天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

天皇陛下フィリピン慰霊の御言葉と新聞報道

2016-02-21 14:51:29 | 時事

1月26日、天皇皇后両陛下が日本との国交正常化60周年を記念した友好親善のため、フィリピンを訪問されました。

両陛下の願いが叶うのは大変喜ばしいことですが、日本を発たれ、到着されたマニラの最高気温は30℃です。寒暖差に加え、やはり飛行機での長距離移動のお体へのご負担は計り知れません。

マスコミは陛下の強い御意志であると散々強調してきましたが、ペリリューの翌年とタイト過ぎるスケジュールは何者かの強い意志の疑念を抱いてしまうのです。

天皇陛下のご出発前の御言葉の全文とフィリピンでの晩餐会でのご挨拶の全文にコメントを付けて報道しています。


【朝日新聞】
天皇、皇后両陛下は26日午前、羽田発の政府専用機でフィリピンに向かった。国交正常化60周年にあたり親善行事に臨むほか、太平洋戦争の激戦地への慰霊の旅ともなる。
 フィリピンは日米両軍の戦場となり、日本側の犠牲者は約51万8千人。多くのフィリピン住民も巻き込まれて亡くなり、両陛下が現地での慰霊を望んできた。戦後50年の沖縄、長崎、広島に続き、60年のサイパン、70年はパラオ。国内外で戦争の犠牲者に心を寄せ続けてきた両陛下の慰霊の旅は、節目を過ぎてもなお続く。
 天皇陛下は出発に先立ち、皇太子さま、秋篠宮さま、安倍晋三首相らを前に「フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました」と述べ、「私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪を果たしていきたいと思っています」と語った。

【産経新聞】《両陛下ご訪比》天皇陛下のお言葉 ご出発にあたり - 産経ニュースより

天皇、皇后両陛下はフィリピン訪問を前に、羽田空港で見送り行事に臨まれた。天皇陛下は皇太子さまをはじめ皇族方、安倍晋三首相らに、先の大戦において同国内で多くの犠牲者が出たことに触れ「このことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたい」と述べられた。お言葉の全文は以下の通り。



【出発前の御言葉】全文

『この度、フィリピン国大統領閣下からの御招待により、皇后と共に、同国を訪問いたします。

 私どもは、ガルシア大統領が国賓として日本を御訪問になったことに対する答訪として、昭和三十七年、昭和天皇の名代として、フィリピンを訪問いたしました。それから五十四年、日・フィリピン国交正常化六十周年に当たり、皇后と共に再び同国を訪れることをうれしく、感慨深く思っております。

 フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています。

 旅の終わりには、ルソン島東部のカリラヤの地で、フィリピン各地で戦没した“私どもの同胞"の霊を弔う碑に詣でます。

 この度の訪問が、両国の相互理解と友好関係の更なる増進に資するよう深く願っております。

 終わりに内閣総理大臣始め、この訪問に心を寄せられた多くの人々に深く感謝いたします。』



【朝日新聞】天皇陛下「日本人が決して忘れてはならない」 フィリピン人戦没者に祈り - ハフィントンポスト

両陛下、無名戦士の墓で2分間拝礼 フィリピン側の慰霊

フィリピンを訪問中の天皇、皇后両陛下は27日、先の大戦で亡くなった現地の人たちをまつる「無名戦士の墓」を訪れた。かねて現地での慰霊を望んでいた両陛下にとって、念願かなった訪問。碑に向かい、2分近くにわたり頭を下げた。

フィリピンは太平洋戦争で日米の戦場となり、111万人とも言われるフィリピン人が犠牲になった。天皇陛下は皇太子時代の1962年に初めて訪れた際、訪問前に夜を徹してフィリピンの歴史を学び、現地で犠牲者の遺族と交流した経験がある。

「先の大戦においては、日米間の熾烈(しれつ)な戦闘が貴国の国内で行われ、この戦いにより、多くの貴国民の命が失われました」。昨年6月、来日したアキノ大統領を迎えた晩餐(ばんさん)会で、天皇陛下はそう言及し、「私ども日本人が深い痛恨の心と共に、長く忘れてはならないこと」と語った。54年前の訪問から心を寄せ続けた思いを口にした場面だった。

宮内庁幹部によると、今回の訪問が決まった際、フィリピン側戦没者の慰霊を日程に加えるよう希望したのは両陛下だったという。こうした意向を踏まえ、日本側の慰霊碑を訪れる前に、無名戦士の墓での拝礼が設定された。

【産経新聞】
 フィリピンを公式訪問中の天皇、皇后両陛下は27日夜、マニラ市のマラカニアン宮殿(大統領府)で開かれた晩餐(ばんさん)会に臨まれた。アキノ大統領のあいさつに続き、天皇陛下は先の大戦中に同国民の多くが戦禍に巻き込まれたことを「決して忘れてはならない」とした上で、「このことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます」と述べられた。

両陛下は滞在中、大統領主催の晩餐(ばんさん)会に臨席するなど両国の友好親善に励み、先の大戦で110万人の犠牲が出たとされる同国の「無名戦士の墓」と51万8000人が亡くなった日本の「比島戦没者の碑」に供花し、両国の犠牲者を等しく慰霊された。

