歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

江戸城・松の廊下での刃傷事件直後の書状発見

2016年12月03日 | 竹姫(浄岸院)
 浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区)の本願寺史料研究所は2日、「忠臣蔵」で知られる吉良上野介義央(1641-1702)が、元禄14年(1701)3月14日、江戸城・松の廊下で、浅野内匠頭長矩(1667-1701)に切りつけられた刃傷(にんじょう)事件の直後に上野介の様子などを記した文書が見つかったと発表した。
 同寺と築地御坊(現・築地本願寺)がやり取りした手紙の写しがとじ込まれた「江戸江遣書状留帳(えどへつかわすしょじょうとどめちょう)」に、元禄14年(1701)1月20日から翌15年12月24日まで、刃傷事件をめぐる寺や吉良側の対応、討ち入りに対する受け止めなどが記録されていた。
 西本願寺と吉良家が特別な関係にあったことを裏付ける、大変貴な発見としている。
 西本願寺は豊臣家と縁が深かったが、徳川幕府との関係構築に苦心するなかで、幕府の儀式典礼などを担う高家の役職だった吉良家と関係を密にしていた。
 元禄14年(1701)3月21日の手紙では、上野介が浅野内匠頭に斬られたことについて、築地御坊が「吉良上野介に対し浅野内匠頭、三月十四日不慮之儀(不慮の事件)があった」と西本願寺の宗主に伝え、宗主から「吉良殿へのお見舞いの使者の儀、ご口上を致す使者をよろしく遣わせ」として、上野介の見舞いを指示されたと記されていた。
 同年4月5日には、事件後の上野介について「お痛みも軽く、食事も相変わることがない由、ご注進を受けた」と記載。同寺は「浅野内匠頭殿の乱心の様子を承りたいが、委細の様子が上申されていない。そちらでの噂うわさの様子をくわしく聞いておくよう」と情報収集を命じていた。
 さらに同月10日付の手紙では、「吉良上野介殿、松之坊とご直談、ご口上の内容を宗主に披露を遂げた」とし、西本願寺側が上野介に事件の事情聴取をしたことが示されている。
元禄15年12月14日の赤穂浪士討ち入り後の24日の書状には、討ち入りに対して「驚いたことである。言語に絶える」と表現していた。
 このほか、吉良本人が西本願寺にあてた書状1通、父・義冬(よしふゆ)が西本願寺にあてた書状3通、西本願寺の江戸在勤の担当者が同寺にあてた書状1通もみつかった。
 吉良が書いた書状には、年の明暦の大火で焼失した江戸御坊(築地本願寺)の再興が順調に進んでいることを喜ぶ内容が記され、吉良家と西本願寺が親密な関係だったことをうかがわせる。
 刃傷事件は19世紀前半に江戸幕府が編さんした「徳川実紀」でも取り上げられているがやはり乱心の理由は記されていない。
[参考:共同通信、時事通信、産経新聞、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞]

 この刃傷事件に、徳川綱吉の養女・竹姫が間接的に関係している。
  元禄14年(1701)清閑寺熙定は、霊元上皇の使者として江戸へ下向した時に、この刃傷事件が起きた。清閑寺熙定は竹姫の実父である。
 享保2年(1717)6月3日 医員・熊谷玄興直暉、津軽意三楽信 竹姫御方につけられ。(徳川実紀)
  津軽意三楽信は内科医で、刃傷事件当時の当直医であった。

「吉良殿御痛も軽ク」… 刃傷事件直後の記録見つかる
「吉良殿、お痛み軽く」西本願寺が上野介聴取 忠臣蔵記録、本願寺史料研究所で見つかる
刃傷事件後「痛み軽い」=吉良上野介と面談―西本願寺で史料発見・京都
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 堺市・寺山南山古墳 造り出... | トップ | 鳥取市・青谷横木遺跡 女子... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

竹姫(浄岸院)」カテゴリの最新記事