社会断想

諸々の社会現象にもの申す
中高年者・定年退職者向け

母の思いで

2015年05月14日 12時35分09秒 | 我が想い出シリーズ

夜の鉄橋で泣き叫ぶ幼児の自分がいた

真夜中の鉄橋を渡ろうとする老若男女がいた。
叔母の夫、私の母そして4歳の私である。所は今の韓国南部のR市近くの鉄道線路に架かる鉄橋の渡りはじめの場所である。
それまで母の手に引かれとぼとぼと歩いてきたのだが、この鉄橋にかかると突然恐怖に襲われたのだ。鉄橋下を流れる水の音、枕木の間の漆黒の闇がとても怖かったのだ。
泣きわめくばかりで歩こうとしない私を叔母の夫が背負ってくれて漸く一行は鉄橋を渡りきることが出来た。

話は約一年前にさかのぼる。当時4歳の私は前述のR市の駅前で貨物運送店を営む伯母夫婦宅にいた。郷里の萩から山陰線の下関、関釜連絡船そして鉄路を経てR市駅前の運送店までの記憶は全くなく気がつけば伯母夫婦に猫可愛いがりされている自分がいた。
(鉄橋渡りで私を背をってくれたのはもう一人の叔母の夫である)

私は父が45歳、母40歳の5男で末子として生まれた。萩地方では末っ子の男子はXX家の「オトンボ」と呼ばれることがある。「オトンボ」=オトド(左大臣)が鈍ったものと後年教えられた。つまり兄弟姉妹の内一番可愛がられ、場合によっては我が儘に育てられたのである。
そんな私が何故海を渡って朝鮮半島の南のR市の伯母夫婦の養子含みで行かされたのか? 5歳で母を亡くし、18歳で進学のため上京した私はこの「何故」をあまり意識したことはなく、今やその事情を知っていたであろう人たちもほとんど鬼籍に入っているので、 確かめる機会を失ったまま現在に至っている。

ただこれは私の想像の域を出ないが、私なりのストーリを記述してみたい。

私の生まれた昭和6年、西暦1931年の日本津々浦々は1928年のアメリカ・ウオール街の株式大暴落に始まった世界大不況の波をもろにかぶっている最中であった。
その少し前に山陰地方の小都市萩市の西外れに国鉄(当時)の小駅「玉江駅」が設置されたのは大正14年(1925年)であった。
駅発足当時、駅前広場にムシロを敷き座り込んだまま数日に亘って乗降客の人数、風体などを観察している年の頃35~6の男がいた。
何のために?市場調査、今風に云えばマーケッティングである。何のためのマーケッティング?
駅前に商店を開いて商売になるか?
商売になると見込んだその男性は土産物、飲食店らを兼ねた店を開いた。田舎の駅前にある変哲もない商店であるが、今様の「道の駅」の趨りでもある。
この男性こそ私の父である。しかし折からの世界恐慌の波はこの田舎にも容赦なくかぶさって来た。開業間もない小規模商店の金繰りが厳しいのは当たり前である。
(これから以下の文章は私の推理である)
創業資金と日々の資金繰りの一部を南朝鮮R市で駅前運送店を営む伯母夫婦に頼ったと思われる。この伯母夫婦には子供がいなく、夫婦に子供が出来る見込みもなかった。そこで養子の話が出、当時4歳の私に白羽の矢が刺さったと思われる。
末っ子のオトンボを近い親戚とはいえ遠地に養子に出すなど両親には相当な抵抗があっただろう。とくに母親にとっては身を切られる思いであったとおもう。
店をやっていくためにやむを得ずの経緯と今は理解できるが、ふと気がついたら伯母夫婦の家で甘やかされ腫れ物に触るように育てられている私がいた。
この甘やかされていたという感覚は男兄弟の末で兄たちにいじられていた私は4歳児ながら、今までとは違うというはっきりした記憶がある。
しかしそうこうしながら割と楽しく暮らしていた私が病気になった。急になったか、除除になったか、病名は何であったか記憶にないが、可成り重いものであったらしい。
萩に連絡が行き、母親がすっ飛んできたらしい。
一刻も早く連れ帰るという母の強い希望で、真夜中にかかわらず釜山(プーサン)行きの急行停車駅まで歩いて行くことになったのである。そして冒頭の怖い鉄橋にかかったのである。
この後は関釜連絡船の船室にいる自分まで記憶が途絶えている。
(続く)


