社会断想

諸々の社会現象にもの申す
中高年者・定年退職者向け

ハルとナツと私

2005年10月08日 08時42分38秒 | 我が想い出シリーズ
ハルとナツと私
NHKの放送80周年記念の五夜連続テレビ番組「ハルとナツ」を見た。
一家挙げてのブラジル移民の筈が、ナツのトラホームのためにナツだけ残されることになる。ブリッジでハルにしがみつくナツが 強引に引き剥がされるシーンには涙がこぼれた。ブラジルに渡るハル一家と残されるナツのこれからの過酷な運命を暗示するシーンであり、事実物語はそのように展開する。
見ていてふと気がついた事がある。それは私自身も似たようなといったら烏滸がましいが
同時代背景でチョット似たような経験をさせられたのだ。
物語の時代は70年前の昭和9年から始まるのだが、この時代は日本は大変な不景気でブラジル移民も食えない農民の救済策の建前であったが、事実は棄民策でもあったのだ。
当時4才であった私にとっても実は人ごとではなかったのだ。勿論4才の幼児が経済情勢も家計の事も知ることではなかった。
私は何時の間にやら今の韓国の麗水?(うろ覚え)の伯母の家にいた。
伯母と私の両親との間にどんな遣り取りがあったのかわからないが、多分こんな事ではなかったろうかと思う、今にして思えば。
父は駅前に店を新築した。店といっても田舎の駅前によくある土産物屋と軽食堂を兼ねたものであるが、少し違うのは遠洋漁業の小さな漁港を控えていたので、二階を船頭さん達を相手の料亭にしていた。
折からの不景気で父母はやりくりが大変であっただろう。
伯母に子供がなく、末っ子で4才の私を養子にくれれば資金援助するという話になったのだろう。伯母夫婦は麗水?駅前で運送店を営んでいた。今思うとちやほやと可愛がられ、随分贅沢をさせてくれたところをみると金回りもよかったのだろう。
私自身も伯母夫婦になつき、生家に帰りたいとダダはこねなかったとおもう。
何事もなければ敗戦まで現地にいたことだろうが、運悪くか、運良くというべきか 大病を患ったのだ。病名は覚えていないが一時危篤状態だったらしい。所謂水が合わなかったのだろう。
危篤電報で、母がすっ飛んできた、と後で親戚から聞いた。
一刻も早く生家に連れ帰るという母に預かった子を病気にさせたと負い目を感じている伯母も抗弁すすべもなく、その日の夜行で釜山に出、当時の関釜連絡船で帰った。この間所々に記憶があり、逆に記憶が埋没しているが、気がついたら実家にいた。どうやら回復したようだ。早速幼友達が遊びに来た。その時母が作ってくれた芋ようかんのような菓子が素晴らしく旨かった。何せそれまで重湯かお粥ばかりだったからだ。
今でも我が生涯の最高の美味は聞かれたら、これを挙げることに迷いはない。
その母も私の看病疲れもあってか、一年足らずでこの世を去った。
母の分まで生きようと思う。
ハルとナツの境遇とはうんと違い表題は烏滸がましいが、この番組が埋もれた記憶を呼び覚まし、この拙文を記す切っ掛けになった。

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