陸軍次官
23 梅津美治郎 11.3.23-13.5.30
24 東條英機 13.5.30-13.12.10
25 山脇正隆 13.12.10-14.10.14
26 阿南惟幾 14.10.14-16.4.10
昭和12年南京攻略の12月
『8月5日陸軍次官は、ハーグ陸戦条約の精神に準拠し、とし交戦規定の一部(害敵手段の選用)は努めて尊重と言いつつ、別の箇所で、これを厳密遵守とまでしなくてよいこととし、捕虜という名称もなるべく使わないと現地軍に通知した。その結果、現場の将校までが「軍の規律を求めた松井石根軍司令官の通達」を無視した行動を行った。』とWikiにある。
上海事変で約1万人南京攻略で約1600人の戦死者を出している。単なる伝達系統の食い違いが、前線兵士の心理状態に少なからず影響を与えた。
南京大虐殺の虚構が創り上げられ、米国の意のままに支那大陸深く引き摺り込まれ、日米開戦に至ったのかは南京を知ることによって明確に理解出来る。
【梅津美治郎】は陸軍士官学校・陸軍大学をトップで卒業したいわゆる「恩賜の軍刀組」と云われるエリート中のエリートであり、陸軍次官時代に行った軍部大臣現役武官制や陸軍の政治的進出強化は、梅津の措業であると言われている。
昭和12年7月7日、盧溝橋事件により支那事変勃発。同年7月29日通州事件、8月9日大山事件(上海)が発生。同年8月13日第二次上海事変が勃発すると、予備役の【松井石根】に8月14日陸軍次官から呼び出しがかかった。
8月20日上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて、20万の中国軍の待つ上海に向けて出港した。
参謀本部は戦闘を上海とその周辺地域だけに限定していたが、松井は2個師団ではなく5個師団で一気に蒋介石軍を叩き潰し、早く和平に持ち込むべきだと考えていた。(陸軍内部では統制派を中心に「中国一撃論」が盛んに説かれる)
8月23日上海派遣軍は上陸を開始したが、上陸作戦は難渋をきわめた。
11月5日、【柳川平助中将】率いる第10軍は杭州湾上陸作戦を敢行、これを成功させて、状況は日本軍に有利になってきた。
しかし、第10軍は松井の指揮系統下にはなかった。11月12日上海は陥落したが、日本軍の死者は1万人近くに及んだ。
松井は南京攻略を12月中旬頃と想定して兵を休息させていた。
松井はトラウトマン工作を知っていてその成果を見るために、待機していたのではないかという見方もある。ところが、11月19日第10軍は独断で(松井の指揮権を無視して)「南京攻略戦」を開始した。
松井は制止しようとしたが間に合わず、第10軍の暴走を追認した。11月28日、参謀本部はついに南京攻略命令を発した。
12月7日、松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示した(蒋介石はこの日の内に南京を脱出)。
12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まった。
13日、南京陥落。
17日、松井、南京入城。
このとき、松井は一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。
翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。
松井は
「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」
「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」
「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。
松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めた(上海派遣軍参謀副長の上村利道の陣中日記より)。
後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している。
一方、トラウトマン工作は成功しつつあったが、南京占領後に蒋介石はトラウトマンの提案を拒否したため、工作は頓挫した。
しかし、松井はこの時期に蒋介石が信頼していた宋子文を通じて、独自の和平交渉を進めようとしていた。
だが、昭和13年(1938年)1月16日近衛文麿首相の「蒋介石を対手とせず」宣言(近衛声明)ですべては終わった。松井は軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった。
【トラウトマン和平工作】
日本のソ連牽制を望むドイツとの支那和平工作
首相の近衛文麿、外相の広田弘毅、陸相の杉山元、海相の米内光政であり、和平工作打ち切りの当事者である。
【南京の歴史】
南京は清朝時代には天京(太平天国)と呼ばれており、江戸幕府は、清朝の動乱や欧米列強のアジアでのあり方に深い関心を寄せていた。薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作らの藩士の日記には太平天国について「惟邪教を以て愚民を惑溺し」、「乱暴狼藉をなすのみ」とある。つまりキリスト教が深く浸透し、暴徒化していた。
南京は事実上傀儡都市であり、辛亥革命により中華民国が成立すると、明治45年には一時的に臨時政府が置かれた。この様な過程で英米やドイツの武器市場になっていたことは周知の事実である。
