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桜井市・脇本遺跡 7世紀後半の泊瀬斎宮の大型建物跡を発見か?

2012年06月19日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が19日、天武天皇の娘・大来皇女(おおくのひめみこ)が滞在した「泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)」があったとされる桜井市の脇本遺跡で、7世紀後半ごろの建物跡が見つかったと発表した。
 橿考研は今回の調査で、新たに東西約9m、南北約3mの範囲に「L」字型の柱列跡4個を確認した。 東側エリアでは過去に、「コ」の字型の柱列跡(14本の柱跡)を確認していたが、建物跡か判然としなかった。今回の調査で、柱列跡を含む全体規模が東西約18.8m、南北約8mの大型掘っ立て柱建物跡と判明した。過去に発掘された7世紀後半の柱列と建物の東西の柱筋が一致するため、同年代と判断した。
 『日本書紀』 天武天皇二年(673)の条に、「夏四月丙辰朔己巳(14日)。欲遣侍大來皇女于天照大神宮。而令居泊瀬齋宮。是先潔身。稍近神之所也」。と記されている。 このため橿考研では、今回確認された大型建物跡が、周辺の地形などから泊瀬斎宮の南端に建てられた宮の関連施設の可能性もあるとしている。
 ただし、『日本書紀』天武天皇八年(679)の条に、「八月己未(11日)、幸泊瀬以宴迹驚淵上。先是詔王卿曰。乘馬之外更設細馬随召出之。即自泊瀬還宮之日。看群卿儲細馬於迹見騨家道頭皆令馳走。」の記述があり、大型建物は行幸先泊瀬宮で設けた行宮(あんぐう)の関連施設の可能性もあるとしている。
 前回調査と合わせ、3〜6世紀にわたる19棟の竪穴建物跡も発見。竪穴建物による集落が継続していたことも明らかとなった。
 現地は埋め戻されており、説明会は行われない。 出土遺物は7〜9月に橿考研付属博物館で展示する予定。
[参考:共同通信、日経新聞、産経新聞、毎日新聞]

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