社会断想

諸々の社会現象にもの申す
中高年者・定年退職者向け

南大沢駅周辺 その1

2005年03月29日 11時14分44秒 | 社会断層
京王線南大沢駅は京王本線が調布駅から分岐し終点橋本駅から2つ手前の駅である。
周辺は新興の住宅地で中高層マンションだらけである。
駅前広場はたっぷりとした広さをとり、この駅の特徴の一つとなっている。
改札口の右側の突き当たりには都立大学(4月より首都大学東京と改称される)正面玄関があり、脇にとんがり帽子の塔が聳えている。
都立大学に至る広い道路の両脇にはアウトレットショッピング・モールと飲食店街その他の店がある。
休日の好天気の日には駅前広場、駅斜め前のスーパーおよび飲食店ビル、シネコンを含めて一体は老若男女ーよちよち歩きの幼児を含めてー溢れるばかりの人出となる。まさに盛り場そのものであるが、猥雑で妖しげな雰囲気はない。明るく健康そのものである。

官尊民卑の窓口未だ存在

2005年03月23日 10時47分11秒 | 社会断層
戦後60年を経て官公庁窓口のサービス応対は大変良くなった。
戦後の早い時代から官公庁窓口に接することの多かった筆者は時代が下るごとに窓口サービスや応対態度がにこやかに、親切になっていくことを肌身に感じてきた。
しかし、最近になって官尊民卑の窓口未だ健在との感を深くした悲しい出来事を体験した。
それは某公社の地域窓口に駐車場貸借契約に訪れた時である。
一応書類審査も無事終わり、敷金3ヶ月分をその場で納金すればよいと考えたのだが、窓口女性曰く、「これから銀行に行って払い込みし、銀行の受領書を貰って来てください」とのこと。
その時筆者は銀行窓口が同じビル内にあるものと考えた。(かって法人所得税の申告と支払いに税務窓口を訪れたとき、すぐその脇に銀行出納窓口があり、そこで納入した経験が何度か有るので、てっきりすぐ近くに同様なものがあるものと錯覚したのだ)
銀行窓口は何階に有るのですかと聞くと、駅前にあるとの返事である。
確かに駅前には都市銀行支店が2,3あったのは知っていた。
しかし其処までは往復1キロ近く緩い坂道である。老体にはややきつい道のりである。
窓口での待ち時間を考えると、窓口女性から平然と「銀行の受領書を貰って来てください」といわれたことに正直腹も立ったが、官尊民卑思想いまだしの感を深くした。
わずか数万円の金銭の受領をその場で出来ないのか?あるいは先に銀行によって受領書を貰うというスキムが取れないのか?
官公窓口のサービス・態度が大いによくなっているだけに非常に残念である。



民放にもの申す

2005年03月18日 13時30分51秒 | 社会断層
今世間の話題で一番盛り上がっているライブドアー帯ニッポン放送、フジテレビの株争奪戦である。
まさにライブドアー堀江氏に隙を衝かれた格好である。ニッポンおよびフジTV側は脇が甘いと云わざるを得ない。
この脇の甘さはどこから来てるか?
それは社員の特権階級意識である。そしてこれはニッポン放送に限らず大手民放会社社員・経営陣に共通した弊である。
民放はチャンネル免許を貰った瞬間に企業としては半分成功している。いわば寡占でわずかの企業努力でそれなりの業績が確保できる。ここに自分たちは特別で優秀なのだと錯覚を起こす原因がある。
このことは他の業種、特に製造業又は徒手空拳のベンチャー系企業と比較するとよく分かる。
はじめから激しい競争の中にいる企業の企業では、経営者から社員まで営々と努力しても給料は民放社員に遙かに及ばないのが大半であろう。高い給料を貰うのはいい。
いつかそれが世の一般サラリーマンを見下すような特権意識になり特権村民を作る。
これは私だけの独断ではない。民放社員を友人に持ったり、あるいはビジネス上係わった人たちがほぼ例外なく漏らす感想である。
これは私の憶測であるが、堀江氏が民放社員と私的に、あるいはビジネス上の接触で小馬鹿にされた事があるのではなかろうか?
「よし、鼻をあかせてやれ」というのが今回の行為の発想の原点にあったのではないか?

