歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

塩津港遺跡 国内最古の構造船の船板を初公開

2018年05月04日 | Weblog
 滋賀県埋蔵文化財センター(大津市瀬田南大萱町1732-2 びわこ文化公園文化ゾーン内)で国内最古になる構造船の船板(長さ205cm、幅58cm、厚さ11cmの杉材)が公開されている。
 塩津港遺跡(長浜市西浅井町)で出土した平安時代後期の船板で、全長20mの船の部材の一部という。
 船板は2015年12月に出土した。樹脂で固める保存処理を進めていた。
 このほか、遺跡から出土した船の模型、釘(くぎ)、鑿(のみ)や釿(ちょうな)などの大工道具も展示されている。
 公開は31日までの午前9時~午後5時。土曜、日曜、祝日は休館(4日は開館)。
[参考:京都新聞、滋賀県文化財保護協会HP]

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塩津港遺跡 船板出土
塩津港遺跡
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長浜市・塩津港遺跡 昨年出土した平安期の船板に止水材・マキハダ(槙肌)最古例

2016年07月16日 | Weblog
 滋賀県県文化財保護協会は、長浜市西浅井町の塩津港遺跡で昨年12月に出土した平安時代後期(12世紀前半)の大型木造構造船の船板に、板のひび割れ部分からの浸水を防ぐため、「マキハダ(槙肌)」が使われていたことが分かったと発表した。
 マキハダはマキやヒノキなど木の皮を加工し縄状にした部材。ひび割れなど、浸水を防ぎたい部分に詰める。水分を吸収すると膨張し、水の流入を防ぐ効果がある。そのため、木造構造船を作る上で必須の技術で、現代の木造船にも使われている。同協会によると国内初の出土例といい、平安時代にまで遡ることが分かった。
 出土したマキハダは、船板(長さ205cm、幅58cm、厚さ11cm)の中央部分にあった裂け目(縦約2m)に、縦約1m、最大幅1cmにわたり詰められていた。船の使用開始後、船板のひび割れを補修するために用いられたとみられる。
 船板やマキハダは、今月16~18日に県立安土城考古博物館(近江八幡市安土町)で披露される。
[参考:京都新聞、産経新聞、滋賀県文化財保護協会HP]

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 塩津港遺跡


木製構造船に止水材「マキハダ」 滋賀、国内で初出土
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長浜市・塩津港遺跡 平安時代後期の構造船の一部が見つかる

2015年12月10日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が10日、長浜市西浅井町塩津浜の塩津港遺跡で、「構造船」の一部が見つかったと発表した。琵琶湖では、平安後期に既に構造船が使われていたことを示す発見となる。
 12世紀の地層から出土した部材は、長さ205cm、幅58cm、厚さ11cm。針葉樹とみられる。構造船の部材としては最古という。
 部材は、どこの部分かは分かっていないが、板の厚みから船は長さ17m、幅約2.4mを超えるとみている。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞、毎日新聞]


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2009.2.27塩津港遺跡 平安末期の精巧な船形木製品が出土
 平安末期の精巧な船形木製品が見つかった。平底で、船尾が切り落ちた特徴を持ち、船体には梁2本が前後に渡る。側壁部には木片で埋めた穴が等間隔に計10カ所ある。船首に削り跡と釘穴、前部梁に凹みがあり、旗や帆があった跡とみられる。室町期ごろに登場する構造船の形態を示しているが、200年ほど遡ってその姿を現している。出土した船形木製品は写実性が高く、琵琶湖で使われた全長10m前後の運搬船をモデルにしたとみられる。
塩津港遺跡


平安後期の構造船部材が出土 滋賀・塩津港遺跡、琵琶湖水運で活用か
琵琶湖に国内最古級の構造船 滋賀・長浜の塩津港遺跡
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長浜市・塩津港遺跡 12世紀の本格的港湾遺構が出土 日本最古の埋め立て港

2015年07月10日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会は9日、長浜市西浅井町塩津浜の塩津港遺跡から、平安時代後期(12世紀)の本格的な港湾施設の遺構(杭を打ち込んだ「垂直護岸」や石を敷き詰めた「傾斜護岸」など)が出土したと発表した。
[参考:京都新聞、産経新聞、中日新聞、読売新聞]

日本最古の埋め立て港確認 平安後期、琵琶湖の塩津港遺跡

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 塩津港遺跡
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長浜市・塩津港遺跡 平安後期12世紀中頃の石敷きの護岸跡を発見

2012年07月13日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会が12日、長浜市西浅井町塩津浜の塩津港遺跡(しおつこういせき)から、湖岸を埋め立てた平安時代後期(12世紀中頃)の石敷きの護岸跡と建物跡とみられる遺構が見つかったと発表した。 塩津港は、奈良時代から明治に琵琶湖の水運と北陸への陸路を結ぶ要衝だったことが、万葉集をはじめ多くの文献に記される。 当時は、平安京と北陸を結ぶ重要なルートであった。 中世の遺構の発見は初めてという。
 国道8号バイパス建設工事に伴う調査で、遺構は、湖に突き出た南北18m、東西14m(約250㎡)の埋め立て部。 護岸跡は、西側と南側で確認された。いずれも、幅約2・5m、長さ約7mで、直径30~10cmの石を敷き詰め、水際にあたる部分は、木杭と横矢板で土留めし、土砂、礫が何層にも重ねてあり、最大の高さは、湖面より1.5mにもなる。 同様の工法は、同じ時代に造られた京都市南区の鳥羽離宮でしか見つかっていないといい、塩津港の重要性がうかがわれる。
 陸側には1m四方の井戸跡のほか、地面に口を露出させて埋められた甕が見つかった。 甕は灯明用の油を入れていた可能性があるという。中国製の青白磁片や、船を建造するためのクギも出土した。 また、周辺には加工した石材も見つかっており、何らかの建物があった可能性がある。
 出土した土師器皿や甕から、12世紀中ごろの平安時代後期に造られたと判断した。
 平安後期の神社跡からは、木製の神像5体や、船形木製品、神への誓詞「起請文(きしょうもん)」が書かれた大量の木簡が出土している。 また、昨年末に見つかった柱の多くが湖面とは逆の北側に傾いていたことが分かり、1185年の大地震で損壊したとみられているとしていた。
 現地説明会が14日午後1時半から開かれる。
 7月21日から9月2日まで、県埋蔵文化財センター(大津市瀬田南大萱町)で調査成果を紹介する写真パネル展が開かれる。
[参考:中日新聞、読売新聞、京都新聞]

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 2011.12.30 塩津港遺跡 平安時代末期の津波による痕跡か、一様に北側に傾いた柱跡が見つかる
 塩津港遺跡
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京都市・最勝光院跡/法住寺殿跡 古墳時代と奈良時代の建物跡が出土

2012年05月10日 | Weblog
 今年3月に、平安時代後期、後白河法皇(1127-1192)の后で平清盛(1118-1181)の義理の妹、建春門院(平滋子、1142-1176)が造営し居住した最勝光院跡を掘り下げると、奈良時代の建物跡3棟分と、古墳初期(3世紀ごろ)の竪穴住居跡10棟分が見つかった。
 調査地は元、一橋小学校の跡地で東山泉小・中の校舎新築に伴い、京都市埋蔵文化財研究所が1月から約1500㎡を調査していた。調査は6月末まで行われる予定。
[参考:京都新聞]

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 2012.3.9 京都市・法住寺殿跡 南側の発掘調査で建春門院が造営・居住した最勝光院跡を確認
 2011.11.30 長浜市・塩津港遺跡 平安時代末期の津波による痕跡か、一様に北側に傾いた柱跡が見つかる
 元暦2年(1185) 7月9日(新暦8月13日)に起きた京都、滋賀方面に起きた大地震(M7超)で、『吾妻鏡』7月19日の条に、「地震良久。京都去九日午剋大地震。得長壽院。蓮華王院。最勝光院以下佛閣。或顛倒。或破損。(略)」と記されている。
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長浜市・塩津港遺跡 平安時代末期の津波による痕跡か、一様に北側に傾いた柱跡が見つかる

