社会断想

諸々の社会現象にもの申す
中高年者・定年退職者向け

本への未練がたちきれるか?

2010年08月27日 13時18分25秒 | 社会断層
本への未練が裁ち切れるか?
読売新聞の編集委員Y氏のコラムを読んだ。
書籍の電子化の過程(工程)で避けて通れないのが本の断裁である。この本の断裁が何とも切ないと愛書家であるY氏はいう。小生も全く同感である。(まだ断裁をしたことはないがY氏の気持ちはよくわかる)
本に限らず物の整理が苦手な小生も増え続ける本の始末・整理に困っていた。
この問題の解決の一案として最近は図書館よりの借り出しを主とし購入は資料的な書籍即ち図鑑、年表や人物辞典等で必要に応じて書棚より引っ張り出す可能性の高い本に限るようにしている。しかし話題のベストセラーとなると図書館のリクエスト待ちが多く順番は回ってこない。依然として本の購入はやまない。あれやこれやで書棚は溢れるばかりである。若干そのスピードは遅くはなったが。
そこで書籍の電子化を考えているのだが果たして思い切りよく本を裁ち切れるかというと自信が揺らぐのである。
そこで考えた。(考えるだけでなかなか実行に到らないのが小生の悪い癖である)
蔵書の内、●かなりの頻度で書棚から引き出す、前述の資料的なもの ●書棚のなかでじっと鎮座したままのもの とに分けて後者は思い切りよく断裁し電子化する。前者はそのまま温存するというものである。しかしこの手の書籍は分厚い、重いで書棚スペースの削減には思ったほど効果がない。従ってこれらの書籍の一分ないし多くを断裁・電子化すると冒頭の嘆きになる。
断裁・電子化した書籍を簡単に復元できれば、つまり数百ページを再固着し表紙をつけ本のイメージを復元出来、別な保管方法をとれれば、その本の実体存在に安心でき、電子化データの効率的利用のメリットが享受できる。但し「簡単に復元」が絶対要件である。ムシが良すぎるかなー。

「研究」と「教育」を一括りにして議論するな

2010年08月11日 16時09分43秒 | 社会断層
「研究」と「教育」を一括りにして議論するな

8月11日の読売新聞のコラム論点に愛媛大学準教授佐藤浩章氏の論述があった。
要点は大学教育において教員にも資格制度が必要であるというものである。幼小中高の先生には資格即ち教員免許が必要であるが大学では、現行それは必要とされていない。
大学の先生にも必要だという論旨である。また「良き研究者は良き教育者である」と云う大学教員もいるが果たしてそうだろうかと疑問を呈している。
大学における「研究と教育」は大学の使命の両輪であることは論を待たないが、大学にまつわる論議において「研究」と「教育」の各職能が一緒くた、一括りの形で議論されているように思える。一人の教員が両職能を兼務しているのが今の大学では普通なのだろうがその職能部分にはオーバーラップ部分と峻別されるべきユニーク部分があると思うのは門外漢の素人考えだろうか?
大学の先生にもいろいろあって大雑把にパタナイズすると●研究と学生に対する教育指導がうまく調和している ●自身のの研究に注力するあまり学生に対する教育が不十分になる●教育即授業に熱心であるが研究に時間を割けない、或いは割かない 等等である。
もっとも担当する科目(たとえば専門基礎科目)、受け持つ学生の年次(たとえば学部、博士前、後期)によってもいろいろだろうが、卒業生の大半を受け入れるのは産業界、企業であり、その求める人材像は専門基礎の教育をしっかり受けており、入社後の配属部門で応用力を発揮出来る人であろう。

英語公用化を嗤う

2010年08月09日 09時57分16秒 | 社会断層
英語の公用化を嗤う
さるIT企業や世界的に拡大躍進を続ける衣服小売り業が英語を社内公用語にする計画が話題を呼んでいる。自動車製造のN社や電子機器のS社らは幹部レベルの会議を英語で行っているとの話はよく知られている。しかしこの2社はトップが外国人であり、世界を相手にビジネスを行っている企業であるのでそれなりに納得出来る。
しかし企業一般、特に大手企業に限定するにしても英語を公用化する必要があるのだろうか?たしかに英語の熟達者が多いほど外国人との折衝、外国企業とのビジネスを担当する社員の層が厚くなるのは良いことだと常識的にはわかる。
しかし英語によるコミュニケーション能力のあるレベルを義務付けたり、昇進の指標にするのはいかがなものか。
理系、文系に限らず英語のみを使っての自己の業務、人格能力を100%発揮できる人は少ないのではないか?
英語表現のために努力を強いられ、それによって本来の長所部分の発揮がセーブされるとすると本末転倒ではないか。英語が苦手と云ってノーベル賞受賞の記念講演を日本語で堂堂としたあの先生は偉い。
極端に悪い想像だが業務や全人格的に中身は薄いが悪達者のぺらぺら英語使いが経営トップの周辺に蝟集するとすれば殿様の周りに集まる佞臣の図が浮かぶ。

子供を虐待から救え

2010年08月01日 10時15分02秒 | 社会断層
子供を虐待から救え 親に対するプライバシーを気にするな!

子供に対する虐待、果ては死に至らしめるような事故が絶えない。新聞、TVの報道を見る限り全面的に親が悪い。我が子をかくのごとき目に遭わせる親の心情、考えは我々の理解を超えたもので一片の同情の余地はない。
子供が虐待を受けているときは何らかの信号を発している筈である。単なる我が儘か、叱られて泣く泣き声と虐待かそれに近い仕打ちを受けている時の泣き声はどこか違うような気がする。
集合住宅に住んでいる私には時々悲痛な響きを伴う助けを求めるような被虐待時?の泣き声を希にではあるが耳にすることがある。幸いにも今までのところ、近所から虐待のニュースが聞こえてこないので小生の思い過ごしかと胸をなで下ろしてはいるのだが。
聞いた話ではアメリカでは子供の泣き声が長く続くと日本の民政委員のような人がすっ飛んでくるとのことである。
日本でも近所の通報で地区の委員や地方自治体の職員が当該家庭を訪問し実情を調査するようであるが、家庭のプライバシーを尊重するというか遠慮するのかいまいち踏み込んだ調査をしなかった為に事故の未然の防止が出来なかったとの例が多い。
そこで小生の提案:
自治体職員と警官との連携調査が出来る法的根拠を立法して欲しい。子供の死と親のプライバシーのどちらが大事か?
絶たれた命は帰らない、プライバシーの侵害はたとえそれが過誤によるものであっても修復出来る。