硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

絶望の国の幸福論2013

2013-05-20 16:21:55 | 日記
先週の土曜日の午後、仕事の休憩中、休憩室には僕だけだったのでテレビを独占。チャンネルを変えてゆくとeテレの「絶望の国の幸福論2013」という議論番組で手が止まり、なかなか面白いので見入ってしまった。

その時に感じた事を少しだけ述べておこうと思いますね。

若者たちが幸福について語り合っているのですが、まず、一番驚いたのが彼らの出力。言葉の堰を切ったようになめらかに且ロジカルに想いを述べてゆく姿がとても新鮮で、出来る人達は違うんだなぁと感心しました。また、迷いなく語る彼女たちにキュンとしてしまった。(笑)

でも、彼らが議論する机上は、彼らと同じ視座で社会を観る事が出来なければ、ちんぷんかんぷんなお話なのである。

ダウンサイジングな生き方のロールモデルが必要である事。新しいコミニュティーの構築。個人の幸福か社会の幸福か。ライフワークバランスの質のあり方。等など聴いているとワクワクするんだけれど、それを意識して日々を暮らしてゆくのって結構大変。

人は感情の生き物である。なるべく楽してわがままを言って対価を得たいものである。

きっとこういった感情をもっている人の方が多い気がします。

僕は思います。こういった感情を抱いている大多数の人達によって社会が形成されているのだとしたら、僕達に対して社会が生き方を希求し、それを僕たちは無意識に選択しているのだと思う。

もし、経済が1987年と同等になったら、人はやはり個人の幸福に気をもってゆくと思う。また、2008年と同等になったら、社会の幸福に気をもってゆくと思うのです。

そう考えると、少子高齢化や過疎化、核家族化、都市集中等の社会問題というのは、僕たちが無意識に望んだ形なのだから、どうするんだどうするんだと目くじら立てても仕方がないようにも思います。

そう考えると、平等な幸福論を定義するなら、とても消極的だけれど「利益をそこそこに分配する」「現状を耐える。そして楽しむ。」しかないように思うのです。

そして、出演者の彼女たちはそれを実践しているからこそ、あの場に選ばれたのだし、輝いていたのだと思ったのです。






コメントを投稿