先日、機内での泣き声に対する
某者のブログが話題になっていましたが、
色々考えることがあり、タイトルのように
ちょっと書いてみたいと思います。
日本のお笑いに何故ツッコミが存在するのか、
ということを考えていくと、
日本社会というものの特徴が見えてくる、
というのがこの記事の総論です。
ボケに対して誰かが突っ込む、というスタイルは、
日本のお笑いに特徴的だと思います。
これ、つまり、
日本のお笑いを受け取る側がそれを望んでいるから、
という見方ができます。
どういうことか。
「ボケ」について考えてみます。
「ボケ」というのは、
ちょっとおかしいこと、外れたことを
することですね。
おかしいというのは、
共有されている一般的な常識から
敢えて逸れたことをして笑いを取るわけですね。
で、ツッコミというのは、
これを訂正する、修正する役割を担う。
これが一セットとして成り立っています。
余談としてボケについて触れておくと、
「敢えて」するというのがポイントで、
どういうところで笑いが生じるか、というのを
お笑いの人は厳密に見分けて喋ったり
ネタを作ったりします。
つまり逆に言えば、常識とかが分かっていないと
敢えて出来ない訳ですね、計算して。
つまりお笑いの人はかなりの常識人、
でないと務まらない、ということです。
それ以外のことは常識的でなくても(笑)。
戻しますが、
ボケっぱなしだと、その場がおかしくなります。
そういうのは、日常生活でも
皆さん経験したことがあると思います。
ここに大きなポイントがあります。
おかしなことをしたままの状態を放置出来ない、というのが、
日本社会の本質的な構造なのではないか、
というのがこの文章の結論です。
ツッコミが訂正することによって、
その場が丸く収まる、という形は、
よく考えてみると、
間違ったことをそのままにしない、
ということに他なりません。
ピン芸人の人も、全体として
誰かが必ず突っ込んでその場が収まる、
というのが日本のお笑いの形で、
何かをしたことに対して笑いっぱなしで終わらない、
ということが大きな特徴になります。
これを日本人が好んでいる、ということです。
これを、別のことに当てはめてみます。
子供が泣いている状態を、
今回の人のようではなく、
「仕方ない」「当たり前」と捉える人も
かなり多いと思います。
しかし、これにはある条件がつきます。
「親が泣き止ませようとしている」
「親が申し訳無さそうにしている」
これが無いと、先ほど許容していた人でも
多くの人が非常に怒る、
というか、ここに怒りのポイントが存在する、
と言っても過言じゃないと思います。
お分かりの方もいるかと思いますが、
これ、つまり、ボケとツッコミなんですよね。
子供が日常空間で大きな声で泣く、騒ぐ、
というのは言わば「計算していないボケ」です。
子供がそうすると、
その場がちょっと違う空間になりますよね。
日常の中で普段とちょっと違うことをしている、
という訳です。
で、親が泣き止ませようと頑張る、
その場から連れて居なくなる、
申し訳無さそうにする、
というのがツッコミです。
その場を正常に戻すための作業です。
簡単に言ってしまえば
大きい子なら躾の類いですが、
小さい子だとしても、
親がこれをしないことに対して
日本人は大きな嫌悪を抱きます。
子供ではなく親が大きく責められます。
つまり、人々は、
違和感とか日常と違うこと自体を
受け入れているのではなく、
親によるそのツッコミの作業があって、
初めてその場を受け入れている、
ということになります。
これは、当たり前のように見えて、
非常に大きなポイントだと思います。
まず、
「日常」というものの共有、
まずそこに大きな制限が存在している、
ということです。
子供やお年寄りなどの弱者とか、
身体、精神、知的の障がい者、
外国の方、など、
その狭い「日常」という空間を
違和感に変える存在を日本人は大きく嫌います。
つまり、
日本におけるその違和感
(誤解無きように例えるとつまりボケ)というのは、
彼ら自身が申し訳無さそうにしたり、
日本人が共有している「日常」に
近づくための努力(つまりツッコミです)
をしていないと、
それがどういう人であれ排除や無視の対象になる、
という社会だということです。
日本人がボケ”そのもの”を許容していない、
ということですね。
一見してそれを許容しているように見えて、
無条件に受け入れている訳ではない、
むしろ厳しい条件を付けている、ということです。
昔から、
異形の人やそういった障がい者は、
特殊な仕事にしか付けなかったり、
特殊な場所にしか住めなかったり、
座敷牢に閉じ込められたりして、
人の目(日常)に触れないようにされました。
つまり、
そうした人や物事が日常に存在しないように
してきたのが日本の歴史で、
それが今の政策とかにも繋がっていると思います。
これはざっくり言えば、
単一の民族であることも理由でしょうし、
元々の特性もあるのかもしれません。
国にもよると思いますが、
人種や障がい者ほか色々な人が
当たり前のように混在して社会の中に存在する、
つまり、それ自体を日常として
受け入れているのとは違い、
日本人は受容、許容しているように見えて、
実はそうではない、ということだと思います。
だから、
日本人の日常の中で人並み外れた天才とかが
人と違う感覚を持つ人が、
その場にすんなり存在出来ない、
先ほど書いた人たちとか、
日常生活にボケという「違和感」を生じさせる存在に、
日本社会は極めて不寛容、
共有する日常に溶けようとする
ツッコミという名の「努力」を必ず課している、
と言う意味で、
そういう存在の人が極めて生きづらい国、
だと言えると思います。
問題なのは、
子供の親になれば、
誰もがそういう存在になるにも関わらず、
極めて厳しくツッコミと言う作業を要求するので、
色々な場所に行ってはいけないのではないか、
迷惑をかけてはいけないのではないか、
というツッコミという「自制」をかけることで、
親たちのストレスや生きづらさが生じていることです。
書いてきたように、
親だけでなく色々な人たちにとってもですね。
ボケとツッコミという「予定調和」の中に
収まらない形が、
TVの中だけでなく日常生活でも好まれず、
そしてネットをはじめとした、
「一億総ツッコミ社会」
(こういう本がある。読んでないですが、
ラジオで内容を聞いて共感しました。
それを書いている人はお笑い芸人、という。。。 )。
何かおかしなことをした人に対して、
全ての人がツッコミをしてそれを正そうとする、
という社会です。
極みに来てしまった、ということですね。
長くなりましたが、
お笑いのスタイルの中に、
日本の社会の縮図が見えるのでは、
という考察でした。