百年前の甦った母の写真

2015年05月02日 11時03分44秒 | 我が想い出シリーズ

古い母の写真

郷里の姪から最近見つかったという私の実母の古い写真を送ってきた。
私の実母は私が5歳の時に亡くなっている。
従ってこの写真は少なくとも80年以上の古い物である。黄ばんだコントラストのはっきりしない写真だが、よくぞ今日まで生きながらえてくれたと感慨しきりである。
さる友人にこの写真のことを話すと、今のディジタル技術をもってすれば可成り復元できるのではないか、知り合いのプロ写真家に相談してみるよ、ということで話は進み修正を依頼、できあがった写真を見てびっくりした。実に鮮やかに迫力のある写真に仕上がっていた。
この修正作業をしてくれた友人の友人であるプロ写真家に衷心よりお礼を申し上げる。
その写真をじっと見つめていると断片的ながら母と私にまつわるいろんな思い出がこれまた鮮やかに甦ってきた。全体的には4~5歳の幼児であるから断片的な記憶が多いものの私は4歳頃、幼児ながらもやや例外的な体験をしているのでその体験に絡んでの母の思い出はかなりしっかりした時系列をもっている。
その思い出をこれから記してい行きたい 。


学長室でのたった一人の卒業証書授与

2015年03月27日 11時36分13秒 | 我が想い出シリーズ

春爛漫の今、卒業式の真っ最中である。

そんな風景を見るたびに私には60年前の忘れ得ない思い出がある。

普通、卒業証書授与式は大規模校なら卒業生代表に、小規模校なら一人一人に学長、校長から手交される。私が60年前に卒業した大学は小規模校で卒業生総数150人に満たなかった。

ひとり一人名前を呼ばれ学長から「おめでとう」と云われながら卒業証書を渡されるのである。

私の番がやって来た。学長の前に進んでゆくとすぐ後ろから事務方が追っかけて来て「XX君待ちなさい、君は授業料未納だから卒業証書は授業料を払うまで卒業証書はお預けだ」という。

仕方なく回れ右をしてすごすごと席に戻ったのである。

親がこの席にいたならどんなに恥ずかしい思いをしたかと親不孝者の自分を省みた。

実は納めるべき授業料は前日までに用意していたのであるが、友人某から「明日朝一番に返すから今晩のコンパ代を貸してくれ」と云われ用立てたので、当日の朝まで授業料未納となったのである。

卒業式終了直後、その友人が「悪い、悪い」と頭をかきながら金を返してくれた。

早速事務室に授業料を納めに行くと、私にストップを掛けた当の事務方が「すぐに学長室に行ってください」と云うので学長室に恐る恐る顔を出すと「XX君か、入り給え、さっきは悪かったね、あんな場所であのようなストップを掛けるなんて事務方も配慮が足りない。しかし兎も角おめでとう。社会に出たら頑張ってください」と「謝り」と「おめでとう」の言葉を同時に、しかも学長室での差しでの卒業証書授与となったのである。

僻地の分校ならしらず、このような有り様は珍しいことではなかろうか?

懐かしさと誇らしさと恥ずかしさがない交ぜになった昔々の思い出である。


 

 


小学校同窓会名簿・・60有余年たった今

2007年09月05日 17時25分24秒 | 我が想い出シリーズ
小学校卒業名簿が来た・・・65年前のクラス名簿

郷里の小学校時代の同級生K君から突然電話を貰った。用件は小学校卒業名簿を送る、同窓会も開くので出席の可否を知らせてくれとのことであった。
K君とは旧制中学から新制高校と同級生で且つ郷里での高校のクラス会で1~2度会ったことがあるのだが、小学校の同窓会の件にはいささか戸惑ったのである。
高校時代の同窓会は郷里在住者も東京在住者もほぼ毎年行っており郷里・東京の同窓会同士の交流もあり、お互いの消息はほぼ掴めているのだが、小学校の場合は卒業以来60有余年を経て、その間一度も同窓会の話はなかったと思う。それが今回の話である。戸惑わざるを得ないわけである。
多分出席は叶わぬとK君には伝えたものの 名簿だけは是非欲しいとねだった。
数日後送られてきた名簿は小学校6年卒業時の名簿とのことである。
早速、男子4組、女子3組(それぞれ組名があり男女別々の組み分け)の名前リストを辿ってみた。
同期の児童数約360余名で当時でも県下の有数の大規模校と言われていたようだ。
余談だが、1年入学式の校長先生の訓辞の一節「この学校の生徒数は2600名、今年は紀元2600年(当時の皇国史観での年号)のお目出度い年に君たちは入学した」との話を未だに覚えているのは当時6才の頭が数字の語呂合わせに妙に納得したのだろう。
ともかくリストを辿っていくと記憶にあるのは旧制中学に進学した連中で彼等のほとんどとはその後6年を 過ごしたわけだから当たり前であろう。
問題は商業学校・高等女学校或いは小学校高等科に行った人達とは狭い町ながらあまり交流はなかったので、大半は記憶にないのである。
しかし、はっきりと懐かしく想いだす人もいて、じっと暫く名前を見つめ、あのとき、この時の記憶を辿るのである。
特に通学路が同じで行き帰りにふざけ遊びながら過ごした人達数人である。
ところが残念なことに名前は記載されているが住所等が空白つまり消息不明なのである。
彼等の内MとT君の消息は是非知りたいと思い冒頭のK君に消息追跡を図々しくもお願いしたわけである。
それにしても死亡と記載されている人達が50名ばかりいる。消息不明者の中にも既に故人となった人も相当数いると察せられる。 合掌。

