気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

テラスで飲む珈琲が一番高い・・

2016-05-30 21:59:31 | エッセイ

 今日も朝から雨が降っている。

 名も知れぬ草の陰で観えないが昨年黄色い花を咲かせなかったニッコウキスゲが今年は花を咲かせてくれた。この狭い庭に移植して30年になる。肥料を与えようと雨の止むのを待った。雨で花は萎れていた。

 妻を駅に送ってきて、留守居になり、なんやかんやとしながら、机の前に座りPCを立ちあげた。 誘われるように越路吹雪のシャンソンを聴き出した。 単身赴任時代に自宅に戻る時に、よく車の中で聴いたものだ。そう言えばパリの宿泊したホテルで夜の憩いに、リクエストをしながら本場のシャンソンを聴いたことを想いだした。

 この時、大事に至らなかったが、こんなことも起きたことを想いだした。

こちらに出張で来て、たしか三日目の朝、6時頃に眼が覚めた。 起きようと思いベッドから身体を動かした。 ところが、どうしたことか起きれない。 一瞬、慌てた。 電話の所までも無理。 帰国も無理か・・。ギックリ腰のようだ。 そうこうしてるうちに、何とか歩けるようになった。

 ここで判断ミスを犯した。運動をしようと・・。初秋でジョキングにはいい季節だ。 早速、着替えて早朝のセーヌ河の中州に向かった。ホテルの目の前にある。 自由の女神像を左手に観て、ひとり歩きだした。やはり運動はいいぞ! 腰は快調だ。全長700mかな。すれ違った人はたったの2人。ここで動けなくなったら・・後に無謀だと反省した。 それから対岸に渡り地下鉄のPassy駅前のCaffeで一休みをした。隅で女子大生が勉強をしていた。こんな早朝から開店しているCaffeがあるのだ。ここでこんなことを知った。 一杯の珈琲代がカウンターが安く、店内、そして店先の歩道へと値段が高くなるようだと知った。本当かな~・・言葉の通じない男の理解だしな~。そして腰を休め2000mほどの路を歩いてホテルに戻った。 それから三日間中州を歩いた。 毎朝、動かない腰を運動で動かし帰国の当日には嘘のように腰は動いてくれた。 

 PCで「ろくでなし、サントワマミ、愛の讃歌・・・」などを聴きながら現役時代を想い起こしていた。遠い昔の出来事でした。

終わり

  


先生はウエイターに,僕は売り子に・・・

2016-05-29 09:05:02 | 小さな旅日記

 何の話?  或る女性から聴いた話です。 しか も、古い昔のことです。 

 彼女は英文学が好きで、家庭に入ってからも「言葉は動きと共に身につくもの。 物語の中の人を演じることで・・文学と英語を学ぶ・・」をライフワークに子供らに物語を英日のCDで聴かせてきた。                        初秋、自分自身の実務経験を身に着けたく一か月間米国のネブラスカ州の小学校の教師として日本語を教えてきた。その時に触れた文化の違いと驚きの或る話をしてくれた。  

 彼女がひとり訪れた都市は空港から荒涼たる道を一時間も走った州都のリンカーンだった。 この地では日本人が珍しいのか地元ニュースの話題になり、地元ラジオ局、地元新聞社からインタビューを受けたり、ライオンズクラブの会合にも招待されたりと歓迎を受けたそうだ。 

 子供らへの日本の文化と言葉を教えるだけでなく、地元社会にも日米交流の場で日本の伝統の文化の紹介して欲しいと頼まれていた。 幸にも日本舞踊を幼少の頃から20歳まで習い続けて舞台で発表したことのある「娘道成寺の藤娘」のさわりの部分を日本から持参した着物を着て踊って見せた。生け花は師範の資格が助けとなり、お茶もいくばくかの嗜みが大いに役に立ったそうだ。 こうした些細なことで地元社会に早く溶け込むことができたようだ。

 担当した生徒は高学年クラス。 高学年になると避けては通れない原爆投下の是非。 第二次世界大戦を早期に終わらせたのは「広島と長崎に原爆を投下した」事についても、英語版に翻訳された「想い出のサダコ Memories of Sadako]を教材に取り上げ、真摯に,この問題を小学生に取り組み考えさせていたのに敬服した。  

 授業が進むにつれて、生徒は特に書道に強い関心を抱き、自分の名前を漢字に置き換え、そこに漢字の持つ意味を教えると、感動をして呉れた笑顔が忘れられなかったそうだ。 

 学校での一日の始まりは教員室での教師たちの歓迎から始まり嬉しかったそうです。 毎朝、交代で手作りのクッキーを焼き、モーニングコーヒーで暖かく迎えてくれ、会話もいろんな担当科目の先生とでき、親しみがより増して授業への励みになったそうです。  

