寺嫁な日々

嫁・妻・母・坊守として日々感じた事、大きな声じゃ言えない本音の所・・・お話しします

感話追記

2009-04-19 23:55:26 | ちょっと感じたこと
九州の寺嫁です

小心者の、ええかっこしいでなので人様の前で話をするのが大苦手なんですが
感話があたってしまいました


結婚してから夫と姑を盾に後ろに隠れた生活をしていましたが
5年ほどまえに教区の学習会をお手伝いさせていただくことになったことで
少しずつ外に出て行くことが増えていきました
思いを表す、伝えるというのが苦手なので
発題、書き物等を依頼されるたびに
『嫌だ、出来ない』と逃げ回っていたのですが
『モノが言える場所とチャンスを放棄するのはもったいない』という先輩の言葉にそそのかされ ・・・いえ促されて・・・・・
自分なりに考えを言葉にしてきました
会話や座談等であれば、言い直しや、説明、お互いに確認ということが出来ますが
それが例えば印刷物になり手元に届きますと
私が発信するものなど大したものではないんですが
それでも、いったいどんな人がどんな風にこれを受け止めているのかと
顔の見えない不特定な相手に一方的に発信することが、恐ろしくもあり、なんかだか頼りない気持ちになります

今回のテーマは『五障三従御文の拝読』について
御文は宛先となる特定の個人や講に対してのお手紙です
そんなお手紙・・・・まして時代や背景を斟酌しなければ意味が正しく伝わらないような文言を含む文章を、儀式のような場で不特定の相手に拝読し、教化の手段とすることに
なにか同じような恐ろしさを感じました
(もちろん蓮如聖人と名も知れぬ一坊守の影響力の違いは推して知るべし・・・ですが

実は今回の学習会に参加が決まって、
お月忌参りでは、あえて問題のある御文を拾い読みしていました
ある70代一人暮らしのご婦人とお勤めした時の事です
この方には子供さんがおられませんが、お姑さん、ワンマンなご主人に非常に苦労された方と聞いております。
数年前にご主人が亡くなられて、
『今が一番幸せ』とおっしゃられます
一緒に御文を読ませていただきながら
おばちゃんはどんな風に五障三従の御文を聞いてこられたんだろうと切ない気持ちになりました
又、実父が入院中、隣のベッドに居られた男性は
体が不自由で、それ故なのか、いつも奥さんを罵倒していました
ある時、いつも大人しく夫に従っている奥さんが、人に見えないところで車椅子のご主人をこっそり叩いたりつねったりしているところを実母が目撃してしまいました
長く御文をいただいてきたおばちゃんの救済・解放は『従わねばならない者』との決別(死)だったのでしょうか?
夫を叩いていた奥さんの救済・解放は『従わねばならない者』との力関係の逆転、そして復讐だったのでしょうか?
それは御文が願う差別者も被差別者もともどもに差別心に気づき、救われていくという願いとは全く違うものだよね

女も男も救われないまま・・・・・・・
ほんとの幸せが何かなんてわかっちゃないけど、なんか悲しいなぁ


では
五障三従の御文を全く無かったものとしてしまえばどうかというと
そう単純なことではないようで・・・

私はお月忌では女性差別の文言を含む御文は適当に飛ばして拝読していました
問われたときにきちんと説明できないからです
説明できないから読まないというのでは僧侶として・・・というか御文を拝読するかどうかを決定している者としての怠慢でしょう
読み逃げもしかり
擦り切れるまで読み込まれてきた御文のもつ力、意味を考えることも必要でしょう

単に抹消してしまえばよいというものでも無いようです
拝読について様々に思慮・工夫されている方々と、又、ご門徒の方と現場で問題を共有しながら、
それが儀式を再考する力となっていけばいいな
と思ったことです          ペコリ