2011年12月30日 | Weblog
 滋賀県長浜市西浅井町(注1)の塩津港遺跡(しおつこういせき)で、平安時代後期の神社跡から見つかった柱の多くが湖面とは逆の北側に傾いていたことが滋賀県文化財保護協会の発掘で分かった。 元暦2年(1185)8月(注2)に起きた地震(M7超)により琵琶湖で津波が発生し、湖岸の波が押し寄せた可能性があるという。 湖周辺にも多数の活断層が存在し、「方丈記」などの文献(注2)から、地震の発生はこれまでも指摘されてきたが、発掘で琵琶湖の津波とみられる痕跡が確認されたのは初めて。
 同協会によると、神社跡から11世紀半ば~12世紀末の門柱(直径約15cm)など約20本が見つかった。 地上部分は大半が欠けており、長さは地中に埋まっていた部分を含め約50cm。ほとんどが一様に約5~10度北側に傾いていた。
 また、2008年度に神社の周りにあった堀の北側で5体の神像が出土した件(注3)については、神像も津波で流され、堀に埋まったのではないかとみている。
 神社跡の地表の標高は 現在の琵琶湖水面より90cm(注4)ほど低いため、当時あった神社は 平安末期から江戸時代までの400年間に堆積した層がなく、神社は大地震による地盤沈下で湖底に沈んだと推定されるとしている。
 また、神社跡は湖岸から約100m内陸に立地し、神社跡の至る所で 地震による液状化で砂が地上に噴き上がる「噴砂」跡が見つかった。 液状化に伴う軟弱地盤の沈降が起きた可能性もある。
 これらの現象は、堅田断層などが活動して起きたと可能性があるとしている。
[参考:12.24中日新聞、12.29スポーツ報知、産経新聞]

(注1)2010年1月1日に、伊香郡西浅井町は長浜市西浅井町になった。
(注2)元暦二年(1185)七月九日(新暦8月13日)の大地震のこと
 『愚管抄』に、「午の時ばかり、なのめならぬ大地震ありき。古の堂のまろばぬは無し。(略)」
 『吉記』に、「午の刻大地震。洛中然るべきの家築垣皆頽れ、舎屋或いは顛倒、或いは傾倚す。打ち襲わるる死者は多く聞く。今度の地震に於いては殃に遇ざるの人無し。去る月二十日(注a)以後すでに以て連々、今日大動以て外□数十度、万人魂を消すものなり。(略)」
 『吾妻鏡』7月19日の条に、「地震良久。京都去九日午剋大地震。得長壽院。蓮華王院。最勝光院以下佛閣。或顛倒。或破損。(略)」
 『玉葉』に、「午刻大地震、古来雖有大地動事、未聞損亡人家之例、仍暫不騒之間、舎屋忽欲壊崩、(略)」
 『方丈記』に、「又同じころ(元暦二年(1185))かとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。(略)」
(注a)『吾妻鏡』元暦二年(1185)6月20日の条に、「天陰。夜半大地震。一時中動搖及數度」
 『玉葉』 同上に日に、「今夜子刻大地震4 4 4 、不異治承之例、可恐々々」
と予兆らしきものの記述がある。

 『吉記』7月29日の条に、「(略)。地震なお止まず。」
 『吾妻鏡』8月27日の条に、「午剋。御靈社鳴動。頗如地震。(略)」
 『方丈記』には、先の文章に続いて、「(略)。おほかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。(略)」
と余震が続いたことが記されている。

(注3) 2008.11.11 滋賀県西浅井町・塩津港遺跡 平安時代の神像 5体出土
 平安末期―鎌倉初期の公卿・内大臣中山忠親日記「山槐記」には、近江地方で1185年に大地震が起き、琵琶湖の水位や水流も急変したと記されている。遺跡に近接する日吉神社(西浅井町月出)では、神像が高波で流されたとの伝承も残る。また遺跡は、現在の琵琶湖の基準水位より約1.5m低い。この地震で本殿が倒壊したのではないかと考えている。

