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オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造された。設計はメフメト・アー。『世界で最も美しいモスク』と評される。
青い装飾タイルやステンドグラスで彩られ、白地に青の色調の美しさからブルーモスクとも呼ばれる。
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イスラム芸術は、ラピスラズリーとトルコブルーの眼に見えぬ世界へのいざない
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1299年に建国、15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした
(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブルと通称されるようになる)。
17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。
アナトリア西北部ビレジクにあらわれたトルコ人の遊牧部族長オスマン1世が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。
アナトリアは、小アジアをさす古代地方名で,ギリシア語 (「日の出」の意) に由来する。
アナトリア半島は先史時代からいくつかの文明の発祥地となり、
新石器時代の神殿遺跡と言われるギョベクリ・テペや、人類最古の定住遺跡と言われるチャタル・ヒュユクなどの、数多くの遺跡が発見されている。
東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国は、神聖ローマ帝国のカール5世が持つカトリックによる西欧の統一の夢を挫折させ、プロテスタントの求める、宗教改革へも影響を与えた。
1500年頃からのポルトガル、スペインのヨーロッパ大航海時代が訪れたのは、オスマン帝国による陸路の封鎖があった。
1622年には近代化したペルシア軍が、ポルトガル・スペインの商人をペルシア湾から追放した。
オスマン帝国は、ポルトガル・スペインに勝利することで第一次世界大戦まで植民地化されなかった。
オスマン帝国の人々の宗教
オスマン帝国が最大版図となった時、その支配下は自然的地理環境や生態的環境においても多様なものを含んでおり、さらに歴史的過去と文化的伝統も多様なものが存在した。
オスマン帝国南部であるアラブ圏ではムスリムが大部分であり、また、その宗教はオスマン帝国の支配イデオロギーであるスンナ派が中心を成していたが、イラク南部ではシーア派が多数存在しており、また、現在のレバノンに当たる地域にはドールーズ派が多数、存在していた。しかし、これだけにとどまらず、エジプトのコプト教徒、レバノン周辺のマロン派、シリア北部からイラク北部にはネストリウス派が少数、東方キリスト教諸宗派、正教徒、アルメニア教会派、カトリック、ユダヤ教徒などもこのアラブ圏で生活を営んでいた。
イスラムの伝統様式を発展させ、オスマン建築と呼ばれる独特の様式を生み出した。モスクなどに現存する優れた作品が多く、17世紀に立てられたスルタンアフメット・モスク(ブルーモスク)がもっとも有名である。建築家はイスタンブルのスレイマニエ・モスクやエディルネのセリミエ・モスクを建てた16世紀前半のミマール・スィナンが代表的であるが、アルメニア人の建築家も数多く活躍した。
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それまでのイスラム建築よりも、論理性や幾何学的秩序を重んじる傾向が認められ、西ヨーロッパの建築にも見られない独自の空間を形成した。
また、末期に至るまで、東ローマ帝国のカトリック大聖堂であったアヤソフィアを例外として、他の建築様式からの影響をほとんど受けなかった。
アヤソフィアは破壊されずにオスマン建築に改装されています。
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ミッレト制とイスラム教以外への宗教政策
オスマン帝国は勢力を拡大すると共にイスラム教徒以外の人々をも支配することになった。その為の制度がミッレト制であり、サーサーン朝ペルシアなどで用いられていたものを採用した。この対象になったのはユダヤ教徒、アルメニア教会派、ギリシャ正教徒らであった。また、成立時より東ローマ帝国と接してきたオスマン帝国は教会をモスクに転用した例こそあれども、東ローマ帝国臣民を強制的にムスリム化させたという証拠は見られず、むしろ、15世紀初頭以来残されている資料から東ローマ帝国臣民をそのまま支配下に組み込んだことが知られている。
このミッレトに所属した人々は人頭税(ジズヤ)の貢納義務はあったが、各自ミッレトの長、ミッレト・バシュを中心に固有の宗教、法、生活習慣を保つことが許され、自治権が与えられた
このミッレト制は過去に語られた「オスマン帝国による圧政」を意味するのではなく、「オスマンの平和」いわゆる「パックス・オトマニカ」という面があったということを意味しており、20世紀以降、激化している中東・バルカンにおける熾烈な民族紛争、宗教紛争もオスマン帝国支配下の時代、平穏な時代であった。
このような「バックス・ロマーナ」にちなむオスマン帝国による支配を肯定的にとる見解は、オスマン帝国から独立した諸地域では支持されておらず、たとえばギリシャ正教会ではフィロセイやグリゴリオス5世のように、オスマン帝国支配下での苦難を受けた聖人が特に記憶されている。
現在の中東の状況からすると平和な時代
第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国の滅亡とイギリスの裏表外交が、紛争の原因をもたらす
