祐天寺の仁王門(左) 阿弥陀堂(右) ともに竹姫の寄進による。(2011.4.7撮影)
来年NHK大河ドラマ「江姫たちの戦国」のヒロイン 浅井三姉妹(注1)の三女・江の生涯を紹介する特別展「2011年NHK大河ドラマ特別展 江姫たちの戦国」が1月2日~2月20日、「江戸東京博物館」(東京都墨田区)で開催される。
今回、江・崇源院の厨子「崇源院宮殿(すうげんいん・くうでん)」が初公開される。
(注1) 浅井長政(あざいながまさ)の三姉妹 母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)
■茶々(淀殿、1569?-1615) 大虞院 豊臣秀吉の側室 墓所は京都市東山区の養源院(浄土真宗)、大阪市北区の太融寺(真言宗)、ただし、遺体が確認されていない。
■初(1570?-1633) 常高院 京極高次の正室 墓所は若狭(小浜市)の常高寺(臨済宗)
■江(1573-1626) 崇源院 徳川秀忠の正室 墓所は芝・増上寺(浄土宗)。霊屋は鎌倉市の建長寺(臨済宗)に移築。高野山奥の院(真言宗)にも墓所がある。
崇源院宮殿と崇源院の位牌はもともと静岡市の宝台院(浄土宗、徳川秀忠の生母・西郷局の菩提寺)にあり、江戸時代に宮殿は東京都目黒区の祐天寺(浄土宗)に、位牌は芝・増上寺に移された。(注2) 位牌は戦時中の空襲で焼失したとされる。宮殿は徳川家康のもの(注3)と伝えられていたが、08年に祐天寺が修復の際、屋根組みの柱に「寛永五年(1628) ……建立 宗源院様御玉家(おたまや)」の墨書を確認した。 江の息子・徳川忠長が、寛永5年9月に徳川家の菩提寺である芝・増上寺に宛てて書いた手紙に、「(幕府に無断で)駿府に母親の霊廟を造るよう命じたので、(増上寺での)三回忌の法会に参会できなくなった」(読売新聞参照)とあることから、駿府城(静岡市)にいた忠長が造り、後に祐天寺に移されたものであることが分かった。
宮殿とは、仏像や位牌を安置する厨子の一種。高さ2.38m、幅2.1m、奥行き1.35mで、金箔を使い、極彩色の外観で、内部には極楽をイメージした蓮華や飛天が描かれている。外装には蓮華の文様や逆蓮(ぎゃくれん)の彫刻が施されている。
[参考:読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、共同通信]
(注2) 祐天寺は祐海上人(1682-1760)が祐天上人(1637-1718)の廟所を設けるために下目黒にあった善久院を買い取り、建立したものであり、時期は享保3年(1718)。この時はまだ祐天寺の寺号をつけることが許されず、明顕山善久院祐天寺と呼ぶことが認められたのは享保7年(1722)のこと。
徳川家から、堂宇、仏像、厨子など多くの寄進があったが、特に、5代綱吉の息女(養女)竹姫(浄岸院 1705-1772)は享保4年(1719)に祐天上人宮殿をはじめとして、その後も阿弥陀如来尊像および阿弥陀堂、仁王像および仁王門、法然上人像などの寄進を重ねた。竹姫は1708年と1716年に2度の婚約が整いながら、相手が早世するということがあり、篤い信仰心が生じたのだろうと推測する。 享保14年(1729)に薩摩藩主島津継豊に入輿し、その後島津家と徳川家との縁戚関係を深め、外様であった薩摩藩の発言力を高めるに至った努力は、後の篤姫(天璋院 1836-1883)と比べても多大な貢献を行っている。 安永元年(1772年)12月5日、江戸の薩摩藩邸で死去した。法名は浄岸院信誉清仁祐光大禅定尼。祐天寺に位牌が納められた。墓所は鹿児島市の島津家墓所・福昌寺(曹洞宗)に葬られた。
