藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

近頃見掛けなくなった物(七)

2021-05-19 09:03:34 | 日記・エッセイ・コラム

 広島市では、昭和三十一年にTV放送が始まった。 私が小学校三年生の時である。 東京でのオリンピック開催が盛んにささやかれていた時代だ。 それ迄、町中では夕方が近くなると、子供たちがそわそわし始めた。 自転車の後ろに箱を載せてやって来る「紙芝居」を待っていたのである。 私の町内では、二人の紙芝居屋さんが来ていた。 一人は、太鼓をたたいて子供を集めていた。 今一人は、「拍子木」を叩いて子供を集めていた。 紙芝居の上手なのは、拍子木を叩く方であったが、五円で多くの水あめが貰えるのは、太鼓の方だった。 割り箸を二つに切った短い棒が二本。 そこに水あめを付けてくれるのだが、よくよくこね回して真っ白く空気を入れると今一度水あめをくれた。 子供たちは、上手な方にやはりたくさん集まっていたが、TV放送が始まってからは、紙芝居屋さんを見向きもしなくなった。 皆、電気屋さんの前に集まって店の外からTVを見ていたのだ。 国鉄の駅前には、「街頭TV」なるものもあらわれた。 相撲の時間は、特に大人までもが集まって来た。 国鉄の駅の東側には、「TV館」という、有料でTVを見せる建物までできる状態だった。 同じクラスの女の子が電気屋だったので、学校帰りにその子の家で宿題をやってその後、TVを見せてもらっていた。 その子の母親が、帰りに家に寄って、宿題を見てやって欲しいと言われたのがきっかけだった。 そんな状況から、紙芝居屋さんは姿を消す事となった。 町内で最初にTVを購入されたのは、「銭湯」だった。 放送劇と言えばラジオだったが、TVドラマが主流に成って行った。 子供は、相撲にプロレス。 母親は何と言っても「君の名は」であった。 その時間は「銭湯」の女湯は、ご婦人でであふれかえった。 その内民放も始まって、「まぼろし探偵」?だったと思うのだが、「吉永小百合」さんを始めてみた。 あれは昭和何年の事だろう?。 それ以来の「ファン」である。

コメント
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