痛かったフライパン 明治は日系人の中に生きていた(但し40年前の話)

2005年03月15日 14時21分20秒 | 社会断層
「痛かったフライパン」

最近皇室の話題がマスコミに頻繁に登場する。お目出度い話や必ずしもそうでない話題も豊富に書き立てられている。特に週刊誌の記事のなかには世が世ならば不敬罪(もはや死語であるが)に問われ出版差し止めの憂き目をみるは必定と思われるものがある、と考える私は相当な昔人間か?
ともあれ皇室のニュースに接するたびに痛い思い出が私にはある。
 それは今から三十有余年前のことでである。
 当時私はシカゴ市サウスサイドにあったある日系二世の営むボーディング ハウスに 数ヶ月滞在していた。
 ボーディングハウスー下宿屋といってもご主人は修理主体のあまり繁盛しない時計屋さんで、もっぱら奥さん(おばさん)とおばさんの母のおばーちゃんが家計の足しにと切り盛りしていた素人下宿屋である。
 二十五才前後の長女を頭に娘4人、息子二人の大家族に加え、カルフォニア生まれ、 ハワイ生まれの日系二世、三世のシカゴ周辺の大学生、海兵隊員等5~6人に私のような日本からの短期滞在者 数人が加わった大所帯である。
 この家族はもともとカルフォニア・サクラメント付近で農業を営んでいたのだが 大戦中はご他分にもれず強制収容所で過ごしたそうである。
 戦後は新天地を求めてシカゴに移住してきたのである。
 そんなボーディングハウスでのある日、多分日曜日だった?私はダイニングルームでのんびりとテレビを見ていた。 丁度その時、皇太子殿下(現天皇陛下)の御成婚のパレードが映しだされた。 それを見ていた学生気分のまだ抜けない私はふとあることを口走しった。 それは終戦前ならばまさしく不敬罪 で留置場に2~3日はぶち込まれるたぐいの言葉だったと思う。(覚えているけれども敢えてかきません)
まさにその時である。後頭部にガツンと衝撃を受け、一瞬目先が真っ暗 になつた。瞬間何が起こったのか分からなかった。
 後ろを振り向くと、なんとオバーちゃんがフライパンを持って、涙を流しながら 私を睨んでるいるではないか。そう、オバーちゃんにこっぴどく叩かれたのだ。

「オバーちゃん、何をしてかね」と私。
 「アンディ(私は便宜上アンディと呼ばれていました)、お前はジャパン生まれの ジャパンボーイじゃないか?なんちゅう耐えがたいことをいうのか」とオバーちゃん。
 私はハットした。戦後の日本人に希薄になった皇室尊崇の気持ちをこの明治生まれの オバーちゃんは牢固として持っているのだと気付いた。

 私は心から、理屈抜きに謝まった。ともあれ明治生まれの純粋な気持ちの前に下手な 理屈や言い訳は通らないと思ったのだ。
 機嫌を少し直してくれたオバーちゃんは言いました。
 「アンディ、もう一度同じことを言ったら、ランチを作ってあげんけーね!」 (作ってあげないからね!)これには参りました。私にとってはフライパンの打撃以 上です。

 そう、毎日、毎日のサンドイッチのランチにうんざりし、折角のサンドイッチを食べずに捨てていたのが、いつしかバレて、そんな私のために特におにぎりランチを作ってくれるようになっていた。

 言葉からお分かりのように、オバーちゃんは山口県大島町の出身である。
 おばさんは同じ大島でで小学校教育を受けた帰米二世。おじさんの両親は広島出身。 私も同じく山口県生まれなので同郷ということもあって特に可愛がってくれてい たのである。
そんなわけで皇室ニュース に接するたびに30余年前に受けたフライパン打撃を鮮烈に思い出すのである。