1900 年ごろ・・・ 中東地域に大きな発見が訪れます。
「石油」
この石油によって、ただの砂漠だったアラビア半島は大きく変わってしまう
オスマン帝国打倒への協力の見返りにアラブ人の国家建設への協力を約束したイギリス、しかし約束は守られなかった。
フサイン・マクマホン協定
1915年、メッカの太守であるフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でやりとりされた書簡の中で、イギリスは第一次大戦における対トルコ戦協力(アラブ反乱)を条件にアラブ全域をまたぐ大きなアラブ人居住地・統一国家の独立支持を約束しました。
これが、遂に守られることのなかったフサイン・マクマホン協定。
イギリスは、アラブ人との約束をしながら、中東をフランス・ロシアと3分割する秘密協定を結んでいた。
サイクス・ピコ協定
第一次対戦後イギリスとフランスは「サイクス・ピコ協定」により中東地域を分割する約束をします。主に植民地支配権と、資源利権の分配を意図していました。
サイクスとピコは、それぞれ青と赤のペンで自分たちの領域を分け、パレスチナを別の色にしたと言われています。
さらにイギリスは、ユダヤ人に対して、イスラム教の聖地のあるパレスチナへのユダヤ人国家建設を約束していた。
バルフォア宣言
1917年、イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアが、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーである第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で表明されました。
バルフォア宣言では、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を示し、その支援を約束しています。結果的に、中東に存在しなかったユダヤ人国家イスラエルの建国を認めた宣言となりました。
第二次大戦後、処理できなくなったイギリスは国連に問題を丸投げし、1947年に国連でパレスチナをユダヤ国家、アラブ国家、国連関連管理地区の3つに分ける分割案が採択されました。
その後、欧米は、人間の悪意を利用しはじめます。
この土地では、新参者のユダヤ人と、もともと住んでいたはずのパレスチナ人、そして人為的に分割されたクルド人が居ました。
列強は、武器を与えることで容易にテロリストを作り出せる土壌を作り上げました。彼らに武器を与えることで、容易に国家転覆を謀ることができます。
いつでも、資本によって自分たちに都合の良い政府に置き換える土壌を作ったのです。
マックス・ウェーバーは、伝統的支配の一形態である家産制について説明する際に、
家産制を支配者の支配を正当化する伝統的権威と支配者自らが支配する家産官僚や軍隊の力を利用した恣意的行動とのせめぎ合いの上にあるとしたが、
その中で支配者が伝統的権威の拘束から脱して唯一人が恣意的行動のままに国家を統治する体制が確立している様をイスラム世界のスルタンに擬えてスルタン制と命名した。
アニミズムが原始社会の宗教としてキリスト教でない世界を隷属していったことと同じように
西欧化が正義という概念に対し、先祖を敬う、自然を敬うという概念から見直したらどうなるのだろう
ムスリム「神に帰依する」智慧に敬意を払ったオスマン帝国
最高権威たる「イスラムの長老」 シェイヒュルイスラーム
シェイヒュルイスラームとは、イスラム教に関して最大の知識と能力を持つ人物を指す。
1424年から1922年の間、131人のシェイヒュルイスラームが計175回この職に任命された。
131人のシェイヒュルイスラームのうち僅か9人だけがトルコ系民族ではなかった(アラブ人、ボスニア人、グルジア人、チェルケス人、アルバニア人であった)。 シェイヒュルイスラームの中には優れた学者、作家、詩人、書道家、作曲家、法学者がいた。 シェイヒュルイスラームの残した多くのファトワーの収集により、イスラム法学とオスマン法律史両方の観点から、貴重な資料が残されている。
オスマン帝国時代、大宰相となるために教育は求められなかったが、シェイヒュルイスラームとなるためにはこの第一段階であるカーディー、ムフティー、マドラサに加え、マドラサの最高位を修了しておくことが必要であった。 このことは、オスマン帝国が、シェイヒュルイスラームへと与えられる価値を示すという点で非常に重要であった。
ほんの百年前までは、
眼に見えぬ世界を政り事の基礎とする歴史があった
アナトリア 「日の出」 の精霊は眼に見えぬなにかを囁きます
ムスリムとは神への帰依
ギョベクリ・テペとは自然の神に帰依した遺跡
シュメール以降続く覇権争いの永い歴史
失われた智慧
日の出を拝む縄文の歴史
スメラミコト( 天皇 )が祀られること
あたりまえと思っていることが奇跡的であること
素晴らしい色合いですよね。
記事も良く考えられています。
ラピスラズリ本当に不思議で
神秘体験に必ず、出てくる色です。
日本の宗教観と
イスラムは良く似ている気がします。
過激的な信仰心を持つ人たちは
ベクトルが聖戦と違ってきますが。
イスラムは
八百万の神々に近い思想を持っているのでは。
年寄りを大事にするそうで
お客様へのおもてなしも、日本に近いものが
あると言います。
服装で操作があるので
私など、イスラムのチャドを見かけると
未だに、ドキリとします。
過激な争いも、過激な天地の動きも立体的に捉えることが大切なように思います。
暮らしの視点とともに魂の研鑽の結びと受け取ることが。
イスラムと日本の感性の共通性は、古へには普遍的にあった感性が土地によって変わって行ったのかななどと思います。
アナトリアからアナナイを連想して、高い所へのぼる足場。
アナナイ教というのがあって、縄文大麻が、弥生大麻に駆逐され、今の大麻は、縄文と弥生のハイブリッドだと。
日本人も同じようなものなのだという記事を見てました。