老同窓生箱根で遊ぶ

2006年11月16日 14時05分06秒 | 我が想い出シリーズ
晩秋の箱根に遊ぶ
よく晴れた晩秋の一日、高校時代の同窓会を箱根で行った。
いつもは在京者を中心とした会なので都内のレストランでの一夕を楽しむのだが、今回はメンバーの一人I君の世話で某証券会社の保養所が安く利用できることになり郷里のH市や関西、中京方面からも参加者を集めて開こうということで箱根での一泊となった。
幸い好天に恵まれ行楽日和となった。
平日にもかかわらず箱根は大変な人出で老若男女の若抜きで各交通手段、ケーブルカー、ロープウエイや海賊船はごったがえしていた。
ともあれ懐かしい顔ぶれが総員16名と集まり、弾む話は60年前から現在まで半世紀以上を行ったり来たりしたが、やはりみんなの人生が重なった前大戦の終戦直後の旧制中学校から高校卒業までの数年間が話題の中心であった。戦後の苛酷な食糧事情と急激な教育制度の変革等、それ等抜きには考えられないトピックの数々が次から次に披露されたのである。
これらの話題はある大変な時代を象徴するもので忘却の彼方に霧散させるべきではないとの思いを強く持った。諸君の記憶を留め書きし、少しまとまったところで 文集に纏めて提供したらいいかなー と思ったりしている。

ハルとナツと私

2005年10月08日 08時42分38秒 | 我が想い出シリーズ
ハルとナツと私
NHKの放送80周年記念の五夜連続テレビ番組「ハルとナツ」を見た。
一家挙げてのブラジル移民の筈が、ナツのトラホームのためにナツだけ残されることになる。ブリッジでハルにしがみつくナツが 強引に引き剥がされるシーンには涙がこぼれた。ブラジルに渡るハル一家と残されるナツのこれからの過酷な運命を暗示するシーンであり、事実物語はそのように展開する。
見ていてふと気がついた事がある。それは私自身も似たようなといったら烏滸がましいが
同時代背景でチョット似たような経験をさせられたのだ。
物語の時代は70年前の昭和9年から始まるのだが、この時代は日本は大変な不景気でブラジル移民も食えない農民の救済策の建前であったが、事実は棄民策でもあったのだ。
当時4才であった私にとっても実は人ごとではなかったのだ。勿論4才の幼児が経済情勢も家計の事も知ることではなかった。
私は何時の間にやら今の韓国の麗水?(うろ覚え)の伯母の家にいた。
伯母と私の両親との間にどんな遣り取りがあったのかわからないが、多分こんな事ではなかったろうかと思う、今にして思えば。
父は駅前に店を新築した。店といっても田舎の駅前によくある土産物屋と軽食堂を兼ねたものであるが、少し違うのは遠洋漁業の小さな漁港を控えていたので、二階を船頭さん達を相手の料亭にしていた。
折からの不景気で父母はやりくりが大変であっただろう。
伯母に子供がなく、末っ子で4才の私を養子にくれれば資金援助するという話になったのだろう。伯母夫婦は麗水?駅前で運送店を営んでいた。今思うとちやほやと可愛がられ、随分贅沢をさせてくれたところをみると金回りもよかったのだろう。
私自身も伯母夫婦になつき、生家に帰りたいとダダはこねなかったとおもう。
何事もなければ敗戦まで現地にいたことだろうが、運悪くか、運良くというべきか 大病を患ったのだ。病名は覚えていないが一時危篤状態だったらしい。所謂水が合わなかったのだろう。
危篤電報で、母がすっ飛んできた、と後で親戚から聞いた。
一刻も早く生家に連れ帰るという母に預かった子を病気にさせたと負い目を感じている伯母も抗弁すすべもなく、その日の夜行で釜山に出、当時の関釜連絡船で帰った。この間所々に記憶があり、逆に記憶が埋没しているが、気がついたら実家にいた。どうやら回復したようだ。早速幼友達が遊びに来た。その時母が作ってくれた芋ようかんのような菓子が素晴らしく旨かった。何せそれまで重湯かお粥ばかりだったからだ。
今でも我が生涯の最高の美味は聞かれたら、これを挙げることに迷いはない。
その母も私の看病疲れもあってか、一年足らずでこの世を去った。
母の分まで生きようと思う。
ハルとナツの境遇とはうんと違い表題は烏滸がましいが、この番組が埋もれた記憶を呼び覚まし、この拙文を記す切っ掛けになった。

