共同幻想という言葉を久しぶりに思い起こしました
国による共同幻想という最たる状況
吉本隆明は、共同幻想は自己幻想に必ず逆立すると主張する。個人を守るための共同体が、個人を束縛し、弾劾するのである。
個人に対する社会的ルールの強制などがそれである。逆立性が極限まで高まると、国家が戦争などで個人に死を強制し、それを殉教である、英霊であると賛美するなどという状況も起こる。
「逆立」とは吉本の造語であるが、吉本はこれに対して明確な定義を行っていない。文脈によって、対立や抑圧という意味合いであったり、単純に質的な差異があるという意味であったり、よそよそしいとか冷淡、欠如、虚偽というような意味合いもあり、多義的である。逆立が成立する過程で、共同幻想と自己幻想の関係性には段階的な変化もあるらしい。
吉本は、常に共同幻想は自己幻想に勝利すると主張している。
個人がいくら努力しても変えられない巨大なマクロ的な力(時代の流れや歴史の流れ)が存在するという、ある種の諦観と解釈できるかもしれない。太平洋戦争に敗北し、革命にも挫折した吉本の個人的体験が大きく影響しているかもしれない。どんな野心的な独裁者であれ、どんな優秀な革命家であれ、世界を意のままに操ることは不可能なのである。
吉本にとっては、自己幻想が共同幻想を完全にコントロールするという発想そのものが、そもそもカテゴリー錯誤なのである。これらはそれぞれ別々の運動法則で動いているのだから。
逆にどれだけ共同幻想が強制させても、自己幻想を完全にコントロールすることはできないのである。 個人の心の中には、自然法則も超越する絶対的自由がある。他人に話せば、妄想と笑うかもしれないが、詩や芸術がそうである。
吉本は、自分の幻想論は、ドイツの思想家であるカール・マルクスの初期の自然哲学の疎外論に多大な影響を受けたと主張している。
(ただし、吉本のマルクス解釈は興味深いが、かなりオリジナル性の高いものである。吉本はマルクスを幻想論者と見て、唯物論者というレッテルから救済しようとしている。吉本はレーニン的なロシア・マルクス主義者を嫌い、彼らの唯物論をタダモノ論と批判しているが、マルクス個人には世界一の思想家だと賛美を惜しんでいない)
吉本は有機体を原生的疎外と呼び、生命そのものが自然物からの疎外であり、微小ながら幻想性を有していると考えている。
自然からの疎外そのものが、幻想性なのである。
吉本隆明氏の世界観は
相反するものからの疎外
疎外とは害するものというイメージを産みます
口伝を記録にした古事記では存在が産まれる過程を
天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、アメヌミナカヌシノカミ、次にタカミムスビノカミ、次にカミムスビノカミ。
此の三柱の神は、皆独神に成り坐して身を隠したまひき
天地に産まれるものは、中心になるものと
タカミムスビ
カミムスビ
二つのムスビ(結び)より産まれる
疎外は幻想を産み
天地のムスビ(結び)は命を産む
そう語りかけているような気がします。
今の国の状況を見て
いにしへの感性の価値を気付く(築く)時
生命そのものが自然物からの疎外と考えるより
天の川に離反した命を結ぶと考えるほうが幸あるように思えます
疎外と言うものは全て平等と言う所にも
生まれて一見はいいイメージですが
人を閉じ込め頑なにするような気がします。
自由もはき違えると
周囲に迷惑をかける事になりやはりまずは
自分と宇宙の繋がりでしょうか。
自由、平等、権利が掲げられたのは、神秘が見失われた時代からではないでしょうか?
いにしへの神殿やジグラッド、環状列石に自由や平等権利を求めたでしょうか?
個人的には権利を主張する人は、その合理性を取り違えると不合理を見せてくださっているように思えます。ダールマの視点を失うとカルマになるような。
権利を主張する時代は、誰かが権力において歪みをあたえるようになった時代からではないでしょうか。
自分と宇宙の繋がりは、ちょうど太陽と地球の北極の変化、北極星は霊性が向かう方角などを色々つなぎ合わせていたところです。