【なまずか金魚か??】
Catfish HUNTER
1965年、アスレチックスと契約を交わしたハンター。
本名は、ジェイムス・ハンターであったが、
『なまず釣り』が趣味だった事から、
オーナーのチャールズ・o・フィンリーから
『キャットフィッシュ・ハンター』と命名される。
マイナーを経験せず19歳でメジャーデビューを飾ったハンターは、その年8勝。
翌66年は9勝をあげるが、両年とも防御率が4点台と、
ブレークにはほど遠い成績に終わっていた。
その才能が開花したのは67年。
17敗を喫するも、13勝 防御率2.81と
ローテーション・ピッチャーとして申し分無い働きを見せ、
チームの主力投手に成長を遂げると
70年まで4年連続で二桁勝利をマーク。
68年には5月8日のツインズ戦で完全試合を達成した。
豪速球の持ち主では無かったが、
コーナーに投げ分けるコントロールの良さが光る
本格派投手であった。
71年、25歳のハンターはさらなる成長ぶりを見せつける。
この年、21勝 防御率2.96の好成績で大ブレーク。
翌72年も21勝 防御率2.04でリーグ優勝に大きく貢献。
レッズとのワールドシリーズでも2勝をマークし
チームを世界一に導くと、73~74年も20勝以上。
チームのエースとして、アスレチックスの
3年連続ワールドシリーズ制覇に多大な貢献を果たした。
74年.......25勝 防御率2.49で、
最多勝と最優秀防御率及び、サイ・ヤング賞を受賞し
キャリア最高の年を送ったハンターだったが、
アスレチックスの契約不履行により自由契約の身になると、
5年間375万ドルという当時としては破格の契約で
75年に、ヤンキースへ入団。
あまりの高額契約にマスコミやファンから
『ゴールド・フィッシュ・ハンター』などと揶揄されるが
この年、23勝 防御率2.58。
堂々のピッチングぶりで周囲の雑音をシャットアウトした。
結局、その後、
77年、78年とヤンキースで2度の世界一を味わったハンターは
33歳になった79年、現役を退いている。
通算224勝、防御率3.26。
87年に野球殿堂入りを果たし、
99年、ルー・ゲーリック病でこの世を去った。
Catfish HUNTER
1965年、アスレチックスと契約を交わしたハンター。
本名は、ジェイムス・ハンターであったが、
『なまず釣り』が趣味だった事から、
オーナーのチャールズ・o・フィンリーから
『キャットフィッシュ・ハンター』と命名される。
マイナーを経験せず19歳でメジャーデビューを飾ったハンターは、その年8勝。
翌66年は9勝をあげるが、両年とも防御率が4点台と、
ブレークにはほど遠い成績に終わっていた。
その才能が開花したのは67年。
17敗を喫するも、13勝 防御率2.81と
ローテーション・ピッチャーとして申し分無い働きを見せ、
チームの主力投手に成長を遂げると
70年まで4年連続で二桁勝利をマーク。
68年には5月8日のツインズ戦で完全試合を達成した。
豪速球の持ち主では無かったが、
コーナーに投げ分けるコントロールの良さが光る
本格派投手であった。
71年、25歳のハンターはさらなる成長ぶりを見せつける。
この年、21勝 防御率2.96の好成績で大ブレーク。
翌72年も21勝 防御率2.04でリーグ優勝に大きく貢献。
レッズとのワールドシリーズでも2勝をマークし
チームを世界一に導くと、73~74年も20勝以上。
チームのエースとして、アスレチックスの
3年連続ワールドシリーズ制覇に多大な貢献を果たした。
74年.......25勝 防御率2.49で、
最多勝と最優秀防御率及び、サイ・ヤング賞を受賞し
キャリア最高の年を送ったハンターだったが、
アスレチックスの契約不履行により自由契約の身になると、
5年間375万ドルという当時としては破格の契約で
75年に、ヤンキースへ入団。
あまりの高額契約にマスコミやファンから
『ゴールド・フィッシュ・ハンター』などと揶揄されるが
この年、23勝 防御率2.58。
堂々のピッチングぶりで周囲の雑音をシャットアウトした。
結局、その後、
77年、78年とヤンキースで2度の世界一を味わったハンターは
33歳になった79年、現役を退いている。
通算224勝、防御率3.26。
87年に野球殿堂入りを果たし、
99年、ルー・ゲーリック病でこの世を去った。