goo blog サービス終了のお知らせ 

歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奥尻島・青苗遺跡 1976年出土のヒスイ勾玉は糸魚川産と判明

2008年10月30日 | Weblog
 北海道奥尻町青苗遺跡から1976年に出土したヒスイ(翡翠)製の大きな勾玉が、新潟県糸魚川産のヒスイで作られたものであることが、町教委が実施した科学分析で分かった。
 勾玉は長さは5cmで「頭部」にある三本の切り込みが特徴的な「丁字頭(ちょうじがしら)勾玉」と呼ばれるもので、青苗遺跡で見つかった墓から副葬品として鉄剣やガラス玉などとともに出土した。道内の出土例は奥尻だけであり、長さ5cmの大きさは珍しいという。
 ヒスイ製丁字頭勾玉は古墳時代前期から中期にかけて多く作られるが、古墳時代後期に現れる「切子玉」も一緒に出土しているため、奥尻島に持ち込まれた時期は同時期以降であると考えられる。奥尻は、当時オホーツク文化南限の地であり、その後擦文文化が重なり合いながら入れ替わることになる。古墳時代に作られた勾玉が、青森県八戸市丹後平古墳群(7世紀後半~8世紀前半)など東北北部にもたらせるようになるので、恐らくは青苗遺跡も同様な時期と考えられる。
[参考:10/28北海道新聞]

奥尻島の名が資料に現れるのは「日本書紀」の斉明天皇六年(660)の条
 この年3月に阿倍臣(比羅夫)に粛慎(みしはせ)の国を討伐させた。(略)粛慎は弊賂弁嶋(へろべのしま)に帰った。しばらくして、粛慎が講和を願ったものの、阿倍臣は許さなかった。弊賂弁(へろべ)は、渡島の一部である。粛慎は自分の柵(砦)で戦った。(略)
(原文)◆三月。遣阿倍臣。率船師二百艘、伐粛慎国。阿倍臣以陸奥蝦夷、令乗己船、到大河側。於是渡嶋蝦夷一千余、屯聚海畔。向河而営。々中二人進而急叫曰。粛慎船師多来将殺我等之故。願欲済河而仕官矣。阿倍臣遣船喚至両箇蝦夷。問賊隠所与其船数。両箇蝦夷便指隠所曰。船二十余艘。即遣使喚。而不肯来。阿倍臣乃積綵帛。兵・鉄等於海畔、而令貪嗜。粛慎乃陳船師。繋羽於木。挙而為旗。斉棹近来、停於浅処。従一船裏、出二老翁。廻行、熟視所積綵帛等物。便換著単衫。各提布一端。乗船還去。俄而老翁更来、脱置換衫。并置提布。乗船而退。阿倍臣遣数船使喚。不肯来。復於弊賂弁嶋。食頃乞和。遂不肯聴。〈弊賂弁。度嶋之別也。〉拠己柵戦。于時能登臣馬身竜為敵被殺。猶戦未倦之間。賊破殺己妻子。

 ここで、弊賂弁嶋(へろべのしま)が最近では奥尻島に比定されているようだ。(岩波文庫「日本書紀」では未詳になっている。)
 この時期が7世紀後半であることも、興味深い。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 福山市 二子塚古墳 地積調査... | トップ | 仙台市・若林城跡 政宗の執務... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

Weblog」カテゴリの最新記事