ツイッターフォロアーの佐藤アンさんからの数件のメンションに答えるには時間を要する為、又誤解を防ぐ為、誠に恐れ入りますが、解説と回答とのブログ化を求めましたところ、快く承諾を頂きましたので今回の運びとなりました。
『分祀 合祀の言葉は、明治維新での神田大明神からの菅原道真公の御霊を分祀した時から 知られるようになりました。』
私の靖国神社の分祀の自動ツイートにこの様なメンションを頂きました。
私の立場はお判りのように分祀は不可能であると言う靖国神社側の立場と同じものです。
このようなメンションは通常、「神田明神では分祀しているぞ、何故靖国神社は分祀しないのだ」の時に使われる常套句です。
『私の祖母は靖国遺族会で、東条英機総理大臣を含む政府閣僚の合祀には反対派でしたから。』
『神田大明神では、明治維新の時に菅原道真公の柱を分祀しており、昭和の時代で菅原道真公の柱を合祀していています。そして去年から菅原神社の御輿も三社祭に出れれるようになりました。』
つまり、佐藤さんは分祀したい派なわけです。大明神の説明の前に学問の神様"菅原道真"ではなく、"平将門"の間違いですが、混同するのも仕方ありません。
この違いは意図的なら悪質ですが、単なる勘違いとしておきましょう。
基本的に【大明神】は、仏教が呼ぶ神道の神様。
【天神・天満宮】とは、菅原道真公を祀るものと見ればわかりやすいでしょう。
【予備知識】として神田大明神は-----------wiki
社伝によれば、天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。
承平5年(935年)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けた。嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。
明治に入って神社が国家の管理下にはいると、明治元年(1868年)准勅祭社に指定され、その後、府社に列せられ、1872年に正式の社号が「神田神社」に改められた。明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、戦後昭和59年(1984年)になって本社祭神に復帰した。
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つまり、神田大明神は怨霊神社、御霊神社であり、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期に出来ました。
このバックグラウンドには江戸時代、寺が幕府の出先機関として機能しており、寺は檀家に高利貸しをしたり、農民から土地を取り上げたりしていたので抑圧された民衆の不満を、寺の支配下に置かれていた神社の神官が煽動して、大きな戦いへと発展します。
そもそも廃仏毀釈運動は、江戸時代の流れをくむ国学者・仏教配下の神官・民衆によって始まり、寺が民衆支配をしていた事実への私的制裁や戦いという側面が認められるのです。
戊辰戦争や上野戦争などの起因となり、神道と仏教の代理戦争と言う背景を持つのです。
ここまで明治の新体制の国家神道が貶められ、その精神的支柱である靖国神社に於ける様々な問題の多くはこの背景に影響されていると見て間違いないでしょう。
話を戻しますが、この神田大明神の分祀と仰っているのは飽くまでも縁起が悪いので剥ぎ取った、外したとの表現が正しいのであって、分祀という概念は昭和期に造語されたとの見方が正しいのです。
ですから靖国神社から東条ら14名の所謂A級戦犯を戦争責任者として分祀しようとする行為は被害者としての英霊とその責任者(東京裁判史観)、仏教から見た国家神道の精神的支柱との見方が複雑化して一点に集中しているのです。
『今年の1月、天皇陛下のフィリピン御訪問 フィリピン戦没者慰霊碑への追悼に合わせて私もフィリピンへ行き参列しました。天皇陛下の追悼の御言葉に涙が溢れました。』
『東条英機総理大臣は靖国合祀に関して戦地での病死は合祀を認めない厳しい審査を行っていたので、東条英機総理大臣は自分が合祀されてビックリしているのではないでしょうか。』
東条英機の遺書を読んだ方でしたら判ると思いますが、「戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。」
たとえ餓死やインフルエンザで無くなっても戦病死は戦没者、戦死傷者として合祀されています。
東条英機に関しては当初の合祀基準や戦陣訓で貶められますが、本来東条英機らは靖国神社に祀る側とも言われたりしますが、私は寧ろ他の英霊は喜んでおられる方もいると信じています。
『わたしの祖母の兄は、東京帝国大学法学部から学徒動員で青年将校としてパラオ近辺で戦没しました。去年の天皇陛下パラオ御訪問には祖母が行きました。』
このように学徒動員の戦没者に近い方々は戦争に対する憎悪が責任者に向かうことも理解出来ます。だからと言って裁かれた東条等を"分祀"すれば全て解決となるでしょうか、靖国神社に行っても合祀されている英霊や東条等が見て判る訳でもありません。
あくまでも心の問題です。東条等が合祀されているようだから行きたくない、との気持ちもわかりますが、だからと言ってご家族の御英霊が祀られている所に行かない、とはならないはずであると思いたいのです。
同じ日本人でもこのような戦争責任者に対する様々感情があります。この心の分断は一重に占領政策と東京裁判史観が齎したものであり、少なくとも現在よりは一つに纏まって戦っていたはずです。
戦争責任などは70年以上かけて日本人全てがとってきたのでしょう。分祀出来ないのであれば、新しい追悼施設をとの声は戦犯を指導者としたい、東京裁判史観をそのままとしたい米国の意が深く介入している証でもあるのです。
この様なブログに於いてではほんの少しのことしか申し上げられませんが分祀など出来ないとする靖国神社の心をご理解頂ければ幸いです。