23 梅津美治郎 11.3.23-13.5.30
24 東條英機 13.5.30-13.12.10
25 山脇正隆 13.12.10-14.10.14
26 阿南惟幾 14.10.14-16.4.10
昭和12年南京攻略の12月
『8月5日陸軍次官は、ハーグ陸戦条約の精神に準拠し、とし交戦規定の一部(害敵手段の選用)は努めて尊重と言いつつ、別の箇所で、これを厳密遵守とまでしなくてよいこととし、捕虜という名称もなるべく使わないと現地軍に通知した。その結果、現場の将校までが「軍の規律を求めた松井石根軍司令官の通達」を無視した行動を行った。』とWikiにある。
上海事変で約1万人南京攻略で約1600人の戦死者を出している。単なる伝達系統の食い違いが、前線兵士の心理状態に少なからず影響を与えた。
南京大虐殺の虚構が創り上げられ、米国の意のままに支那大陸深く引き摺り込まれ、日米開戦に至ったのかは南京を知ることによって明確に理解出来る。
【梅津美治郎】は陸軍士官学校・陸軍大学をトップで卒業したいわゆる「恩賜の軍刀組」と云われるエリート中のエリートであり、陸軍次官時代に行った軍部大臣現役武官制や陸軍の政治的進出強化は、梅津の措業であると言われている。
昭和12年7月7日、盧溝橋事件により支那事変勃発。同年7月29日通州事件、8月9日大山事件(上海)が発生。同年8月13日第二次上海事変が勃発すると、予備役の【松井石根】に8月14日陸軍次官から呼び出しがかかった。
8月20日上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて、20万の中国軍の待つ上海に向けて出港した。
参謀本部は戦闘を上海とその周辺地域だけに限定していたが、松井は2個師団ではなく5個師団で一気に蒋介石軍を叩き潰し、早く和平に持ち込むべきだと考えていた。(陸軍内部では統制派を中心に「中国一撃論」が盛んに説かれる)
8月23日上海派遣軍は上陸を開始したが、上陸作戦は難渋をきわめた。
11月5日、【柳川平助中将】率いる第10軍は杭州湾上陸作戦を敢行、これを成功させて、状況は日本軍に有利になってきた。
しかし、第10軍は松井の指揮系統下にはなかった。11月12日上海は陥落したが、日本軍の死者は1万人近くに及んだ。
松井は南京攻略を12月中旬頃と想定して兵を休息させていた。
松井はトラウトマン工作を知っていてその成果を見るために、待機していたのではないかという見方もある。ところが、11月19日第10軍は独断で(松井の指揮権を無視して)「南京攻略戦」を開始した。
松井は制止しようとしたが間に合わず、第10軍の暴走を追認した。11月28日、参謀本部はついに南京攻略命令を発した。
12月7日、松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示した(蒋介石はこの日の内に南京を脱出)。
12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まった。
13日、南京陥落。
17日、松井、南京入城。
このとき、松井は一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。
翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。
松井は
「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」
「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」
「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。
松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めた(上海派遣軍参謀副長の上村利道の陣中日記より)。
後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している。
一方、トラウトマン工作は成功しつつあったが、南京占領後に蒋介石はトラウトマンの提案を拒否したため、工作は頓挫した。
しかし、松井はこの時期に蒋介石が信頼していた宋子文を通じて、独自の和平交渉を進めようとしていた。
だが、昭和13年(1938年)1月16日近衛文麿首相の「蒋介石を対手とせず」宣言(近衛声明)ですべては終わった。松井は軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった。
【トラウトマン和平工作】
日本のソ連牽制を望むドイツとの支那和平工作
首相の近衛文麿、外相の広田弘毅、陸相の杉山元、海相の米内光政であり、和平工作打ち切りの当事者である。
【南京の歴史】
南京は清朝時代には天京(太平天国)と呼ばれており、江戸幕府は、清朝の動乱や欧米列強のアジアでのあり方に深い関心を寄せていた。薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作らの藩士の日記には太平天国について「惟邪教を以て愚民を惑溺し」、「乱暴狼藉をなすのみ」とある。つまりキリスト教が深く浸透し、暴徒化していた。
南京は事実上傀儡都市であり、辛亥革命により中華民国が成立すると、明治45年には一時的に臨時政府が置かれた。この様な過程で英米やドイツの武器市場になっていたことは周知の事実である。