 宿泊先は校長宅が主で、数人の先生宅にも宿泊させていただき、いろんな先生がたの考え方にも触れられ有意義だったそうです。こうして、滞在を重ねるにつれ、異文化の中で知った教育現場に加え合理的なのか、不公平なのか考えさせられる事に気が付くようになった来たそうです。

 それは昼食時間になり、給食の食堂で数人の生徒がパンの売り子になっているのに気づき不信に思い訊ねたところ、貧しい子らに認めている特認バイトだったそうです。 認めるか否かはともかく生徒間に売り子と購入する子との立場の格差が教育上気になったが、綺麗ごとで単純にすませない現実的な処理には驚きを隠せなかった。                                 一方、先生方の給与も授業のない休暇の永い夏休みには支給されないようで、この狭い街のレストランで教師がウエイトレスとして働いているのには、これまた驚かされたそうです。 州が異なるが、或る大都市の郊外の小学校でも、予算がらみで外された科目の教師をPTAが負担して維持した話を聞いた。 あながち信じられない話ではない。 だだ、驚くばかり。

 ひと昔まえでは、教師は聖職と呼ばれ敬われていたのにと思うこの頃です。

終わり


遠き昭和の灯りが恋し

2016-05-28 12:22:28 | エッセイ

 昨日のことです。 

 朝から小雨が降っている。 カーテンをそ~と手で開けて空を見上げた。    明るい。 晴れそうだ。 今日は昔の仲間との会合がしかも懐かしい場所である。 これまで体調が優れず欠席をしている。 隣駅に住む後輩の仲間が迎いに行くと言う。 勇気づけられホームで待ち合わせをした。 お陰で無事に到着。一番に・・。

 昨晩、偶然にも見つけた当時の写真を持って行くと話が盛り上がった。     その中に数年前に残念にも急逝した朋友であり先輩である友人と三人で箱根の強羅公園で珈琲を嗜ながら雑談をしている写真があった。 その写真を見て同行した後輩が「車の中で、ふたりして軍歌を歌い続けていた」言には・・驚いた。 先輩の青春時代には軍歌が・・・であった。 何故か私は歌詞を覚えている。 海軍主計学校出身の大先輩がいた。 或る旅行をした時、傍らにあったオルガンに座り弾きだした。 野口雨情作詞「船頭小唄」であった。 

 「歌は世に連れ、世は歌に連れ」と言う。 軍歌であれ、歌謡曲であれ、その歌に想い出がついている。 私は「異国の丘」は中国からの引き揚げを想いだす。 「赤いリンゴ」は放浪の末一時住んだ仙台の広瀬川河畔を、「月の砂漠」は短い期間在籍した小学校を、「暁に祈る」は故兄をと結びつく。 軍歌は恐らく戦時下に6年も住んだ中国の北京に想いは馳せると思う。

 先輩は軍歌が恋しいのでなく、歌の文句にあるように「遠き昭和の灯りが恋しい」かったのだと思う。 私も灯りが恋しい。

 PCのお陰でシャンソンに始まり、忘れかけていた歌などを深夜遅くまで聴ける時代になり、幸せだと思うこの頃です。 でも、眼が大分弱くなった。

終わり   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同行した後輩のY君が「いや~参りましたよ」と当時を懐古しながら、更に「ふたりして、車の中で軍歌を歌い続けていましたからね~」と言う。 ・・・驚いた。 朋友の青春時代は戦時中で懐古する歌は「歌は世に連れ、世は歌に連れ」の如く軍歌であったのだ。 私には理解できる。 

 そして、更に想いを馳せた。 そう言えば、私の呼応に答え、或る会合を立ち上げた中心の大先輩がやはりそうだった。 海軍主計学校出身だから致し方なし。 何回目かの旅でオルガンの前に突然に座り「船頭小唄」を弾きだしたことがあった。 軍歌も歌謡曲も小林旭の歌の歌詞ではないが「遠き昭和の灯りが恋しい」がっていたのでしょう。 私も戦後70年になっても何故か軍歌の歌詞を忘れていない。 これに代わる歌が当時にはなかった筈だ。 何であれ自分の心を癒し、豊かになれるなら・・。