『分祀 合祀の言葉は、明治維新での神田大明神からの菅原道真公の御霊を分祀した時から 知られるようになりました。』
私の靖国神社の分祀の自動ツイートにこの様なメンションを頂きました。
私の立場はお判りのように分祀は不可能であると言う靖国神社側の立場と同じものです。
このようなメンションは通常、「神田明神では分祀しているぞ、何故靖国神社は分祀しないのだ」の時に使われる常套句です。
『私の祖母は靖国遺族会で、東条英機総理大臣を含む政府閣僚の合祀には反対派でしたから。』
『神田大明神では、明治維新の時に菅原道真公の柱を分祀しており、昭和の時代で菅原道真公の柱を合祀していています。そして去年から菅原神社の御輿も三社祭に出れれるようになりました。』
つまり、佐藤さんは分祀したい派なわけです。大明神の説明の前に学問の神様"菅原道真"ではなく、"平将門"の間違いですが、混同するのも仕方ありません。
この違いは意図的なら悪質ですが、単なる勘違いとしておきましょう。
基本的に【大明神】は、仏教が呼ぶ神道の神様。
【天神・天満宮】とは、菅原道真公を祀るものと見ればわかりやすいでしょう。
【予備知識】として神田大明神は-----------wiki
社伝によれば、天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。
承平5年(935年)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けた。嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。
明治に入って神社が国家の管理下にはいると、明治元年(1868年)准勅祭社に指定され、その後、府社に列せられ、1872年に正式の社号が「神田神社」に改められた。明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、戦後昭和59年(1984年)になって本社祭神に復帰した。
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つまり、神田大明神は怨霊神社、御霊神社であり、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期に出来ました。
このバックグラウンドには江戸時代、寺が幕府の出先機関として機能しており、寺は檀家に高利貸しをしたり、農民から土地を取り上げたりしていたので抑圧された民衆の不満を、寺の支配下に置かれていた神社の神官が煽動して、大きな戦いへと発展します。
そもそも廃仏毀釈運動は、江戸時代の流れをくむ国学者・仏教配下の神官・民衆によって始まり、寺が民衆支配をしていた事実への私的制裁や戦いという側面が認められるのです。
戊辰戦争や上野戦争などの起因となり、神道と仏教の代理戦争と言う背景を持つのです。
ここまで明治の新体制の国家神道が貶められ、その精神的支柱である靖国神社に於ける様々な問題の多くはこの背景に影響されていると見て間違いないでしょう。
話を戻しますが、この神田大明神の分祀と仰っているのは飽くまでも縁起が悪いので剥ぎ取った、外したとの表現が正しいのであって、分祀という概念は昭和期に造語されたとの見方が正しいのです。
ですから靖国神社から東条ら14名の所謂A級戦犯を戦争責任者として分祀しようとする行為は被害者としての英霊とその責任者(東京裁判史観)、仏教から見た国家神道の精神的支柱との見方が複雑化して一点に集中しているのです。
『今年の1月、天皇陛下のフィリピン御訪問 フィリピン戦没者慰霊碑への追悼に合わせて私もフィリピンへ行き参列しました。天皇陛下の追悼の御言葉に涙が溢れました。』
『東条英機総理大臣は靖国合祀に関して戦地での病死は合祀を認めない厳しい審査を行っていたので、東条英機総理大臣は自分が合祀されてビックリしているのではないでしょうか。』
東条英機の遺書を読んだ方でしたら判ると思いますが、「戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。」
たとえ餓死やインフルエンザで無くなっても戦病死は戦没者、戦死傷者として合祀されています。
東条英機に関しては当初の合祀基準や戦陣訓で貶められますが、本来東条英機らは靖国神社に祀る側とも言われたりしますが、私は寧ろ他の英霊は喜んでおられる方もいると信じています。
『わたしの祖母の兄は、東京帝国大学法学部から学徒動員で青年将校としてパラオ近辺で戦没しました。去年の天皇陛下パラオ御訪問には祖母が行きました。』
このように学徒動員の戦没者に近い方々は戦争に対する憎悪が責任者に向かうことも理解出来ます。だからと言って裁かれた東条等を"分祀"すれば全て解決となるでしょうか、靖国神社に行っても合祀されている英霊や東条等が見て判る訳でもありません。
あくまでも心の問題です。東条等が合祀されているようだから行きたくない、との気持ちもわかりますが、だからと言ってご家族の御英霊が祀られている所に行かない、とはならないはずであると思いたいのです。
同じ日本人でもこのような戦争責任者に対する様々感情があります。この心の分断は一重に占領政策と東京裁判史観が齎したものであり、少なくとも現在よりは一つに纏まって戦っていたはずです。
戦争責任などは70年以上かけて日本人全てがとってきたのでしょう。分祀出来ないのであれば、新しい追悼施設をとの声は戦犯を指導者としたい、東京裁判史観をそのままとしたい米国の意が深く介入している証でもあるのです。
この様なブログに於いてではほんの少しのことしか申し上げられませんが分祀など出来ないとする靖国神社の心をご理解頂ければ幸いです。
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