社会断想

諸々の社会現象にもの申す
中高年者・定年退職者向け

シルバーパスに思う

2008年09月09日 12時17分17秒 | 社会断層
シルバーパスで思うこと
9月になるとあちこちの駅舎や公共施設の一隅で今年10月から来年9月までのシルバーパスの発行手続きがされている。受給資格者は70歳以上で手続きをしている人たちはいわゆる前期・後期高齢者である。小生も馬齢を重ねてこのシルバーパスの利用資格を得てからすでに7回目の更新を行うことになった。
小生自身にとってこのパスは非常にありがたい。特に通常バス料金が高めの、あるいは運賃が走行距離制の郊外バスを利用すると身にしみるほどわかる。
このシルバーパスの受領のためには¥1000円あるいは¥20,510の2段階の手数料がかかる。金額の違いは所得税を払っているかいないかの違いのようである。
これに対して東京都は都内運行のバス会社全体に総額数百億円の補助金を支出しているとパス発行時に渡される利用栞の小冊子に書いてある。
ということで利用の度ごとに感謝しているわけだが、しからば東京都は数百億円を出しっぱなしかというと左に非ずと小生は愚考する。
加齢とともに外出が億劫になるのは一般的であろうが、億劫になる大きい原因の一つは外出に伴う交通費支出であると思う。外出が控え目になれば外からの刺激も少なくなるし足腰の運動量も減る。老化の進度が速くなれば病気にも成りやすい。病気になり治療を受ければ自治体(この場合、東京都)の医療費負担も増える。
高齢者が積極的な外出が外界の刺激、運動量の増加ひいては罹病の減少、治療費負担の減少と好循環すればシルバーパス発行の補助金負担のある部分を治療費負担の減少分が補っているのではないかと思うのである。統計的、数値的な根拠は何もないド素人の戯言だがまんざら根拠がない話でもない。
10年ぐらい前、某大学の教授が調査データの統計処理の結果として 「高齢者の健康状態がX%改善すれば国全体の社会保障負担は数千億円減少する」と発表した記事の記憶が前述の戯れ言を小生に言わしめたのである。

南大沢駅前興亡記

2008年09月08日 12時15分55秒 | Weblog
南大沢駅前商店街興亡記

京王電鉄相模原線の南大沢駅前の商店街の新規出店・撤退の動きが激しい。
この2年あまりでフォーレスト・モールの新設、アウトレットモールの大幅拡充や駐車場、カレー屋、イタリアレストランと地下パチンコ店が同居する風変わりな一見航空母艦を思わせるビル等がぐるりと南大沢駅を囲み、その駅舎自体も書店や喫茶店等が入居する小型ショッピング街になった。周辺の住民や乗降客にとってますます便利で楽しい駅になった。
その反面、激しい競争に敗れたか?あるいは地の利を得ずに撤退閉鎖する店もある。
書店、電器量販店、100円ショップや中華料理店等である。
新規進出組の業態は撤退組をほぼ補完とプラスアルファーしているので小生としてはあまり痛痒を感じることはないのだが電器店の撤退は残念ではある。日頃は消耗品ぐらいしか買わないくせに店内ぐるりを散歩コースに組み込んでいただけに寂しい思いである。
その内、どこかの量販店がもっと規模を大きくして進出しないかなーと無責任な願望を持っているのだが。

ご近所の城址をたずねて

2008年09月02日 13時00分23秒 | 社会断層
ご近所の城址を訪ねて その1(気が向いたらその2,その3・・・がある)
図書館で新刊書棚に「むさしの城跡・・・・」という本が架かっていた。
パラパラと目次を読むと何と八王子市、多摩市、日野市および町田市の各市域内に合計20あまりの城址の存在が記されていた。
八王子城址や滝山城址はよく知られている。平山城址は京王線の駅名の元になっており又片倉城址もそこそこの存在だろう。
城址名をたどっていくと柚木城址が目にとまった。なんと我が家から2キロ足らずの距離である。しかもいつも通るバス停のすぐ近くのようである。散歩がてら覗いてみるかと出かけてみた。
永林寺という禅寺の寺域にある。この寺の門構えの堂々たるものにまずは驚く。寺の由緒書きによると後陽成天皇の勅願、徳川家康からの朱印等の記述があり、結構の大きさに納得する。寺の裏にある墓地を通り抜けると目当ての城址が小高い丘の上にある。城址らしいものは何もないが城址の存在を示す石碑と約500年前の時の城主大石定久の弓矢を携えた銅像が建っている。大石氏は一時武蔵野の一角に勢力を誇っていた由。銅像の主大石定久は小田原北条氏と揉めて近くの野猿峠付近で自害したと「むさしの城跡・・・・」に書いてある。悲劇の人だろうか。ということで時々覗いて慰めてあげようか?

松下村塾訪問で思ったこと

2008年09月01日 17時51分38秒 | 社会断層
夏が終わり秋本番ともなると来春の大学受験もすぐそこの切迫感をもつ受験生の
今日この頃である。新聞紙上には受験生募集の大学の広告がしきりと眼につく。
眺めると校舎の偉容を誇っているものが多い。これに別段ケチをつけるつもりは
ない。
しかしとも思う。
先日久しぶりに墓参のため郷里の萩に帰った。家内、長女と孫娘を連れてである。
萩観光定番の一つ、松下村塾を訪ねた。長女と孫娘には初めての見学である。
彼女たちの第一声は「まあー、古くて、小さくて可愛い学校ね」であった。
そこで小生としては一言も二言もなくてはならないと思った。
この小さな畳八畳の教室からどれだけの人材が輩出したか、日本を近代化のきっ
かけとなった明治維新の起爆塾で、その塾の主宰者兼教師の29歳で刑死した吉
田松陰先生が如何に偉大な 人物であったかをかいつまんで説明してやったのだ
が、何処まで理解したか分からない。教育とは校舎・建物のようなハードウエア
でなく、教師や学生を包み込むソフトウエアーにあると言いたかったのだが。