日蓮正宗信徒との肩書の「古屋 一 」というブロガーがいる。
『神社は“正しい”宗教にあらず!』の中で
『神道は“正しい”宗教にあらず、
邪宗教である。
だから絶対に、
神社へ参詣してはならない。』
と書いている。
信教の自由が保障された現在参詣、つまり行ってはならないとは驚きである。
彼は"邪宗教"と主張しているが日蓮の法華経を信仰しない他宗派はすべて邪教とする教え通りであろう。
鎌倉幕府の弾圧によって日蓮は流刑を受けるがこの時退転したのが日蓮宗であり、日蓮正宗は日蓮の意を継ぐ正統派といったところだろう。
日蓮正宗は排他的であることが窺える。また日蓮の書物を"御書"と崇める創価学会にも少なからずこの排他的要素は継承されていると見て然るべきであろう。
靖国神社に関して時折激しい反対意見を受けるのだが民族派の極右的思考と同根であることが推察できる。つまり排他的ナショナリズムの面からの神社否定である。
神社神道こそが日本人の習俗であり、そこには宗教という完成された、或いは枠にはまった分類がなされていないだけの話である。
だからこそ仏教と融合し得たのであり、現在の信教の自由も確立され、古代より時間をかけてアウフヘーベンしてきたのだ。
鎌倉幕府でさえ日蓮を流刑にしたが宗教までは禁止していないし、そこまでの弾圧である。
明治来の神道を各仏教の上位に置き差を付け国教に位置付けたことが現在では宗教弾圧ととられがちであるが、廃仏毀釈といっても神仏習合を廃して神仏分離を図ったのであり、逃れる術はあっただろう。
仏教は現在では神仏習合として日本に根付いた宗教との認識であるが、すんなり受け入れられた訳でもない。それなりの排斥のトラブルが過去に於いて見受けられる。
例えば、仏教伝来時、物部氏が中心となり、豪族などによる迫害が行われたことが欽明・敏達・用明各天皇記に記されている。またキリシタン大名の元では神社仏閣の焼き払いは当たり前の様に発生した宗教的迫害であろう。
江戸時代前期には儒教の影響で神仏習合からの分離、仏教寺院を削減する抑制政策が始まっている。水戸黄門の指導で領内の半分近い寺が廃された水戸藩が廃仏毀釈に与えた影響も小さくはないだろう。
明治新政府の発した神仏分離や大教宣布は神道と仏教の分離を目的としたもので仏教排斥を意図したものではなかった。
明治維新の原動力を外圧と捉えるならば尊王攘夷を掲げ樹立した新政府が平田篤胤の国学を基に神仏分離や大教宣布と言った政策で富国強兵を図ることは寧ろ自然な流れであったのだろう。
明治政府も神道を宗教とは見ていない点に着目する必要があるだろう。
死生観で世界を見ると実に興味深い事が見えてくる。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、儒教などにおいては基本的に土葬である。
インド起源の宗教は、肉体は単に霊魂の容れものにすぎないとみなされ火葬される。
中国は死後も生前と同様の生活がつづくものという考えがある。
死後の世界は、昔の日本は『日本書紀』に「根の国」、古事記には「黄泉の国」とあり、仏教が普及してからは、死後の世界のイメージは極楽、キリスト教の教義が一般的に普及すると天国とも混同される。
仏教教義においては、因果応報説にもとづいて、生前善い行いをしたものが行くとされる(極楽・天国)と、悪い行いをしたものが行く(地獄)は別々であることが、明確に分けられた。
ゼロ戦に乗ってカミカゼアタックしてくる恐ろしい国、教祖が国の元首として共に戦う国、そんな国の国教である国家神道は恐ろしいカルト教国家に見えたのだろう。
寧ろ私には神社を否定する宗教こそカルト教に見えるのである。従って神社へ行くなと堂々とブログにアップする彼は日本人でありながら神社に参詣する日本人を排斥する反日日本人に他ならない。
早い所このブログを削除した方が身の為である。
民主を救済する為に正しい宗教へ導かせたいからではないですか
バカ死ね
殺しました