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歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

韓国堤川市白雲面 堤川地域で初めての南方式の支石墓を発見

2011年09月14日 | 韓国の遺跡・古墳など
 堤川市(제천시)は14日、今月初め白雲面平洞里(백운면 평동리)で、前面に3個、右側に2個の礎を置いて、その上に大きな蓋石を乗せた、横2.5m、縦1.5mの大きさの青銅器時代の代表的墓様式である南方式の支石墓(고인돌)を発見したと発表した。
 支石墓を北方式(북방식)と南方式(남방식)・蓋石式(개석식)に区分すると、これまで、同じ堤川地域の水山面綾江里(수산면 능강리)と清風面黄石里(청풍면 황석리)などで発見されたのは蓋石式支石墓である。
 また、平洞里支石墓蓋石には直径14㎝、深さ10㎝のくぼみ(星穴、성혈)が見られた。 これは雷の敬畏思想と太陽崇拝思想、豊穣などの意味があるという。
[参考:聨合ニュース]

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忠南天安市稷山・慰礼山城 百済最初の都? 城門跡を初めて確認

2010年05月03日 | 韓国の遺跡・古墳など
てんなんしてんあんし 忠南天安市(충남 천안시)は、昨年11月から三国遺事など文献の記録と一部史学会で比定された「百済の最初の都が天安市稷山慰礼山城(직산 위례산성)」の事実を確認するために、忠南歴史文化院(충남역사문화연구원은)に依頼し天安市慰礼山一帯の発掘調査を始めたが、1次調査では百済時代から統一新羅時代に達する遺物などを多数発見したが、百済最初の慰礼城を特定する成果は得られなかった。(2010.4.1)

 忠南歴史文化研究院は3日、慰礼山城発掘調査で生活遺構跡と共に門跡1ヶ所を確認したと発表した。慰礼山城で初めて門跡が確認され、城門場所の年代測定のため細部調査の必要性が提起された。
 確認された門跡は版築されていて、改築された城壁の下の層で確認され、細長方形と長方形に近い石材を段々に積み上げた側壁が明確に露出しており、側壁は城内側から丸く弧をなし城の外まで長くの延びているのに片側面だけしか確認されなかったため、正確な構造および築造時点は確認できなかった。
 また、発掘調査では「牛角形把手部(우각형 파수부)片」「三足土器(삼족토기)片」の他に、製作年代を百済漢城期まで推定可能な「打捺文土器(타날문토기)」が出土した。
 天安市は今回の発掘調査結果を基に、今年下半期に2次発掘調査行い慰礼城の築造時期に対するより具体的で幅広い資料を確保する計画。
[参考:2010.4.1聨合ニュース、2010.5.3聨合ニュース]

2011.5.18追記
 忠南天安市は18日、百済初めての都として知られる天安慰礼城および成歡、聖居、稷山、笠場面など周辺遺跡の考古学的学術研究のための「天安聖居山慰礼城3次学術調査」を実施すると発表した。
 三国遺事に「慰礼城は今の稷山」と記録されたのをはじめとして高麗史と新増東国輿地勝覧(1530年)、朝鮮王朝実録など多くの史書が稷山慰礼城を百済の初めての首都として紹介しているが、最近ではソウル松坡区一帯が百済の初めての首都という学説が主流をなしており、稷山慰礼城は非主流学説に押されている。




キーワード: 忠南天安市山城

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百済時代 地方木簡 羅州伏岩里古墳群で初めて出土 製鉄所も発見

2008年07月25日 | 韓国の遺跡・古墳など
 百済が今の全南羅州地域で「官営・製鉄所 제철소」を運営していて、さらに製鉄所に必要な人材を緻密に管理したことを後押しする木簡が発見された。
 百済時代木簡は、これまで百済最後の首都扶余だけで発見されており、今回初めて首都から離れた地方でも出土したことによって百済の地方統治実体を把握するのに画期的な資料を提供する見込みだ。
 国立羅州文化財研究所(所長シム・ヨンソプ)は羅州伏岩里古墳群(史跡404号)一帯整備のためにその周辺地域に対する発掘調査を行った結果、鉄器を生産した製鉄遺跡と共に百済地方史研究に重大な転換点になることができる文字木簡2点を収拾したことを24日発表した。
 製鉄遺跡近隣で、水溜り施設内部で収拾されたこの木簡はともに片面だけに墨書文字が発見された。
上部分一部が切り取られた一つ目の木簡は残存長さ8.4㎝、幅4.1㎝、厚さ0.5-0.6㎝で「…(年)三月中監数長人…出省者(得)捉得□奴…」程度で読むことができる16文字の墨書が2行にかけて確認された。
 正確な意味は把握できないが、字の判読が正確だと仮定して、文字どおり解釈するならば「□年3月に三、四人の長人を監督した(一行目) 探して見つけた者は逮捕して、とすることができる」(2行目)と、ある程度解釈することができる。
 研究所は「長人」というのは、この頃労働現場の「什長」ように労務者中でも親分位置にある人を指し示す可能性があるという推測を加えた。
 色々な組合せを通して復元した、二番目の木簡は残存の長さ32㎝、幅4.2㎝、厚さ0.3-0.4㎝の大きさで、墨書で数十字が確認されるが磨耗が非常に激しくて、概略 「兄将○立○○○四二中○四 ○二 …○○○○○ ○定文丁○○一女○ ○○○○二巴四入○○○○定'」程度だけ読むことができると研究所は話した。
 したがって、「二つの木簡に記録された内容は正確には分からないが人材管理に関する文書と把握される。具体的な内容は今後関係専門家たちの意見収集を経て、別途発表する」とした。
 シム所長は「今回の木簡は発見地域が百済の地方という点で意味があり、文献資料が不足している百済史研究の新しい転機となることができる。また木簡内容の中に管理する内容が含まれていて、この地域の古代社会構造の一面を明らかにできることを期待する」と話した。
 特に、百済の中央と地方勢力との関係すなわち、大型の甕棺古墳を築造した栄山江流域勢力との関連性研究に重要な資料になるものと見られる。
 この木簡が出土した周辺では、湖南地域では初めて三国時代製鉄遺跡が発見されて、さらにこの一帯で木簡の他にも多量の鉄スラグ、鍛造薄片、炉壁片と坩堝(るつぼ)、「官内用」という字を刻んだ百済時代銘文土器、土製硯、百済期の木器類などのたくさんの遺物が発見された。
 「官内用」という字は、文字通り役所で使う器物を意味する。
したがってこの銘文土器と木簡、硯、そして百済期のような遺物は伏岩里古墳群近隣地域で、文書行政が成り立ったし、地方官庁と同じ主要な施設があったことを後押しすると研究所は話した。
 特に遺跡と遺物が出土する様子を見た時、木簡に記録された内容はこの製鉄所運営と密接な関連があるものと見られる。
 出土時期については、なにも触れられていないが、首都が扶余の時代となると大まかに泗沘時代(538年-660年)となる。
[参考:聯合ニュース、Daum]
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