社会断想

諸々の社会現象にもの申す
中高年者・定年退職者向け

クジラが喰いたい

2008年02月23日 11時11分29秒 | Weblog
クジラを安く喰いたい

最近のA紙に次のような記事が出ていた。見出しを追うと次のようである。
「鯨肉さばけぬ悩み」「供給増えたが流通広がらず」「国策販売会社、赤字続き」「在庫6000トンまで増加」とある。
小生のように少年期に近くに近海捕鯨基地があり、県内に南氷洋捕鯨基地を持つ地域に育ったものとしては鯨肉は馴染みの味であった。今も無性にクジラが食べたくなることがある。スーパーのチラシでクジラベーコン等の宣伝を見かけると出かけてみるが、その値段の高さに思わずひるんで仕舞う。そして無性に腹が立つ。
調査捕鯨の名目で細々と捕っているので値段の高さも仕方がないかと思っていたが、この記事を見るとそうでもなさそうである。
鯨肉が学校給食用を含めて、一般消費者に渡るルートを示す図が同記事に載っていたが、それによると販売の大本がお役所系である。そして大本の卸値を決める考え方が「調査捕鯨の費用を賄うためにはこの価格で売らねばならない」という「初めに値段ありき」のようでもある。
そこには「市場原理」(小生は市場原理を全面的に支持しているわけではない)の考え方はないようである。
反捕鯨キャンペーンのブーイングの中で調査捕鯨などとの姑息なネーミング、旗印を降ろし、堂々と商業捕鯨を打ち出したらよい。但し資源保護の立場から収穫量を打ち出し全世界に公表する。世界中の海からのマグロの捕獲量に比べれば微々たるものではないかと素人は考えるのだが。
捕鯨の現場から販売まで市場主義で貫けば末端価格を安くなり諸費者も戻ってくるのではないだろうか?その戻ってくる消費者の先頭に立つのはクジラの味を忘れかねている、懐かしがっている層ではないか?そしてこれらの層にクジラの味を諦めさせたら味の世代継承は途切れ、もはやクジラは永遠に食卓に帰ってこないだろうと憂えるのである。
ともあれ神さんに晩酌のおかずにクジラを買ってくれと気軽に云えるようにして下さい。

探鯨水上機「バタバタ号」

2008年02月21日 16時53分49秒 | Weblog
水上飛行機バタバタ号の想い出
最近の新聞紙上やTVで捕鯨関連のニュースがよく出る。
この類の記事や画面を見ると遠い昔子供時代のある光景を思い出す。
郷里の隣町に近海捕鯨の基地があり、そこは捕鯨銃を使う近代捕鯨の発祥地ともいわれている。もっともこの事はずっと後年になって知ったことで子供の小生には知る由もない。その捕鯨基地に付属していた探鯨用の水上飛行機が表題のバタバタ号である。
尤もこのネーミングはそのエンジン音から子供たちが勝手に付けた名前である。
その時代(昭和12年~16年ぐらい)にしてもいかにも古い飛行機である。
中古のお下がり、そのま又お下がりを重ねての最後のご奉公なのであろう。
そのバタバタ号が何らかの理由で近くの川に着水することがある。
そのバタバタという息絶え絶えのエンジン音で子供たちは一斉に河岸に向かって走り出す。川の中程に着水した飛行機は一休みすると間もなく又バタバタと喘息を抑えて飛び立つ。多分一休みすると気を取直してよいこらショット飛び立つのである。
そんな想い出に浸りながら新聞・TVを見ていると捕鯨に対する日本の当局者の対応は 何とも中途半端である。このあたりのことについては別の機会に意見を書きたい。

大学入学後のミスマッチを救済せよ

2008年02月05日 15時00分41秒 | 社会断層
2月3日のNHKのニュースで大学生と授業・読書量らについての東大の研究グループによる調査結果を流していた。それによって日本の将来はどうなるんだと恐怖に近い感情を持ったのは小生だけではないだろうと思う。
その調査の概要は次の通りである。
調査主体:東京大学研究グループ
調査対象:全国の国・公・私立127大学 大学生5万人

調査質問と答え:
1)「授業に興味・関心がわかないか?」
答え:「よくある」 17%
   「時々ある」 45%
2)一日の勉強量は?
答え:「1時間以下」 64%
   「全くない」  13%
3)1ヶ月の読書量 (漫画は除く)
答え:4冊以上 16%
   1冊のみ 28%
   読まない 29%

