 彼に会うだけで無理して歩くのは止めにしようと心変わりした。

 外はまた雨・・。 台風のせいとか・・。 

終わり