無銭飲食のシアトル

2005年04月29日 09時11分06秒 | 我が想い出シリーズ
シアトル 無銭飲食の想い出
米国のメジャリーグが始まって一ヶ月になろうとしている。
イチローは昨年後半からの好調を維持、気の早いファンは打率4割の期待をかけている。 そこでここ数年のごとく新聞やテレビでイチロー・ニュースを目にし、耳にしない日は無い。私にとってシアトルは格別の想い出のある街である。
40数年まえ、出張先のシカゴから帰国の途中、飛行機が遅れに遅れ、シアトルに一泊せざるを得ない羽目になった。
エア・ラインが用意してくれたホテルに落ち着いたものの、翌日の出発までには随分と時間がある。街の様子でも見物するかと通りにさまよい出た。確か通りの名前はユニオン街?といって近くに港があったと記憶している。
シアトル・マリナーズの本拠地セーフコ球場でのゲームのTV中継を見ていると、長い貨物列車が通り過ぎるのを時々映し出している。
どうやらユニオン街はこの球場に近いのかなと勝手に想像しているのだが。
通りにさまよい出た私は、ふと買い物を思いついたので、目についた雑貨屋に飛び込んだ。買い物を済ませ、店の白人のおばさんにあることを聞いてみたのだ。それは西海岸には移民での日系人が多いと聞いていたので、単なる世間話のつもりで、この近所に日系人Japanese American)がいるかと聞いてみた。
親切で気さくそうな おばさん曰く、「いるいる、案内してあげる、ついてきなさい」と私を引っ張ってつい2~3軒先の[なんとか Tavern 」なる店に連れて行ってくれた。この店は日本で言えば一膳飯屋兼居酒屋とでも云うのだろうか。このTavernの英単語を知ったのはこのときが初めてである。
店には主人とおぼしき日系人のオジサンとその娘さんとおぼしき女性がおり、雑貨屋のおばさんは「このヤング日本人の学生は留学が終わって、これから日本に帰るところで、日本人を恋しがっている、それで連れてきた、云云」と私を勝手に学生にし、私の気持ちまで代弁?してくれたのだ。日本人は一般に若く見られる事から来る好意ある誤解である。
店のメニュウを見ると日本食メニュウが並んでおり、その内の2~3を注文した。
シカゴから日本に帰るところ など、世間話をし、いざ数ドルの勘定を払おうとすると、受け取ってくれない。曰く「ドルは大事じゃけん、日本にもって帰えりんさい」と私にとって懐かしい訛りの返事である。多分中国地方からの移民であろうと思った。(当時1ドルは360円でドルは日本にとって大変貴重な資源であった)
どうやら雑貨店マダムの好意ある誤解の紹介を真に受けたらしい。
学生ではない、サラリーマンの米国出張の帰りだと説明するのだが、「いいから、いいから」というのみである。
ついに勘定を払い損なった私ははからずも無銭飲食をしたことになった。
それ以後シアトルには立ち寄る機会がなく今日に至っている。当時の場所、店はもはや無いだろうが、もう一度シアトルを訪ねてみたい。イチローでも見に行くかなあ~。

わが生涯の美味 母の想い出

2005年04月28日 11時49分41秒 | 我が想い出シリーズ
我が生涯の美味 母の想い出
今から70年前、私が4歳の時、生死の間をさまよう大病をした。
ずっと意識不明の日々だったらしい。しかし母をはじめ家族の懸命の看病のお陰でどうやら一命をを取り留めたらしく、ようやく病も峠を過ぎ、一日一日と快方に向かった。
その頃になると意識もかなりはっきりとしてきた。同時に猛烈に食欲が出てきた。
母に食べ物をせがむのだが、母は用心深く、暫くはお粥が続いた。
そんなある日、多分夏の日だったと思う。風通しの良い部屋に寝ていた私の所に仲良しのムッチャンが見舞いに来てくれた。
仲良しのムッチャンとは、私が病気になる前まではいつも組んずほぐれつして遊んでいた。その故で、どちらかの体に出来たでき物を移しあい、一人が直ったと思うと一人に移り、際限がなく、親たちを嘆かせたものである。実際その当時は幼児と出物、腫れ物はつきものであったのだ。
仲良しムッチャンが見舞いに来たというので、母はジャガイモ(多分)をすり潰し、砂糖をたっぷり入れた団子を作ってくれた。
その団子の旨かった事といったら!この世の中にこんな旨い物があったとは!
当時4才の子供にはそれをうまく表現するボキャブラリはなっかたが、まさに「我が生涯の美味」であった。母は翌年亡くなった。
「我が生涯の美味」は母の思い出につながる。幼友達のムッチャンもすでに亡い。若くして亡くなった母の寿命の分まで長生きしたいと思うのである。