この結果を見て小生は考えた。
大学全入時代を迎えて
・もともと勉強が好きでない子、他に熱中し勉強する時間がなかった子(例えば体育会系)・読書が嫌いか種々の理由で読書になじめなかった子
・自分のやりたいことが分からない、分かっていない模索中の子
等も偏差値を頼りに難関大学から入学容易な大学まで選択肢はいくらでもある。
ともかくどこかの大学には入れるのだ。
小生にとって一番ショックだったのは月に一冊も本を読まない学生がいることである。
上記の質問1)、2)と読書量との相関はデータとして表示されていないので軽々にものは云えないが、3)の読書量は1)2)の結果ではなかろうかと思えてならない。
世間には自分のハッキリとした将来像を描いている18歳もいれば目下模索中の子もいるだろう。一番困るのは将来像どころか何も考えていない、考えようとしない子である。何が何でも大学だけはと親や学校にいわれて偏差値相当の、或いは推薦で入学する。
そこには専攻コースと自分とのミスマッチの場、或いはミスマッチ以前の問題がある。
しかし、18歳を責められるだろうか?今の日本には迷える18歳はまだしも、迷いも意識しない18歳がゴロゴロいるのではないのか?
がともかく大学には入ってくる。そして早晩ミスマッチに気がつく。
このミスマッチを救済する大学システムこそ大事ではないのか?
結論を急ごう。
入学後の1~2年に転入学・転科が容易に出来る大学間の制度を設け、且つ出口を狭める即ち卒業時のレベルを高めるべく大学は学生の質を担保する。

「大学卒業学力保証センター試験」?

2008年02月01日 12時00分34秒 | 社会断層
入り口と出口の品質保証  「大学入試の国際比較」コラムを読んで

2月に入って大学入試も本格化してきた今日この頃である。
たまたまWEB上のコラム「大学入試の国際比較」(大和総研公共政策研究所 宇野健司氏:http://www.dir.co.jp/publicity/column/)が眼についた。
以下抜粋を紹介すると、
「アメリカの大学入学には、かなり多面的な要素が考慮される。大きく分けて(1)高校での成績(日本でいう内申書の平均点と、学内順位)、(2)全国統一学力適性テスト(入学の1年前~3ヶ月前まで、年7回程度実施している。複数回受験しても良いが、その場合はそれまで受けた回の成績も大学に送付される)、 (3)推薦状、小論文、面接など、の3分野から総合的に判断される。(2)は主に国語(つまり英語)と算数(日本の中学校レベル)で、大学で学ぶのに必要な程度の学力が身についているかを判断するための適性テストなので、日本の大学入試問題ほど難しくはない。そのため有名大学に進学するためには、(1)や (3)も重要な要素となり、高校での学習態度や課外活動などにも力を入れる生徒が多くなる。

そのような背景もあって、アメリカでは予備校や塾などの受験産業はあまり発達せず、大学入学前のいわゆる受験戦争は相対的にあまり激化していない。(浪人をしても意味がないので、浪人生もほぼ存在しない。)むしろ、大学入学後のプレッシャーの方が大きく、1コマの授業ごとに数十ページの事前予習を週10コマ前後要求されるので、一週間に数百ページの読書が必要となる。また、大学院ではそのプレッシャーが一層きつくなる。

一方、アジアの国々はどうであろうか。中国の大学入試は、毎年6月に行われる「高考」(大学入試の全国統一試験)の一発勝負である。韓国も同様に「大学修学能力試験」のウエイトが非常に高く、試験当日は国をあげて受験生の輸送サポートをしたり、騒音対策のために飛行機の運航の規制をしたりするほどの気の使いようである。日本でも、推薦入試やAO入試は別として、難関大学の一般入試は、センター試験や2次試験のみの選抜となる。
結果として、これらの国ではアメリカとは反対に、予備校や塾などの受験産業が大きく発展し、受験戦争は加熱化し、大学入学前にプレッシャーのピークがやってくる。入学後はケース・バイ・ケースだが、日本の場合、大学での成績が就職には直結しないこともあって、特に文科系学部などでは勉強面では一息いれることが可能となる。」

大学全入時代とはいえ東京大学をはじめ国・公・私立の難関大学の入試競争の厳しさは変わらない。実質競争率数倍以上の大学における入学生の学力品質は或る程度保証されているであろうが、問題は卒業時の学力・人間力の保証は如何だろうか?
就職受け入れの企業を含めて社会全体が求めるのは「卒業時の学力・人間力」ではないだろうか?
つい先頃も「文科相の諮問機関である中央教育審議会が「各大学に責任を持って卒業者=学士の質・レベルを維持するよう求める」という記事が出ていたが、これなども「卒業時の学力・人間力」に対する危機感の表れではないだろうか?
こうなると「大学入試センター試験」ならぬ「大学卒業学力保証センター試験」なるものが必要になる?