藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

近頃見掛けなくなった物(六)

2021-05-16 10:01:12 | 日記・エッセイ・コラム

 それは何と言っても、縁台将棋ではなかろうか。 私が生まれ育った町は、広島市の西の玄関と言われた「己斐」と言う町である。 嘗ては、町全体が植木と花で生活している感じの街で、江戸時代、浅野家が江戸から植木職人を呼び寄せたのが始まりだとか言われている。 しかしながら、長い年月の中でこの街の植木技術は独特の流儀が発生して、盆栽から庭木迄ない物がない程に発達してきたそうだ。 況してや我が家は、旧山陽道に面していたので、家が建っていない空き地は、植木の苗木や花の苗木が溢れていた。 植木を扱う家々にも特徴があって、盆栽は盆栽、庭木は庭木、花木は花木と別れていた。 一般の農民もいたが、大体に名字で別れていたようだ。 土地持ちは一家を構えていて、その下に幾人かの職人を抱えていた。 職人さんは朝が早く、日の出前から仕事に出かけたが、夕方は早く仕事仕舞いをしていた。 夏などは、帰宅すると行水をして、褌一枚で縁台に座り、団扇であおぎながら、(縁台の下には、フマキラーの蚊取り線香が煙を立てていた。) 誰か将棋の相手が来ないものか待ち受けていた。 私の家の並びは、隣が酒屋で、その先が森本長屋と呼ばれていて、六件ばかり棟続きが並んでいた。 此れが旧山陽道に面していて、戦前はバスなどが行きかっていたが、戦争中に軍隊が新しい道を付けたので、案外のんびりした風情に変わっていた。 が、路面は一応、国道二号線なので、アスファルトで舗装されていた。 夏になるとこの路面が焼けつくような暑さに成る。 日が西の山に隠れる頃、遊びに飽きた子供たちが、バケツを手に持ち集まって来る。 近くの手押しポンプの水を、縁台将棋中の親父たちの近くの道に撒くのだ。 するとそれ迄とは変わった風になる。 縁台の親父連中からご褒美が出始めるのだ。 一人頭五円。 アイスキャンだー一本分。大きな飴玉三個分である。 そんな縁台将棋をやっている親父連中の褌を見たら、緩んで来て中身が零れている事等再々だった。 買い物帰りの奥様達は半分苦笑いをしながら通っていたが、子供たちはそれを面白がってはやし立てたりしていた。 多くの子供の履物は、ゴム草履。少し暮れてくると、蝙蝠が飛び始める。 みんなで蝙蝠取りをして遊んだものだ。 捕まえても必ず返していた。 盗り方は単純で、蝙蝠が飛んでくる方向の前に、ゴム草履を投げると、それに反応して蝙蝠がつられてやって来るのだ。 それを、団扇や網で叩き落とす。酷くは叩かないのがコツなのだ。 今日は何匹捕まえたなどと、自慢しあっていた。 その時間過ぎ頃から、女の子は行水してもらって浴衣に着替えて、遊びに加わり始めた物だった。 子供心に、女の子の浴衣姿は可愛いなーと思たものである。 女の子が下駄に履き替えると、不思議と蝙蝠が姿を消していったのが未だに不思議である。 その後に待っていたのは、「線香花火」の時間だった。 少し金持ちの子供が持ってやって来るのだ。 家の仏壇から持ち出した「ろうそく」の火で、・・・・「ちりちり・・ぱぱちち・・」。   追伸 此の頃、ロケット花火が流行り始めたが、これをすると、大人が飛んできて止めていた。 その理由は、「火事になる」からだった。 広島の街は、まだまだバラックが多かったからである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする