硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

幸福とは。

2015-02-10 22:02:46 | 日記
職場でお昼ご飯を食べつつテレビを観ていると介護疲れで妻を殺めてしまったという事件が流れた。職場が職場だけに一瞬、しんとなったが「どうにかならなかったのかな。」などの言葉が誰からともなくこぼれた。でも僕は周りから聞こえてくる言葉とは違う事を考えていた。

確かに、社会資源に頼ればどうにかなったかもしれない。でも、夫である男性は病院にかかる前に妻を殺めてしまった。

おそらく、今までがんばって妻のお世話をしてきた男性は、妻を病院に行かせてしまったらもう今までの生活には戻れないであろうことと、いつ終わるかわからない妻の人生を金銭的に支えてゆくことの困難さを十分に理解していたうえで、それならばいっそのこと一緒に命を絶とうと行動に移したのではないかと思ったのです。

もし、仮に男性がボケてゆく妻に束縛されることなく残りの人生を謳歌したいという望みがあったなら、長男に頼ってでも早々に社会資源に頼ったであろうと思うのです。
でも、そうはしなかった。僕はここに男性と妻の絆の深さを考えたのです。

第三者から見れば、悲しい事件であるかもしれません。でも、自分の事を忘れてゆく妻の存在に耐えられることができるでしょうか。僕は以前、夫を忘れてしまい夫に向かって「あんたは誰だ!」と言って叫ぶ妻を前になすすべもなく涙を流す夫の姿を見たことがあります。その前にその男性から妻とのなれそめを聞いていたのでやりきれない思いを抱きながら、興奮するおばあちゃんを慰めたことがありました。僕はこういう事件があるたびにその様子が頭の中で再生されいつも切なくなるのです。

死にきれなかった男性は残りの人生を罪を償う事で費やさなければなりませんが、好きだった妻が自分の事を忘れてしまう姿を見続けるよりも耐えられるような気がするのです。

確かに法の上では間違った行為です。しかし何が幸福であるかなど、法で定義することなどできませんし、それを第三者が深く理解することもできません。

超高齢化社会を間近に控え、私達は改めてこのような事件から何を学び得られることができるかを真剣に考えなければならないところに差し掛かっているのかもしれません。