 最後の校正に入った。 短編小説の脱稿だ。 作家にでもなった気分だ。 ここで悟った。 自分の能力のなさを・・。 目的の海馬の維持と活性化にはなっ信じてたと北している。

終わり


誤った記憶回路は消せるか・・

2016-05-20 00:05:24 | エッセイ

 この頃、直ぐに物忘れをする。                        ブログを或る機会があり、始めてからもう17か月にもなる。           そのお陰か、何かに触発されてつまらないことを思い出すから不思議でならない。 

今晩もそうだ。

 久しぶりに、山の歌を聴こうと或る歌を検索した。              そこに気になる文字に眼の焦点が止まった。「アメリカ橋」の5文字が気になった。 歌ではなく、題名の方に頭のなかで記憶回路が動いた。  こう説明されていた。 この題名の「アメリカ橋」の由来は明治39年(1909)にアメリカ博覧会に出品されていた橋を鉄道省が購入し、恵比寿駅と目黒駅の間に跨線橋として架けた。そこから生まれたとある。間違いなく同じ橋だ。

 私はこの地に20年も住み、つい先ほどまでは、恵比寿に米軍キャンプがあり専用の橋のように目のまえにある。そこから「アメリカ橋」と言われた所以と信じていた。しかも、数人の同調もいた。 中には直ぐ近くに住む知人も今もいる。全てが根拠のない噂でした。 本名は「恵比寿南橋」これも、いま知った。

 誤った知識の記憶は速やかに訂正すべきだ。 しかし、昔のことはしっかりと頭の隅に残るが、近々のことは・・・無理かなと思う。 と、言いながら、傍にある備忘録ノートに書き込んだ。

 肝心の「山の歌」を聴くのを忘れていた。

終わり


事故を予想?  占い師になった僕

2016-05-17 20:54:39 | 日記

 この頃、時間を持て余しているせいか、頭の中に張り巡らせている記憶回路がショートすることがあるようだ。そのせいか、とんでもないことを想い出すものだ。

 戦後まもない昭和22年の正月休みの時期ではなかったかと思う頃の話です。

 当時、東武東上線の中板橋駅近くの叔父の家に家族7人で間借をしていた。祖父の危篤で母の実家のある仙台から9月に引っ越して来たばかりである。そして、もう3月には伯母の貸家のある目黒へ引っ越すこになっていた。中国から引揚げて来た我が家は数か月ごとに住まいを変えて慌ただしかったのである。そんな状況の中で起きた出来事をこの歳になって思い出すことが不思議でならない。

 食べるものも、住む所もままにならない戦禍が大きく生活に圧し掛かっていた頃でした。こどもの遊びはメンコとべーごまが唯一の遊びだったと思う。

 そこに、駅前近くにテントを張りサーカスがやってきた。

   中国で手品と技芸を観たことがある。日本ではサーカスを観たことはない。 だが、ここの会場に足をいれた時に耳に聴こえてきた歌謡曲「サーカスの歌」は何故か何処かで聴いた覚えがあるから不思議だ。入場料はいくらだったか、弟妹を連れていったのかも何も記憶がない。しかし、たったひとつだけ記憶が辛うじて残った或る事故があった。

 それは、トロッコに乗ったサーカス員がスキージャンプのように高い所からレールで下降し放物線を描き、飛び上がった頂点でトロッコは落下し、サーカス員は高い踊り場に乗り移る最後を飾る花の目玉演技で落下事故が起きた。

 我々兄弟4人は最後の回の始まる頃に小屋に入った。丁度、前の回の最後を飾る人間ジャンプが成功し観客の拍手を求め、場内は興奮に満ちていた。、放物線を描いて着地に成功したサーカス員が観客から拍手貰っていたところだった。

 プログラムが進み、トロッコの順番にきた時、前の回で落下したままになっていたトロッコをフックに引っ掛け天井近くまで高く牽引していった。観るともなく動きを見ていた。フックは外すと思っていたが外さない。落下防止に外さないでサーカス員が外すものと勝手に思っていた。ラッパが高らかになりトロッコは滑り始めた。外さない。このままだとロープが突っ張り人もトロッコも頂点で落下してしまう。           

 大勢の観客が見守る中で、予想通りロープが繋がっていて突っ張った・・・一体となって落下した。 駆け寄る係員。その中で両手を高く上げてガッツポーズするサーカス員の姿が見えた。

 大事に至らず良かったと思った半面、声をだして教えなかった罪悪感のようなものが残った。事故は占い師のように占ったのでない。ただ単に教えなかった事故だ。 

想い出にもいろんなのがありますね。

終わり