(注4) (注3)では、遺跡は現在の琵琶湖の基準水位より約1.5m低いとしていたが、今回、遺跡の標高は 現在の琵琶湖水面より0.9mほど低いとしている。

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 塩津港遺跡

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滋賀県西浅井町・塩津港遺跡 平安時代後期の神殿の部材(懸魚、欄干など)が出土

2009年08月20日 | Weblog
 県教委は20日、塩津港遺跡(西浅井町、平安時代後期)の調査で、小型の神殿の部材15点を確認したと発表した。
 県立安土城考古博物館が調査し、多数の建築部材などが出土した。欄干の下部の部材は長さ84cm、組み立てた状態の高さは推定10cm程度。屋根の破風に取り付ける装飾の懸魚(げぎょ)は、高さ13.5cm、幅12.4cmで五角形の木製板で通常より小さい。ほかに金銅製垂木先金具などが出土した。いずれも本殿に使用されるものより小さく装飾性が高いため、県教委は本殿とは別の小型神殿の部材と推定。一辺約70cmの方形の祠(ほこら)の可能性が高いとしている。
 神社建築研究の第一級の資料になるとする。
 出土した遺物は23日、県立安土城考古博物館で一般公開される。 
[参考:時事通信、毎日新聞、産経新聞]

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 塩津港遺跡
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滋賀県西浅井町・塩津港遺跡 平安末期の精巧な船形木製品が出土

2009年02月27日 | Weblog
 塩津港遺跡で、平安末期の精巧な船形木製品が26日までに見つかった。
 船形木製品は長さ17・3cm、幅4cmで、一部に着色がある。平底で、船尾が切り落ちた特徴を持ち、船体には梁2本が前後に渡る。側壁部には木片で埋めた穴が等間隔に計10カ所ある。船首に削り跡と釘穴、前部梁に凹みがあり、旗や帆があった跡とみられる。
 神像5体が見つかった神社遺構の堀跡付近で発見した。同遺跡からはほかにも運送業者の大型起請文木簡が見つかっており、船形木製品も航行の安全祈願のため物資の運搬を担った人が奉納したとみられる。
県文化財保護協会によると、同時期の船形木製品は全国的にも珍しく、梁(はり)や帆などの構造が分かる作りも極めて異例という。
 室町期ごろに登場する構造船の形態を示しているが、200年ほど遡ってその姿を現している。
 平安末期以降の船や船形木製品の出土例は全国でも非常に少なく、船の進化過程は明確ではない。今回出土した船形木製品は写実性が高く、実船をモデルにしたとみられ、歴史を埋める1級の資料になりそうだとする。
[参考:京都新聞]

<過去の記事>
2008.11.11
平安時代の神像 5体出土

2007.10.5
塩津港遺跡で、平安時代末期「起請文」が書かれた木簡が大量に出土
 県文化財保護協会が5日、平安時代末期の神社遺構に関連する堀跡から、神への誓詞「起請文(きしょうもん)」が書かれた木簡が大量に出土したと発表した。木簡に記された起請文が確認されたのは初めて。うち1本は保延3(1137)年の年号があり国内最古の起請文で、他に長さが2.2mある国内最長の木簡も見つかった。12世紀半ば前後のもので、港で物資の運搬を担った人々が「荷物をなくさない」「盗人ではない」といった内容を神々に誓願。神社に奉納、掲示して村人にも周知したとみられる。
 ■塩津港遺跡とは
 琵琶湖の最北端にあり、古代から北陸と畿内を結ぶ湖上水運の重要港だった。平安中期の律令(りつりょう)の施行細則「延喜式」には「北陸からの物資は敦賀で陸揚げして塩津に運んだ後に湖上を渡り、平安京に献上する」と定められていた。
[参考:京都新聞]
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滋賀県西浅井町・塩津港遺跡 平安時代の神像 5体出土

