藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

原子爆弾と栗原貞子

2012-07-23 13:15:47 | インポート

23chokinkyokuatoansutawa1 栗原貞子さんの詩

「生ましめんかな」の舞台となった、広島貯金局跡地である。被爆建物として、保存できなっかた。この時の無念さが、「広島気象台」保存のとき私の執念を燃やし続けた。

私が結婚し、子育ての場として選んだのが、広島県安佐郡可部町であった。昭和46年のことである。現在は町村合併が進み、広島市安佐北区可部町となり、その後住居表示変更で広島市安佐北区亀山となった。字名が住所になったのだ。栗原貞子さんは、1913年大正2年旧可部町上町屋の旧家の次女として生まれた。旧姓は土居である。毛利家の重臣熊谷家の家老の家柄である。現在土居屋敷跡は、史跡として保存されている。

貞子さんは聡明な人であったらしい。17歳で県立可部高等女学校を卒業するが、在校中から文学活動はじめ、卒業と同時に、歌誌「処女林」の同人となり、そこで栗原唯一氏と出会う。翌年駆け落ち結婚をされたそうである。栗原唯一は、アナーキストとして近在に知られ、その活動範囲は西日本全域を網羅していたそうである。(これらの事は、元広島市議会副議長 米田十郎氏から伝え聞いたことである。)栗原唯一氏は、活動手段として、「フウテンの寅さん」と同じ仕事をしながら活動したことがあったそうだ。その仕事で鍛えた弁舌は見事であったそうである。残念ながら、私が栗原貞子さんを知ったときには、鬼籍の人であった。その死は原爆症であったという。栗原貞子さんと最初に出会ったのは、広島市合併前の、最後の可部町議会選挙の時であった。私が現場監督をしている現場に、電柱から外線の、引き込み工事にやってきた中国電力の職員の中に、一人の凛々しい男がおり、話てみると可部町内に住んでいるという。その彼が、町会議員に立候補するという。話を聞いてみると、昭和20年召集で陸軍に入隊、当時広島城が広島師団の本部で、そこで原爆にあったという。運よく地下にいたため助かったが、その後急性原爆症で生死の境をさ迷ったという。同じ被爆者として応援することとした。その選挙活動に、栗原貞子さんがやって来た。可部町に残る親戚を訪ね歩き、熱心に活動された。その行動は、鬼気迫るものがあった。戦前、戦中反戦で貫き通した人間の強さを強く感じた。その後、娘の平和学習の時も快く引き受けた頂いた事は先日の記事で紹介済みであるが、この女性の強さはそれだけではない。主人の唯一氏を県議会議員に押し上げる力も発揮された。加えて、広島の女性の平和運動の中心として、2005年92歳でなくなるまで続いた。

最後に次の詩を掲載しておく。広島を語る時、この詩以上に語れる人はいない。栗原貞子さんの詩である。

「生ましめんかな」

こわれたビルディングの地下室の夜だった。
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク1本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血のにおい、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中からふしぎな声が聞こえてきた。
「赤ん坊が生まれる」というのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。
マッチ1本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は
血まみれのまま死んだ。
うましめんかな
うましめんかな
おのが命捨つとも

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1 コメント

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深山 霞さん、こんにちは。 (山里の人)
2012-07-24 15:57:00
深山 霞さん、こんにちは。
私のブログに来訪されて、有難う御座います。
先ほど、奥様のブログを訪ねました。
ご夫婦とも、古代史に造詣がおありのようで、興味を持ちました。

私も30年間、古代史を研究しております。
たまに、古代史の記事も書いていますが、
殆どは、家庭内の痴話話しです。
軽い乗りで、オヤジギャグの世界をまっしぐらです。

これからも宜しくお願いします。
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