人には好き嫌いがある。
ここでは音楽に絞るが、
好きな音楽、嫌いな音楽、さらには、
好きなアーティスト、嫌いなアーティストがあるだろう。
私は、今でこそ色々な音楽を享受し、
音楽に対する価値観もだいぶ変わったと思うが、
昔は本当に頭が固かった。
しかし、ある時を境に、それが明確に変わった瞬間があった。
それを今日は書きたい。
私は、クラシックもそうだが、ポピュラー音楽に関しては、
本当に好き嫌いが多かった。
あと、人気のあるもの、売れているものに対して、
敢えて斜めからものを見るというか、
冷めて見ようとしていたところがあった。
まあ、音楽に限らないが、
人と違う視点でモノを見たい、そんな思いがあった。
それが自分らしいものの考え方、そう思っていた。
ポピュラー音楽なら、音楽性よりも、
基本的には声重視。
声の悪い人はCDをリリースすべきでない、くらいに思っていた。
まあ、声の良し悪しというのは、あくまで僕の基準なのだが。
僕はブリリアントな声が好きというか憧れで、
分かりやすい例を挙げると、ケミストリーの堂珍の声とか。
なので、私が好きでなかった歌手は結構いっぱいいて、
例えばファンの人には申し訳ないが、
サザンオールスターズがどうしてもダメだった。
何が良いのか理解できなかったというか。。。
(ファンの人すいません。最後まで読んで下さい。。。)。
確かに、いい曲もあったが、
声重視の観点からして、桑田圭祐の声は、
僕にとって歌手の声ではなかった。
しかし、ある時、TVで流れてくるサザンの曲を聴いたとき、
今までに無い感情が僕を襲った。
そのときの曲が、「TSUNAMI」である。
この曲を聴いたときに、
「ああ、いい曲だな」と思った。
その時、
「ああ、良いものは良いんだな」
と感じたのだ。
そこに、桑田圭祐の声への嫌悪などは存在しなかった。
単純に「良い」と思ったのだ。
実際、この曲、ちゃんと分析したわけではないが、
メロディーの展開の仕方もコード進行も自然で、
うたとしてあるべき要素を全て持っていると思う。
昔は売れている曲に背を向けたりしたが、
これを聴いたときに、その考えが改まった。
今までの自分は、先入観というか、固定観念というか、
それらを通して音楽を聴いていた。
しかし、それを、「敢えて」することは、
音楽を享受するときに、非常にマイナスが出てくる。
すでに、何かを意識しているというか、
肩肘張っているわけだ。
そういう行為が、
「物事の本質を捉える」ことから
大きく外れていることに気が付いたのだ。
良いものはいい。
売れ線だからダメとか、そういうことではない。
音楽に対峙した時、なるべくまっさらな気持ちで臨み、
その音楽と対話すること、
そうして感じたことこそが、その本質に近いのではないか。
そう思った。
それから、音楽に対する価値観が大きく変わった。
自然と、色々な音楽を平等に享受できるようになったし、
そのことが、歌ったり演奏したりするときにも、
いい方面に向くようになった。
あと、物事を考えるときも、
敢えて斜めから見てやろうとかいう考えから脱し、
そこにある本質を見極めようとするようになった。
音楽の好き嫌いをつくることは、
自分の可能性を狭めることになる。もったいないのだ。
好き嫌いというのは、大抵、一つの物の見方で
他の物を見ようとするから起こる。
たくさんのものさしを持つこと。
基本的には、それぞれのものさしで測り、また、
ときどきは違うものさしで測ってみる。
まさか、嫌いだったサザンの曲から、
こんなに多くのことを学ぶ、気づくとは、
本当に不思議なものだ。
自分の価値観の大きな転換点だった。
好き嫌いもそうだけど、最近は「突然無性に聴きたくなる音楽」があります。自分の中で最近足りなかった部分を満たしてくれるような音楽が今現在好き!みたいな…。だから音楽の好き嫌いの価値基準を最近持たないです。「今は遠慮させていただきます」って感じに近いかな。
最近足りなかった部分ってなんでしょうかね?今遠慮していても、いつかまた出会いがあるかもしれないのが不思議なものですよね。