陛下のお言葉の全文は以下の通り。


【晩餐会陛下ご挨拶】全文
『貴国と我が国との国交正常化60周年に当たり、大統領閣下の御招待によりここフィリピンの地を再び踏みますことは、皇后と私にとり、深い喜びと感慨を覚えるものであります。今夕は私どものために晩餐会を催され、大統領閣下から丁重な歓迎の言葉をいただき、心より感謝いたします。
 私どもが初めて貴国を訪問いたしましたのは、1958年12月、ガルシア大統領御夫妻が国賓として我が国を御訪問になったことに対する、昭和天皇の名代としての答訪であり、今から54年前のことであります。1962年11月、マニラ空港に着陸した飛行機の機側に立ち、温顔で迎えて下さったマカパガル大統領御夫妻を始め、多くの貴国民から温かく迎えられたことは、私どもの心に今も深く残っております。この時、カヴィテにアギナルド将軍御夫妻をお訪ねし、将軍が1898年、フィリピンの独立を宣言されたバルコニーに将軍御夫妻と共に立ったことも、私どもの忘れ得ぬ思い出であります。
 貴国と我が国の人々の間には、16世紀中頃から交易を通じて交流が行われ、マニラには日本町もつくられました。しかし17世紀に入り、時の日本の政治を行っていた徳川幕府が鎖国令を出し、日本人の外国への渡航と、外国人の日本への入国を禁じたことから、両国の人々の交流はなくなりました。その後再び交流が行われるようになったのは、19世紀半ば、我が国が鎖国政策を改め、諸外国との間に国交を開くことになってからのことです。
 当時貴国はスペインの支配下に置かれていましたが、その支配から脱するため、人々は身にかかる危険をも顧みず、独立を目指して活動していました。ホセ・リサールがその一人であり、武力でなく、文筆により独立への機運を盛り上げた人でありました。若き日に彼は日本に1カ月半滞在し、日本への理解を培い、来たる将来、両国が様々な交流や関係を持つであろうと書き残しています。リサールは、フィリピンの国民的英雄であるとともに、日比両国の友好関係の先駆けとなった人物でもありました。
 昨年私どもは、先の大戦が終わって70年の年を迎えました。この戦争においては、貴国の国内において日米両国間の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます。
 貴国は今、閣下の英邁(えいまい)な御指導のもと、アジアの重要な核を成す一国として、堅実な発展を続けています。過ぐる年の初夏、閣下を国賓として我が国にお迎えできたことは、今も皇后と私の、うれしく楽しい思い出になっています。
 この度の私どもの訪問が、両国国民の相互理解と友好の絆を一層強めることに資することを深く願い、ここに大統領閣下並びに御姉上の御健勝と、フィリピン国民の幸せを祈り、杯を挙げたいと思います。』


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如何でしょうか。
二つの御言葉に関しては後で述べるとして、産経新聞はあくまで淡々と事実を述べ、戦死者数にも触れ、フィリピン、米軍、日本軍を等しく慰霊されたことで締めています。

かたや朝日新聞はフィリピン人の痛ましい犠牲者
の慰霊が主であるかのような論調で、陛下のお言葉を引用して「日本人が決してわすれてはならない」と殊更日本軍は悪玉を強調しているようにも感じます。

戦死者数ですが日本軍の51万8千人とフィリピン人111万人との比較で書かれています。

日本軍は真珠湾の開戦の一月後にフィリピンのマニラを占領し、その4ヶ月後には米極東陸軍を降伏させます。

その死者数/戦力は日本軍(5千人/4万3千)
米、比軍(2万5千人/米3万3千人、比12万人)

1944~45年の米軍による奪還作戦の被害は

日本軍(34万人/40万人)
米、比軍(米2万4千人、比不明/米125万人比26万人)


合計すると日本軍の戦没者34万5千人

米軍の戦没者5万人、フィリピン不明です。

111万人が軍人、民間を合わせた数なのか、民間人だけであるのかすら不明なのです。

フィリピンの戦いでマニラの大虐殺と呼ばれる当時70万人の市民のうちの約10万人の死亡の9割が米軍の無差別爆撃と艦砲射撃によるものであることが判明しています。

*コモンウェルス戦争墓地委員会によるデータではフィリピンの軍人死者数は5万7千人、民間人死者数50万人~100万人とあります。

つまり、マニラの軍事裁判で無罪と考える山下大将が敗戦の将兵を語らずで米国に潔甚の謝意さえ表して刑に服しました。

日本も東京裁判に於いて米国の評価のままに戦死者数を受け入れているのです。

戦時徴用船の撃沈で輸送中の軍人30万人のうち何割かが入っての51万人であるのかわかりませんが

天皇陛下のお言葉の中にも「多くの」とされ三国等しく慰霊のお気持ちであることに意味があるのだと思います。

ですから朝日の東京裁判史観寄りの書き方には少なからず抵抗を感じてしまうのです。

下のような写真をネットで見つけましたので貼っておきます。





【フィリピン・ラグナ 花鳥風月:フィリピン戦没者慰霊祭に行って 情けなくなった】より無断掲載






平成20年位までは存在していた日本の慰霊碑が景観保護の為に撤去されているのです。
この中で花鳥風月さんも書いておられましたが忘れられていくことで英霊は二度死んでおられるとまさに仰る通り情け無い気持ちになります。


こんな新聞の偏向した論調や慰霊碑の現状に哀しく情け無い気持を晴らしていただいたのは他でもなく天皇陛下のお言葉でありました。

それはご出発前のご挨拶の

『旅の終わりには、ルソン島東部のカリラヤの地で、フィリピン各地で戦没した“私どもの同胞"の霊を弔う碑に詣でます』の部分です。

"私ども"とは天皇皇后両陛下です。その"同胞"とは大御宝であると仰られたことに国民としてえも言われぬ幸福感を感じたのです。