2008年11月11日 | Weblog
 県教委は10日、琵琶湖北端の塩津港遺跡(西浅井町)から平安時代後期(12世紀)ごろに作られた木製の男神像2体と女神像3体計5体が出土したと発表した。同遺跡では昨年、神への誓約文である「起請文」が書かれた木簡55本が出土している。
 神像が出土したのは青木遺跡(島根県出雲市)の1体に次いで2例目で、一度に5体も見つかったのは初めてという。
 神像はご神体と同様に扱われ、本殿の中にあり神官さえ見ることができないとされていた。
 神像は高さ10.5-15cm。服装から3体は女神像とみられる。男の神像のうち1体は平安貴族の礼装で、冠を頂き、手を胸元で合わせた格好をしている。女神像は大袖の袍(ほう)をまとい、髪を肩下まで垂らす。神道には偶像を礼拝する習慣がなかったが、6世紀に伝来した仏教の影響で奈良時代末ごろから神像が作られ始めた。
 瓦や檜皮(ひわだ)のほかに、幣、しめ縄、土師器、土器などの祭祀跡も見つかり、当時の神社信仰の姿を総合的に知ることができる貴重な遺跡とする。鎌倉時代の「春日権現験記絵」に描かれたお祓いの様子と同じように、3本の幣串(へいぐし)としめ縄、土師器皿が堀の中か出土した。
 本殿跡がある区画は、東西約50m、南北約50m。周囲に堀を巡らし、拝殿、鳥居柱、神泉の跡もあった。堀から、仏堂や神殿の柱などを飾る「華鬘(けまん)」や卒塔婆も出土し、神仏習合の実態がよくうかがえる。
 華鬘は仏堂の柱などにかけた団扇型の装飾仏具。花輪を贈るインドの習俗がルーツとされ、中央に垂らした2本の結びひもの左右に唐草文様を透かしたデザインの金属製が多いが、見つかったのは片方の結びひもの部分で中央に据える紐の結び目や先端の房飾りの部分、長さ18・5cm。房には漆のようなものが付着しており、金箔が張られていた可能性があるという。
 県教委によると、最も古い作例は奈良市・唐招提寺の牛皮華鬘(奈良時代末期―平安時代初期、重文)。木製品としては、これまで鎌倉時代に作られた奈良市・霊山寺の華鬘(重文)が最古だった。
 塩津は古くから北陸などの物資を京都へ運ぶ琵琶湖水運の要衝で、平安時代の延喜式に塩津神社の名が見える。
 県教委は、2006年から約3000㎡を調査しているが、今年度も鎌倉や室町時代の遺物は検出されず、遺跡は12世紀後半に突然、土地利用が終わったことが決定的となった。ご神体である神像が堀に放置されたような状態で見つかったこと、瓦や檜皮など建物部材と共に見つかったことなどから、地震などで神殿が崩壊した際に堀に埋まったのではないかとみている。
 平安末期―鎌倉初期の公卿・内大臣中山忠親日記「山槐記」には、近江地方で1185年に大地震が起き、琵琶湖の水位や水流も急変したと記されている。遺跡に近接する日吉神社(西浅井町月出)では、神像が高波で流されたとの伝承も残る。また遺跡は、現在の琵琶湖の基準水位より約1.5m低い。この地震で本殿が倒壊したのではないかと考えている。
 15日午後1時半からの現地説明会が開催される。 
[参考:時事通信、京都新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、読売新聞、中日新聞]
平安時代の神像5体=神社跡を裏付ける-「起請文」の塩津港遺跡・滋賀(時事通信) - goo ニュース

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 元暦2年(1185) 7月9日に大きな地震があったことは、「山槐記」のみならず、「吾妻鏡」、「玉葉」(九条兼実)、「愚管抄」」(慈円)、「吉記」(藤原経房)などに記されている。京都・近江で大被害を受けている様子がうかがえる。
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