また、竹姫は島津継豊との間に1女として菊姫(眞含院 1733-1808)をもうけた。 菊姫は福岡藩・黒田重政(1737-1762)と結ばれ1男2女を生むが、長女・屋世(黒田治之室)以外は夭折。福岡藩主・黒田継高は一橋徳川家・初代当主・徳川宗尹の五男・治之(1753-1781)を養子に迎え屋世と結婚するが、屋世も11歳で死去。黒田本家の血統は男系女系とも途絶えたとともに、竹姫の血統も途絶えた。 興味深い人物であるので採り上げてみた。
(注3) 祐天寺HPに、「享保9年(1724)11月13日、宝台院の前住職である欣説が入寂しました。祐天寺に宮殿を寄進した人物です。」とあり、家康のものと伝えられた宮殿すなわち崇源院宮殿のことか。そうなると、崇源院宮殿は1718~1724年の間に祐天寺に納められていたことになる。[参考:祐天寺HP]
さらに、祐天寺を訪れた際に、祐天寺発行の「寺宝で綴る*祐天上人と祐天寺」(平成17年発行)を購入。その中に、この宮殿があった。宮殿のことには一言も触れられていなかったが、徳川家康像が納められており、それについての説明が記されていた。 5代綱吉が増上寺安国殿の家康像を写し、竹姫に贈り、竹姫が祐天寺に納めたとある。 また、別説もあるようだが、いずれにしても、この宮殿が家康のものと伝えられてきたために、家康像を納めたか、あるいは、家康像を納めたために家康の宮殿と伝われてきたかと推定される。
2011.1.31追記
1月28日に「江~姫たちの戦国~」展(江戸東京博物館)を観てきました。金色に輝く宮殿の写真を撮りたかったのですが、残念なことに写真撮影禁止でした。 代わりに図録を購入しました。 上述の文に補足をする内容があり、大変参考になりました。 それは、祐天寺住職・巖谷勝正住職の書かれた「崇源院様の宮殿」です。
まずは、宝台院の住職であった「欣説」の法号名と読みについてです。実は祐天寺HPに(参考文献 『本堂過去霊名簿』、『浄土宗大辞典』として)も記されていましたが、光蓮社瑞誉上人即到欣説(こうれんじゃずいよじょうにんそくとうごんせつ)大和尚でした。「欣」は、今の時代は「きん」と読むことが多いですが、当時は欣求浄土のように「ごん」と読まれていました。 宝台院十七世欽説の項に「八代将軍(吉宗)の命により崇源院殿の御霊屋を廃し位牌を増上寺内の崇源院殿の宮殿へ安置す」と記録されており、これを裏付ける記録が「増上寺目鑑」享保8年(1723)11月の項に、増上寺に崇源院殿の尊牌が到着し、御霊屋内の宮殿に安置したとあるそうです。 したがって、崇源院宮殿も同じ頃に祐天寺に移されたとみているようです。 さらに、驚くべきは、祐天寺の土地は崇源院の領地であったことでした。 「上、中、下目黒および衾村は入国後徳川氏の直轄地となったが、(略) 他の十数ヵ村とともに (略) 崇源院徳子の化粧料として宛てがわれた」とあるそうです。
目黒区のHPにも、
■天正18年(1590) 三田村・上目黒村・中目黒村・下目黒村が徳川氏の直轄地に、碑文谷村の一部が旗本神谷氏の知行地となる
■寛永9年(1632) 2代将軍秀忠夫人崇源院の遺領(上目黒村・下目黒村・衾村・碑文谷村の4ヵ村の一部)が、増上寺に寄進される。
■延享3年(1746) 下目黒村・中目黒村の町並地が町奉行支配地となり、下目黒町、中目黒町と唱える。
と記されていました。
[参考:2011年NHK大河ドラマ特別展「江~姫たちの戦国~」図録、目黒区HP]
お江の位牌納めた「宮殿」、東京・祐天寺で確認(読売新聞) - goo ニュース
関連情報
2011.1.28千駄ヶ谷村・霊山寺領 崇源院(江姫)の寄進によるもの
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