東急東横線と大井町線が乗り入れる自由が丘駅の西口を降り、ひかり街デパートを通り過ぎると、熊野神社の森の横に小型の体育館のような建物が見えてくる。武蔵野興行系の名画座「自由ヶ丘武蔵野推理劇場」(1951~84年。86年に改装後04年まで継続)である。
ここは基本的には洋画の2本立てだったが、時々邦画も上映していた。その不思議な館名は、社長がミステリー好きだったからとか、当初はミステリー映画の上映が多かったからなど、諸説あるようだが定かではない。まあ、それでもいいじゃないか、その謎もまた“推理劇場”たる由縁ということで。
1976年、俺は港区にある私立の男子高校に入り、都内のみならず東京近郊からやって来たたくさんの友と出会った。彼らはさまざまなカルチャーショックを与えてくれたが、中でも、T(同じ名字のやつがもう一人いたので、俺たちは彼を、名前の“ジロー”の方で呼んだ)のことは忘れられない。
なぜなら、ジローこそが、自由ヶ丘武蔵野推理劇場を教えてくれた張本人だったからである。彼の家は大岡山にあり、武蔵野推理劇場には歩いて行けた。つまり俺にとっての荏原オデヲン座がジローにとっては武蔵野推理劇場だったのだ。
ジローとは初顔合わせの自己紹介で、互いに映画好きだということを知って意気投合し、Nを加えた3人で映画同好会に入った。一つ年上の兄がいたこともあり、ジローの映画の好みはどこか大人びていた。
新宿アートビレッジにオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(41)を一緒に見に行き、「恋愛映画でも、いい映画なら、男同士で見ても恥ずかしくないぞ」と力説され、テアトル銀座で『ある愛の詩』(70)を一緒に見たりもした。何だか急に大人になったような気分にさせてくれたのだった。
話を武蔵野推理劇場に戻そう。76年4月26日、初めてジローと訪れた武蔵野推理劇場のプログラムは、『明日に向って撃て!』(69・再)と『オリエント急行殺人事件』(74)という組み合わせだった。
『オリエント急行~』とは、さすが“推理劇場”だと思ったが、次にここで見たのは、チャップリンの『キッド』(22)とミュージカル大作『サウンド・オブ・ミュージック』(64)。うーん館名との関連性が分からないと不思議に思った記憶がある。
ところで、むき出しのコンクリートの床は底冷えがし、尻型にへこんだいすは座ると痛い上にキコキコと音が鳴る。外部の音(学校のチャイムなど)もよく聞こえ、トイレは狭くて臭い、という劣悪な環境にもかかわらず、なぜか俺は武蔵野推理劇場が気に入った。
映画館を選ぶ際の基準としては、そこに行き着くまでの距離、交通の便、設備、広さ、建物の新古、客層…などさまざまな条件が挙げられるが、例え、どんなにいい映画を上映する映画館であっても、自分とは相性が悪い、肌に合わないという所がある。要は、その映画館が好きか、自分に合うか、という好みの問題で、これは理屈では説明できないものがある。
もちろん、高校への電車通学の途中に自由が丘があったこと、また、ここのプログラムの良さや、3本見るのはきついが2本ならちょうどいいという時間的な利点もあったが、70~80年代初頭の自由が丘は、現在のような“おしゃれでハイソ”なイメージからはほど遠く、場末の商店街のような雰囲気がまだ残っており、男子高校生にとっても過ごしやすい街だったのだ。
ところで、俺を武蔵野推理劇場に誘ったジローは、高一の夏休みを境に登校拒否に陥り、学校に来なくなってしまった。それ以後、武蔵野推理劇場には、Nと一緒に、あるいは自分一人でぴあを片手に訪れることになる。(つづく)
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