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枚方市・百済寺跡 鋳造遺構(造営工房跡)が出土

2009年03月12日 | Weblog
 大阪府枚方市教委と同市文化財研究調査会は12日、8世紀半ばに建てられた百済寺跡(同市中宮西之町)から鉄器や青銅器などを生産していたとみられる鋳造遺構が出土したと発表した。
 同寺は660年の百済滅亡の際、日本に亡命した王族の末裔、百済王敬福が建立したとされる
 築地で区画された寺域内から発見されたことから、百済寺の造営に携わった修理院(すりいん)と考えられるという。奈良時代以前の寺院は僧侶が過ごし、金堂や講堂、食堂が置かれた「伽藍地」と、寺の運営を支える職人が住み込みで働き、修理院などがある「付属院地」で構成される。
 古代寺院の修理院跡は、全国的にも奈良県明日香村の川原寺など数例しかなく、当時の寺院の構造を知る上で貴重な発見となった。
 百済寺跡の北東部の調査で、鋳型を設置する1辺約2・5mの土坑が見つかった。また、付近から鉄や青銅器のほか、これらを鋳造する際に使用されていたとみられる溶解炉の破片が約300点見つかり、同寺で使われた鉄器や青銅器がここで鋳造されていたことが判明した。
 修理院は、9世紀前半ごろになくなったらしい。
 このほか、北面の築地塀跡から北門を構成していたとみられる6つの柱跡を発見。百済寺跡では、両方の区画を分ける土塁の一部(幅約2m、高さ20cm)も見つかった。
 北門の位置から北方約500mの地点には、奈良時代から平安時代にかけて、北河内北東部(現・枚方市、交野市付近)の中心地だったとされる禁野(きんや)本町遺跡があり、天皇家と姻戚関係を結ぶなど国家から優遇されていた百済王の一族と禁野本町が、密接な関係を持っていたことが証明されたという。
 百済王氏が奈良時代から平安時代にかけて、北河内で勢力を誇っていたことが改めて裏付けられたとする。
 現地説明会は14日午前10時~午後3時に計5回行われる。問合せは枚方市文化財研究調査会。
[参考:産経新聞、共同通信]

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