『少年時代』 (90)(1991.2.9.)
戦時中の少年たちを描いた話と聞いて、またその時代を生きた今の大人たちが思い入れたっぷりに作った自分勝手な“時代劇”を見せられる気がしたし、TVでやたらと流れるCMにもいささか辟易させられ、評判を耳にしながら今まで見ずにいた。
そんな訳で、ビデオで見るという気楽さも手伝って、少々意地悪な先入観を持って見始めたのだが、これ大間違いだった。今までこの手の話に付きものだった“特別な時代の子どもたち”という描き方が抑えられ、誰もが通る少年時代の一断片として見ることができた。従って、時代こそ違え、自分の少年時代と重なって感情移入することもできたのだから驚いた。
例えば、ガキ大将への復讐は自分もやられたし(もちろんこの映画のガキ大将のような毅然さは自分にはなかったが…)、 別に憎くもないのに相手をいじめることでしか自分の存在をアピールできないもどかしさは子ども心にも感じていた。そうした今にして初めて分かる悔いみたいなものをちょっと切なく振り返らせてくれたのだ。
加えて、これは甚だ個人的な思いなのだが、河原崎長一郎演ずる寡黙だがやさしいおじさんに自分自身の亡くなった田舎の伯父の姿が妙に重なって見えて、別れの場面では井上陽水の主題歌の効果もあって不覚にも涙があふれた。
そういったさまざまな出来事を思い出させた大きな理由は、いつの時代にも子どもだけが持つ一種特別な感情や世界というのは相通じるものがあるという、当り前だが描くのが非常に難しいテーマを、大人の目から見た回顧ではなく最後まで子どもの目を通して描き切ったところにあるのだろう。
実際、スタッフは子どもたちのオーディションにかなりの時間を裂いたと聞くし、先日の岡本喜八の『大誘拐』(91)同様、ちゃんとした人たちがきちんとした映画を作ればまだまだ日本映画も捨てたもんじゃないという思いが込み上げてきて、見終わった後、思わずうれしくなってしまったのである。
ところで、この話には藤子不二雄Aの原作があり、さらにその漫画版まであるのだから、全てが脚本の力とは言えないが、同時代を描き、自分のスタイルに凝り固まり、しかも大人の回顧劇にしてしまった倉本聰のドラマ「失われた時の流れを」(90)に対するジレンマを奇しくもライバルの山田太一が解決してくれた格好になってしまった。
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